ぼくとパトカーさんとおまわりさん

宮且

第1話ぼくとパトカーさんとおまわりさんと夏の日

「おはやうございます、パトカーさん…!」

朝露のおりた夏の朝。

じわじわと鳴く蝉と一緒に、ぼくはパトカーさんに朝の挨拶をした。

パトカーさんの車体は、今日も撥水が効いていて、玉のような雫がふるふると、朝日の下で群れになっている。

ぼくは、持ってきていたタオルを取り出して、パトカーさんに乗った水滴を拭った。

上から順番に拭いていくと、屋根から滑った雫が、フロントガラスへと流れ落ち、ワイパー下の排水穴へと抜けていく。

拭きあげるたびに、パトカーさんが喜ぶのがわかる。

気持ちいいですか?と聞いても、パトカーさんはじっと黙ったままだけれど、ぼくにはちゃんとわかるのだ。

すぐにタオルは、たくさんのつゆ玉を吸い込んで、ずっしりと重くなった。

「わぁ…」

手のひらにしたたる朝露を集めて、ぼくは歓喜の声をあげた。

「うふふ…」

手のひらから朝露を吸う。

砂埃を噛んで、前歯がしゃりしゃりする。

ぼくは口の中でパトカーさんの水滴を味わって、飲み込んだ。

食道から胃袋へと流れていくのが、なんとも言えず、タオルから絞り、飲み込むのを繰り返す。

まだまだ、ボンネットに乗った朝露を拭かなければと、口元を指で拭った。

よく絞られたタオルを持って、ボンネットを拭く。

つるつるした車体に左手をついて、せっせと拭いていると、後ろから声をかけられた。

「またこんな朝早くから…。今日はまだ拭いてるだけ?」

おまわりさんが眠そうにあくびをした。

「なんですか、悪いことはしてませんよ…!」

ぼくが反論すると、おまわりさんは肩を揉みながら、ゆっくりとパトカーさんの周りを歩く。

「鍵もちゃんとかかってるな…」

ぼくは、おまわりさんに構わず、車体を拭くことに専念する。

再び重くなったタオルを絞って飲んでいると、おまわりさんがなんとも言えない顔でぼくを見ていた。

「なんですか。あげませんよ…!」

「いらないよ…!?そういうの他のところでやらないでよ…!?」

「わけのわからないこと言わないでください…!浮気なんてしません…!」

ぼくの反論に、おまわりさんは息を吐いた。

缶コーヒーをすすりながら、またパトカーさんの周りをぐるぐる回っている。

ぼくを監視しているつもりなのかもしれないが、そんなことはしたって無駄なのだ。

ぼくは悪いことをしたくてパトカーさんに会いに来ているわけではない。

「ねぇ、パトカーさんおなかすいてません…?おまわりさん、ごはん食べに行った方がいいんじゃないですか…?」

おまわりさんは、またなんとも言えない顔をしてから、そういえば給油の時期だ、と言った。

「ガソリンスタンドに行きましょう…!お弁当を持って…!」

ぼくは、パトカーさんの水滴をペットボトルにうつしながら言った。

とぷとぷと小さな飲み口から、澄んだ水が滑り落ち、細かな砂埃を内側で巻き上げる。

「飲み物はあるので、後はおにぎりとかがあればいいですよ…!コンビニで買ってください、ぼくの分も…!」

「給油は行くけど、君は連れて行かないよ?」

「なんでですか…!ちゃんとおとなしくしてますから…!」

ぼくの悲痛な叫びは、なかなかおまわりさんには届かない。

パトカーさんとデートがしたいけれど、ぼくはパトカーさんを運転できない。

おまわりさんは、パトカーさんを運転できる。

だったら、ぼくとパトカーさんを連れて、ガソリンスタンドに行くのが道理のはずだ。

「大体今すぐ行かないし、一般の人をパトカーに乗せるなんてしちゃいけないんだって」

おまわりさんは、ぼくに手のひらを向けて、シッシッとやっている。

「行くとしたら何時くらいですか…」

おまわりさんが変な顔をする。

「昼過ぎかなぁ…。一番暑い時間だよ。熱中症になるから、そんな時間は出てこないでくださいね、善良な市民」

ぼくは、仕上げの乾拭きをしながら、おまわりさんに向かってイーッと反抗心を示しておいた。

パトカーさんが、すごく機嫌がいい。

なにも言わないけれど、今にも笑うように、エンジン音を鳴らしてくれそうだ。

ゆっくりゆっくりと気温が上昇していく。

ひんやりしていたパトカーさんの車体が、少しずつ熱くなっていく。

ぼくが、ビーチパラソルをパトカーさんの横に立てていると、おまわりさんが素早くパラソルを奪って、ぼくを巴投げで放り出した。

