第32話ぼくとパトカーさんとちょっとだけおまわりさん
「じゃあ、行ってくるから」
おまわりさんはそう言って、交番を出て行った。
初夏の陽射しは、暑くもなく寒くもなくて、時折涼しい風が吹き抜ける、あまい味がする。
私服の後ろ姿を見送って、おまわりさんが角を曲がって見えなくなるまで待った。最後に一回振り返ったおまわりさんに、手を振る。そうして、ぼくはくるりと踵を返して、交番に戻った。
今日のおまわりさんは、ナントカいう所までなにかの手続きに行くらしい。詳しく話していたような気もするけど、ぼくはすっかり失念してしまっていた。
夜まで帰らないと言っていて、冷蔵庫には夕飯にするようにと、コロッケとサラダを入れて行ってくれた。
夕飯の心配もないわけで、ぼくはこの半日間をとてもたのしみにしていたのだ。
交番の車庫は、建物の内側から入ることのできる扉がある。
そこから、ぼくは車庫の中に入ると、静かに佇むパトカーさんへと向き合った。
つまるところ、ぼくとパトカーさんが二人っきりの半日間なのだから。
「ふ…うふふ…へへ…」
ぼくは、にこにこしながら、ワックスがかけられたばかりの、パトカーさんのボンネットに手のひらをくっつけた。車庫の蛍光灯に照らされて、艶めいた車体が、ガラスが、赤色警告灯が、ぼくの目の前にいる。
つるつるですべすべで、ひんやりしたそれは、固く確かな手ごたえを持って、その内側にパトカーさんの内部機械を隠していた。
複雑な機構を理解することは、ぼくにはかなわないけれど、重厚な鉄の塊は、いくつものパーツに分かれていて、絡み合うように、けれどしっかりと組み合って、一個体を形成しているのだ。
みっしりと詰まった重たい内側には、パトカーさんのかけらがいっぱいだ。
それは、さながらいきものの身体を形作る内臓ないし、骨格や神経のようだ。ガソリンという血液、それを燃やして運動するべく、十一代目パトカーさんが搭載している、歴代最後の直列六気筒エンジン。パトカーさんの心臓だ。
ボンネットに耳をつけても、今はとても静かで、けれどいつだって、あの音を立てて身体を震えさせ、走り出すのを待っているのだ。
静かで穏やかなパトカーさんも、ぼくだいすきだ。ぴったりと頬をボンネットにつけて、しばらく、冷ややかな肌にぼくの体温を与えた。腕を伸ばして、きらきらのライトを触る。
身体を起こしてパトカーさんの目を覗く。
パトカーさんの眼球は、絶対にぼくをうつさない。だから、安心して見つめていることができる。
美しくカットされたダイヤモンドのような、目の中。きらめく光の乱反射。たくさんの澄んだ水晶が、パトカーさんの目の中に住んでいる。
星の欠片と見紛うほどの、まばゆい煌めきの祭典。うっとりと見つめて、今度はパトカーさんのエンブレムにも触った。
よく、金色のエンブレムに取り替えた車さんがいるけれど、あれはたびたび内装も相まって下品になってしまうこともあるを
けれど、金色の旭日章は、下品さなんて微塵も感じさせない、美しくて気高いものをまとって、そこにいた。
昇る朝日とその陽射し。パトカーさんがもつ小さな太陽。
東天に昇る、かげりのない、朝日の清らかな光。その言葉そのままに、パトカーさんは、一切その美しさを翳らせることなく、ここにいるのだ。
その旭日章を乗せたグリルを触る。
銀色の複雑なかたちをしたグリルは、言わずもがなひんやりとしていて、そのなめらかな肌にぼくは思わず唇をつけた。
舌を絡めて、グリルのいっぽんを味わう。ぺろぺろとミルクを飲む仔猫のように、けれど、ちゅーの代わりのつもりで、ぼくはその行為を続けた。
舌から体温を吸われ、グリルがほんの少しあたたかくなる。
パトカーさんは、気持ちよさそうにしている。今度ぼくがパトカーさんを洗う時は、このグリル一本一本も、きれいに磨き上げて、澄んだ空すら映し出せるようにしてあげたい。
顔をあげると、旭日章がぼくを見下ろしていた。
暫し旭日に見とれて、ぼくはまたボンネットの上に半身を預けた。
少し眠たくなってくる。
けれど、半日パトカーさんと二人っきりなのに、お昼寝してしまっては少し勿体無い。パトカーさんのボンネットでお昼寝をするのは、それはそれは魅惑的であるのだけど。
ぼくは身体を起こして、パトカーさんのボンネットをこんこん、と、ノックした。
「一緒におやつを食べましょう…!」
ぼくはそう言って、車庫を出て、台所へ向かう。冷凍庫の中には、今日のおやつのアイスクリームが入っているのだ。
スプーンとアイスを持って、車庫に戻る。
「ちょっと高くておいしいやつなんですよ…。パトカーさん…」
パトカーさんが目を細めて、ぼくがカップを開けて中身をスプーンでほじるのを見ている。
