第31話 はじめての殺人

警邏に行こうとアクセルを踏んだ。

緩やかに加速したタイヤが、大きなものを踏み越えた。その障害物に思い当たるものがあって、俺は、ため息を吐いて運転席から降りた。

車体の下には、彼がうずくまっていて、おかしな方向に曲がった腕を触りながら、小さく笑い声をあげていた。

轢いて欲しいならそう言ったらいいのに。そう、喉元まで出かけた言葉を飲み込んで、彼の首根っこをつかんで引きずる。

「あ…パトカーさん…あぁ…」

至極残念そうな声をあげながら、彼は俺に引きずられている。

交番の中に入り、居住空間へと移動する。引きずられた彼の身体が、段差でがつんがつんとぶつかっていたが、かわいそうだとは思わなかった。

「仕事の邪魔になるでしょ」

「え…あ…ごめんなさい…」

彼は折れた腕と、服についたタイヤ痕を愛しそうに触りながら、畳の上に転がっている。

すっかり警邏に出る気を無くしてしまった俺は、彼の隣に座ってたばこに火をつけた。

黙々と煙を吐きながら、彼を最初に轢き殺した時のことをぼんやりと思い出す。


俺はその日、はじめてひとを殺した。

警邏を終え、ガレージにパトカーを戻そうとした時のことだ。

タイヤに絡まる不可解な感触と、乗り上げる衝撃をハンドル越しに感じ、少し進んでしまってから、俺はパトカーを停車させた。

ガレージの中に転がっていたものでも轢いてしまったのかと思い、車体の下を覗いて唖然とした。後輪へと挟み込まれたものは、俺がガレージの中で管理しているものとは一切合致しなかった。

最近、交番の周りをちょろちょろしていた彼だ。見覚えのあるパーカーを着た姿が、腕をタイヤに引き込まれ、引っ張り込まれた皮膚を引きつらせ、顔面の皮を半分剥がれて、そこにいた。

彼の身体から流れ出たものが、打ちっぱなしのコンクリートに線を引いている。それは、とぷとぷと彼の傷口からこぼれ出し、傾斜を滑って外に這い出ようとしていた。

なぜこんなものが?これは彼なのか?俺は彼を轢き殺したのか?ぴくりとも動かない、悪趣味なオブジェじみた彼の遺体を前にして、俺は混乱し尽くした。

どうしたらいいのか全くわからず、慌ててガレージのシャッターを閉めた。夜の帳を、シャッターで遮って、誰からも見られないようにしてしまった。

それは、完全な隠蔽だった。

瞬く星にも、とっぷりと雲に身体を沈めた朧月にすら、見られてはいけないもののような気がしていた。

隔離されたガレージで、俺は彼の死骸と対峙した。

パトカーの排ガスのにおいに混じって、吐き気を誘う血臭が、じわりじわりと濃くなっている。俺はうっと声をあげて、近くにあったバケツをつかんだ。

プラスチックのバケツの中に、吐き出せるだけの胃袋の中身を注ぎ込み、俺は泣きそうになりながら、白い手袋で口元を拭った。

目を逸らしていたいのに、使命感が断ち切れず、彼の死骸を確認した。

凄惨な事故現場の映像を思い出す。

あまりに脆く引きちぎられた人体は、うっかり昆虫の手足を折り取ってしまった時を思い出す。

巻き取られた腕は、軟体動物のように曲りくねり、ゆるく開いた指先が地面を指している。指先からは今も尚、血潮が雫となって垂れ落ちている。

皮を剥がれた顔面は、赤色の筋肉と引き裂かれたくちびる、その裂傷から白い歯を覗かせていた。

見知った顔に半分だけグロテスクなパーツを組み合わせたような姿は、まるでできの悪い合成写真のようだった。

手袋の指を噛みながら、なぜ気づかなかったのかと嗚咽を漏らした。俺は後方を確認したはずだ。

なにもいなかったと、確認している。

ライトに照らされたガレージを、俺は確かに、あのコンクリートの床に一切の障害物がないと目視したはずなのだ。

「俺じゃないよ…」

奥歯が噛み合わず、かちかちと音を立てる。胃液で焼けた咽頭の壁がからからに干からびて、掠れた声しか出せなかった。

俺であるわけがないのだ。こんなに全身が粟立つような死に方をして、彼は悲鳴ひとつあげていない。轢き殺したのならば、もっと大きな物音がするはずだ。殺したのは俺じゃない。

けれど仮に彼がここに倒れていたとして、それを俺が轢き潰したことになんの影響があるのか。結果はなにも変わらない。

ここに死体があって、俺がいる。

「はぁっ…はぁっ……」

視線を逸らした間に、彼の死体が消えてなくならないだろうか。これは悪い夢ではないだろうか。

何度薄暗がりの隙間に視線を外しても、パトカーの後輪に挟まった、彼の遺体は消えてはくれなかった。

どろりと濁った目が、瞼を閉じることも叶わず、俺のことを見ている。

真っ黒い目玉が、俺をじっと見ている。

咎めることもなく、なんら意思を伝えることもない、死んだまなこが俺を見つめている。涙が分泌されなくなった眼球は、ゆっくりと、けれど着実に干からびていき、腐敗していく。

俺は右手の手袋を外し、彼の隣に座り込むと、凝固していく体液に触った。

ぬとりとした感触が、繊細な指の神経を伝って脳へと伝わる。コンクリートに落ちた血餅が、表面に水分を浮かせている。ひとの血は、こうして固まっていくのかと、随分と場違いな感想が頭を巡った。