「ひどい…まだなにもしていませんよ…!」

「パトカーには、ビーチパラソル立ててやらなくてもいいの!」

パトカーさんだって、白と黒と赤があるのだから、光を集める分、黒いところはすごく暑く感じるはずなのだ。

おまわりさんはそこのところがまるでわかっていない。

ぼくは憤慨して、再度ビーチパラソルを立てようとおまわりさんに挑む。

激しい攻防戦は、やはりぼくには劣勢だ。

しかし、パトカーさんが応援してくれている。

負けられない。

三たび、おまわりさんに挑もうとしたところで、交番の中で電話が鳴った。

「電話ですよ…!早く出てください…!事件かも…!ほら…!」

「こっちも事件だってのに……ああっ、大人しくしてろよ!」

おまわりさんが交番に向かって走った隙に、ぼくは素早くパラソルを立てて、近くの立木を使って上手く固定した。

パトカーさんが、よくやったな!と言ってくれている気がする。

立木の位置が悪くて、パトカーさんのお尻しか守れなかったけれど、これで少しは涼しくなれるだろう。

おまわりさんは、まだ交番から出てこない。

ぼくは、パトカーさんに一度ぎゅっと抱きついてから、お昼過ぎに向けて準備をする為に、戦線を離脱した。


時計は正午を指している。

かっと照りつく日差しを避けて、ぼくは交番の陰に隠れていた。

お昼休みから、最初の十五分、おまわりさんは近くのコンビニに歩いてごはんを買いにいくことが多い。今日もそうであったようで、うだるような日差しの中を、げんなりした顔で歩いていく。

おまわりさんがいなくなったのを見計らい、ぼくは、パトカーさんのトランクを開けた。

お尻を守るパラソルのおかげか、中は思ったより暑くなっていなかった。

素早くトランクに入り、閉める。

ごちゃごちゃしたいろんな機材の隙間に身体をすべりこませるのだけど、時折、かたいなにかがぼくの背中にぐりぐりと当たる。

身体をよじって、どうにか丸まって一息つく隙間を作った。

ごそごそと動いて、体温があがったせいか、パトカーさんのにおいが、濃く感じられる。

すごく好きなにおいだから、ぼくは何度も深く息を吸った。

しばらくして、おまわりさんがパトカーさんに近づいてくる足音が聞こえる。

エンジンがかかる。

静かだったパトカーさんは、途端におしゃべりになって、楽しそうに体を震わせている。

ゆっくりと走り出すのがわかる。

ぼくは、パトカーさんの水滴をいれたボトルから、一口水を飲んだ。

パトカーさんの中で体を丸めて、パトカーさんから貰ったもので喉を潤して、パトカーさんの振動を全身で感じてパトカーさん。パトカーさんパトカーさんパトカーさんパトカーさんパトカーさんパトカーさんパトカーさんパトカーさん

頭がくらくらしてくる…パトカーさんに包まれているからだ…くるくる…パトカーさん…パトカーさんがくるくる…交差点をまがってまがってパトカーさんパトカーさんパトカーさん………


ぼくが体を丸めて呻いている間に、ガソリンスタンドについてしまったようだ。

エンジンは切られ、オイルタンクを開く音がする。

ぼくは慌てて、トランク内のケーブルを探り、開ける。

タッチパネルを操作していたおまわりさんが、ぎょっとした目でぼくを見ている。

支払いはクレジットカードだから、きっとレギュラー満タンだ。

「おまわりさん…!ぼくにパトカーさんにごはん、あげさせてください…!」

タッチパネルを触ったまま、固まっているおまわりさんの隣に立ち、給油ノズルを引き出すと、、パトカーさんの給油口に差し込む。

「パトカーさん…!おいしいですか…!よかったですね…!満タン…!満タンにしましょう…!」

おまわりさんは、僕を注意しようとしたみたいだけど、コンビニが併設されたガソリンスタンドで大きな声を出すわけにもいかず、そっとぼくを隠すような位置に立った。

がこん、と音が鳴ったのが、パトカーさんが満腹になった合図。

ぼくはノズルを引き抜き、先端からぽたりと落ちたガソリンを一滴、手に受けた。

「うふふ、つまみ食いですね…!」

ぺろっと舐めると、あの芳醇においが口内と鼻腔に広がっていく。

ノズルを戻しながら、はぁ…と、ため息を吐くぼくを捕まえて、おまわりさんはトランク…ではなく、後部座席にぼくを押し込んだ。

突然の腕力に驚いたぼくは、手足をばたつかせて暴れようとする。けれど、おまわりさんに向かって振り上げた腕には力が入らなくて、制帽のつばを指先で軽くはたいただけだった。