おすそ分けしてあげたいけれど、パトカーさんはどこからアイスを食べられるのだろうか。
冷たいアイスを口に入れると、すぐにとろけて、喉の奥へと流れていく。綻んだぼくの顔を見て、パトカーさんが少しだけちょうだい。と言うので、ぼくはパトカーさんのボンネットに、ひと匙、アイスを落とした。
てん、と、小さな音を立てて、アイスが落ちる。
ボンネットの上でゆっくりととろけていく。パトカーさんは嬉しそうだ。
もうひと匙、ボンネットに落とす。とろけたアイスが、ボンネットの黒い部分に白い線を描こうとする。
ぼくは、ごくりとつばを飲んで、ボンネットに舌をつけた。
アイスで冷やされたボンネットは、口当たりがよくて、おまけに甘い。
ぼくのだいすきなバニラアイスの味と、パトカーさんの味が混ざっている。
舌を這わせてパトカーさんを味わう、少しいけないことをしているような、そんな気持ちすら、たまらなくおいしいのだ。
ふた匙ぶんをすっかり舐め終えてしまうと、もう少しパトカーさんをお皿にして食べたくなって、ぼくはアイスをほとんど全部、パトカーさんにあげてしまった。
それを、ぼくはまた、丁寧に舐めとっていく。
冷たい金属の車体。柔らかくて甘いアイスクリーム。
ぼくの息を受けて、一瞬ボンネットが曇り、すぐに晴れていく。パトカーさんの味は、とても薄いもので、アイスクリームに紛れてしまう。甘さの中に微かにある、パトカーさんを求めて、ぼくは何度も舌を這わせた。
舐めそびれたアイスが、身体を削りながらボンネットを滑っていく。それをぼくの舌がつかまえる。
とろけたアイスクリームで線を描かれたパトカーさんは、奇しくも煽情的で、ぼくはパトカーさんの身体を舐めながら、むずむずとした気持ちを感じていた。
それに気づいたパトカーさんが、グリルでぼくの下半身をとんとんと触ってくる。
布越しに感じる誘いに、ぼくはもう少しだけ抗おうと腰をくねらせた。
じゃり、と、コンクリートの床にスニーカーの底がすべった。
パトカーさんに半分体重を預けていたぼくは、パトカーさんのバンパーで強かに鳩尾をぶつけた。
「あっ…ぁ、ぐぅ…」
ごぷ、と、喉の奥からしめっぽい音がする。液体になってしまったアイスが、口からとぷりと落ちてしまった。
パトカーさんの黒い塗装にぱたぱたと落ちて、すべっていく。
ぼくは慌てて身体を丸めて、吐き出してしまったアイスを啜った。
パトカーさんが楽しそうにぼくを見ている。
「へへ…えへへ…パトカーさん…」
パトカーさんがぼくを見て喜んでくれたのがたまらなく嬉しくて、ぼくはボンネットに腕を広げて、顔をくっつけた。
何度も何度もちゅーをして、ボンネットを舐める。顔を上げると、広いフロントガラス、大きな昇降機、そして赤い警告灯が目に入った。
フロントガラスの中には、黒い革貼りのシートが並んでいる。薄暗くて、暖かそうなパトカーさんの内側。
ぼくは起き上がり、パトカーさんの中に入れないだろうかと思って、ドアグリップを握った。
かこん、と音を立てて、呆気なくドアが開く。パトカーさんはぼくを中へ迎え入れてくれた。
「パトカーさん…おじゃまします…」
ぼくはお辞儀をして、靴を脱いだ。
パトカーさんの助手席に乗る。
ぼくの体重を受けて、ほんの少しパトカーさんが揺れる。
ドアを閉めると、静かだった世界はもっと静かになって、パトカーさんとぼくだけの世界ができた。
完全に隔離された、この素晴らしい世界で、ぼくは大きく息を吸った。
パトカーさんの内側は、外よりも暖かくて、母胎で身を丸めているような、安心感をぼくに与えてくれる。
芳香剤の置いていないパトカーさんの内側は、パトカーさんのにおいで満ちていた。
たまにおまわりさんからもする、パトカーさんのにおい。
ぼくがそう言って、おまわりさんに抱きついてにおいを嗅ぐと、おまわりさんは困ったような顔をしながら、したいようにさせてくれたのを思い出した。あの時はまるて、おまわりさんがパトカーさんになったみたいで、パトカーさんがぼくを膝に入れて、優しく頭を撫でて、背中をとんとんと、叩いてくれたように感じられた。
あのにおいのおまわりさんなら、ぼくは死ななくても受け入れられたかもしれない。それはあくまで、仮定の話だけれど。
「はふ…」
助手席の背もたれに腕を回して、ぼくは息を吸った。
すべすべした本革のシートは、宵闇のように黒く、触ればどこかしっとりとしていて、そしてひんやりして気持ちいい。
いとしいいとしいパトカーさん。
ヘッドレストに鼻先を当てて、匂いを嗅ぐ。唇できれいな革を触る。
ほんの少しだけ舌を出して、ぺろっと舐めた。