彼の頬を触る。冷ややかで、けれど確かにひとの皮膚である、吸い付くような手触りが手のひらに伝わった。片目を閉じさせたが、皮膚を剥がれた側は、どうすることもできなかった。

どうしたらいいのかわからなかった。

轢き逃げをした犯人も、こんな気分なのだろうか。混乱し、適切な処置をすることができないのだろうか。

救急車を呼ぶことも、警察を呼ぶことも、まるで頭から抜け落ちてしまっていた。

ただ、どうしたらいいのかわからず、俺は彼の死体に触り、どうにかして生き返らないかと祈り続けていた。

手袋ごしに指を噛む。頭の中は、未だ混乱の渦中にいた。

憔悴していた。

俺は、この短時間で恐ろしく精神を摩耗させ、体力も削ぎ落とされていた。

警邏から戻ったのは何時だっただろうか。日付が変わるから切り上げようと思ったことを記憶している。

腕時計の針たちは、一時過ぎを指していた。一時間、こうしてなにもできずに彼と見つめ合っているのだ。

彼の死体をパトカーから引き剥がし、せめて床に寝かせてやろうとも思ったが、彼の身体は、パトカーのタイヤに絡め取られ、同化しようとしているかと思う程、強く張り付いていた。

パトカーの、車体の下にある真っ黒な影が、重油のように重く見えた。それがずるずると這い寄り、彼の身体を奥へと引き込んでいくのではないか。

そして、憔悴しきった俺も、その影に食われてしまうのではないか。

恐ろしい想像ばかりが俺を苛む。目を開ければ彼がいる。

彼の血はすっかり乾いてしまっていた。パトカーの車体に髪の毛の破片を張り付かせ、ねじくれたままだった。

ただの骸が、何度目を開けても、これは夢ではないと俺に語りかける。

たばこをポケットから取り出し、ジッポライターで火をつけた。

小気味良い音も少し耳障りで、気に入りのたばこの銘柄もひどくまずいものに思えた。

たばこのにおいを掻き消すような血のにおいで、まるで血液を吸っているようだった。

酸欠になった頭がひどく重たい。

俺は項垂れて、コンクリートにたばこを押し付けて火を消した。

制帽がずるりと頭から滑り、つばが俺の視界を暗くした。目を閉じたかった。

明日目を覚ましたら、きっと冷静に対処できるはず。

そう思い、俺は重く垂れる瞼に抗うことをやめた。

ガレージで、死体と眠る。


「おまわりさん…起きてください…。こんなところで寝たら、風邪をひきますよ…」

ゆさ、ゆさ、と、控えめに誰かが俺の身体を揺すぶっている。

俺は目を開いた。

彼が立っていた。

「きみ…あれ…?俺は…夢…いや、きみは、昨日…」

「死んでたと…思いますよ…」

彼は忙しなく視線をあちこちに向けながらそう言った。

俺は彼の身体に手を伸ばし、ねじくれ曲がっていた腕がきちんと真っ直ぐなのを確認した。彼はひとに触られるのが嫌そうにしながらも、付き合ってくれた。

「よくわからないけど…大丈夫なんで…。ぼく死んでも平気だから…」

彼はぼそぼそと俺に言う。

パトカーの下に満ちていた血痕は、確かに無くなっていた。車体に張り付いた彼の毛髪は残っていて、矢張りあれは夢ではなかったのだと。

俺は彼の言葉を信じることしかできなかった。

彼の話は、拙いものだったが、納得するしかないことばかりだった。

なにより、俺は彼が死んでいなくて困ることはなにひとつなかったのだ。


「こんなことになるなんてなぁ…」

俺は、たばこの煙を吐きながら、独りごちた。彼は相変わらずタイヤ痕のついたパーカーに顔を埋め、喜ばしい声で笑っている。

あの時のひどい混乱から、こんなことになるとは思ってもみなかった。

死なない彼をそういうものだと受け入れてしまったし、そういうものであることを利用して愉しむことすら覚えてしまった。気がついたら、彼と暮らすことに楽しみを感じ、彼が隣にいないと落ち着かなくなっていた。

俺はこんなにも、適応力のある人間だったのか。

よくよく懐いた彼のことを今更手離す気にもなれなくて、惰性のままにすっかり居つかせてしまっている。

どこまでこうして、倫理に反した生活を送れるのだろうか。

俺は時々不安になる。

死なない彼と、死なない俺の行き着く先はまるで見えず、暗澹たるものに覆われている。

俺たちはどこまでいけるのだろうか。

窓枠に切り取られた空は、絵画のようで、どうせ彼と生きるのなら、額縁に隔離されたような変わらない世界で生き続けたいと思うのだ。


ぼくは、ほんの少しおまわりさんの気持ちを受け取りながら、パトカーさんのタイヤ痕にほっぺたをすりつけた。

おまわりさんは、世界を変わらなくして欲しいのかもしれない。

それなら、すこしだけ、ぼくは世界を切り取ることにした。

タイヤのにおいがするパーカーを抱きしめていると、ねむたくなってくる。

ぼくの切り取った世界の中で、おまわりさんはどう生きてくれるのだろう。

ぼくのすきなひとたちでできた世界は、きっとすばらしくてしあわせなせかいだ。






2016/5/5

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