パトカーさんは嫌がることなんてなくて、仕方のない子だね、と、一層強くぼくを抱きしめてくれる。
「ん…ぱとか、さん…ん…」
舌先でねこのようにパトカーさんの座席を舐める。味なんてしないはずなのに、ぼくはアイスクリームよりもあまく、そしてしあわせな味を感じ取った。
静かな世界で、ぼくがパトカーさんにすりつく衣擦れの音だけが聞こえる。
甘えて、甘えて、パトカーさんはそれを受け入れてくれる。
大きな身体でぼくを包んで、あらゆることからぼくを守って、しあわせだけを注いでくれる。
あたたかい、しあわせがぼくの中で積み上がっていく。積まれたしあわせは、春のにおいがした。
このまま、ぎゅうっと座席に身体をくっつけて、パトカーさんの体温に全てを委ねて、とろとろにとろけて癒着してしまいたい。
ぼくはパトカーさんになり、パトカーさんはぼくになる。
ああ、それはきっととてもしあわせなことなのだろうけれど、それではパトカーさんを見ることができなくなってしまうから、ぼくはくっつきかけたほっぺたをヘッドレストから離した。
代わりに、下半身を座席にすりつける。
柔らかいシートを服越しに感じて、ぼくの中のむずむずは、切ないものになっていく。
「パトカーさん…ぱ、とかーさん…」
すりつける度に、ぼくの身体はパトカーさんにやさしく触られて、頭の中が莫迦になりそうになる。パトカーさんの一緒なら、莫迦になってもいい。
パトカーさんのことだけを考えていたいから、今は莫迦になっていい。
パトカーさんはぼくだけをみていて、ぼくはパトカーさんだけをみている。
切ない気持ちを座席にすりつけて、とろけるような快感をぼくは追いかけた。
パトカーさんが背中を押してくれる。
そんなに。そんなにも、罪悪感も全部捨てきれるほどに、ぼくを追い込んでくるのだから、ぼくはパトカーさんを愛することしかできなくて、切ない気持ちがどんどん下腹部へ溜まっていく。
淀みもしこりもない、ただ安らかな快感を、ぼくは掻き集めて飲み込んだ。
「ん、…ぅあ……」
パトカーさんから流し込まれるしあわせに、身震いがする。
下着の中に、とぽりとあたたかいものが溢れてしまって、それと同時に疲労感なのか、とてもとても眠たくなってくる。
「ぱとかーさん…」
ぼくは、へなへなとその場にへたり込み、シートを抱きしめた。
すきですきでたまらないきもちを、言葉にすることはなんて難しいんだろう。
ぼくがことばを求めて、切なさすら覚えているのに、パトカーさんはきっと全部お見通しなのだ。
ねむたい気持ちをどうにかして落ち着かせようとしているのに、パトカーさんがゆっくりと座席を倒してくれた。
ここで眠っていい、と、パトカーさんが許可してくれる。
ぼくは、助手席のシートで身体を丸めて、満ち足りてなお注がれるパトカーさんのやさしさに身を委ねた。とろりとぼくの脳を押し包む、あたたかい粘液のようなものに、ぼくは抗うことなんてできなかった。
車庫の時計は、十六時を指している。たのしい時間はあっというまに過ぎてしまう。
でも、まだきっとおまわりさんは帰ってこない。
帰ってくる頃に目を覚ませたら…さませたら、おまわりさんに、パトカーさんになってもらって…パトカーさん…パトカーさん…おまわりさん……パトカーさん……
夢の中に引き込まれた入り口に、おまわりさんが立っていた。
交番に帰ると、彼の姿はない。
冷蔵庫の中身もそのままだ。俺はやれやれという気持ちで、外に出る。彼がいる場所の目星はついているので、たばこに火をつけた。居酒屋のマッチをすると、小気味好い擦り音の後、ぼっと燃え上り、リンの焼けるにおいがする。好きなにおいだ。
気に入りのたばこを咥えて見上げた夜空は、星が美しく、けれど不規則に瞬いて、とても静かだ。遠く、虫の澄んだ鳴き声が聞こえる。
風は凪いでいて、リンのにおいと、たばこのにおいがふわふわと俺の周りを廻っている。
渇いた喉に煙が沁みて、二回咳をした。
きっと車庫で眠っているだろう、彼のことを思う。
わざとパトカーに手を出せる状況を作っておいたのは、彼には伝えていないが、きっと彼は施錠されていないパトカーに気づき、なにかしらを中で行っているだろう。
愛情を余すことなくパトカーに伝え、喜びの中で。きっと。
彼の愚かな程の実直さを、俺はだいぶん、気に入っている。
願わくは、安らかであって欲しい。
たばこを消し、夜の寒さが彼へと届く前に、あたたかい布団の中に入れてやろうと、そう思って俺は車庫に向かった。
了
2016.5.20
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