倒れたぼくを、パトカーさんが座席で優しく受け止めてくれる。

「あ…パトカーさん…!パトカーさん…!」

ふにゃふにゃとしながら喜ぶぼくのおでこに手を当てて、おまわりさんは舌打ちをした。

「ねえ、熱中症。すごく体温高いよ」

「へ…ぇ…?」

おまわりさんは、運転席に戻ると、クーラーを思い切りつけて、交番に向かってパトカーさんを走らせた。

仰向けになったぼくの身体は、確かにぐったりと熱くて動かせない。

さっきまで平気だったのに。パトカーさんに乗れたのに。

フェルト張りの天井を見ながら、ぼくは悲しくなってしまった。

パトカーさんが心配するのに。

ぐるぐる、フェルトの天井が回って、ぼくの意識もぐるぐる回って、パトカーさん……あついのにさむい…きもちわるい…




おまわりさんがぼくの頬を叩いている。

ぼくが目を開けると、蛍光灯の光を背負って、顔を真っ黒に塗りつぶしたおまわりさんが、ぼくを見下ろしていた。

きんきんに冷えた仮眠室で、ぼくの体には冷たいペットボトルがたくさんくっつけられている。

「危うく霊柩車に乗るところだった…」

おまわりさんが、はぁ…?と声を上げる。

「勘弁してよ…。幾ら死なないって言っても、死体を交番に持ち込むのやりたくないんだから…。誰かに見られたら懲戒免職じゃ済まないよ…」

「あー…すみません…」

ぼくは頭を振って、周りを見回す。

死んだぼくを交番に連れてきて、一応生き返るまでに腐らないようにと、冷やしたりしてくれたみたいだ。

ぼくはお礼を言って、ソファから降りた。

昼過ぎに死んだとして、今は日が陰っている。

ざっと五時間か六時間、ぼくは死んでいたらしい。

立ち上がってみると、難なく歩くことができた。

せっかくなので仮眠室の中をうろうろして戸棚を開けたり閉めたりしていると、おまわりさんに警棒で殴られた。

「いっ…ダァ…ァ…」

頭がぐわんぐわん音を立てる。ぼくは床に転がる。

側頭部が切れて、湧き出すように血が溢れ出てくる。

床を汚しちゃいけないと思い、鞄からタオルを出して頭にあてると、たちまち真っ赤になっていった。

脈拍に合わせて、頭の中ががんがんする。

おまわりさんは、その後数回ぼくを殴った。

痛くて痛くて、声も出せずに這いつくばるぼくに向かって、

「勘弁してよ…」と、泣きそうな声を漏らした。

おまわりさんなりに、いろんなことを心配してしまったらしい。

おまわりさんですらこうなのだから、パトカーさんは…と思い、ぼくは慌ててパトカーさんのところへ走っていく。

パトカーさんは、やっぱり口には出さないけれど、ぼくのことを心配していたみたいだ。

ぼくは、ボンネットに体をくっつけて、パトカーさんを抱きしめた。

血でべたべたの手が、白いボンネットを汚す。

黒い部分にも、どろっとした血が垂れてしまった。

有機物は塗装によくない。

あとできれいにしなきゃ、と思いながら、ぼくは、何度もパトカーさんに謝った。

ぼくの頭の出血はすぐに止まったので、血まみれのタオルを給湯室で洗わせてもらって、それで何度も丁寧に、パトカーさんを拭いた。

ワックスが剥げてしまったかもしれない。

それに、きっとルミノール反応がでるパトカーさんになってしまった。

これから先、パトカーさんは、ぼくの血痕を長らく所有することになるのだ。

それはそれで、悪くない。

「うふふ…うふふ…」

パトカーさんのすべすべの車体に体をくっつける。

「明日は、きれいに洗車して、ワックスかけてあげるからね…」

そう言ってパトカーさんに頬ずりするぼくを、おまわりさんは何も言わずに横に立って見ていてくれた。

でも、ぼくが顔をあげた途端に、

「気が済んだ?帰れっ、帰れっ!」

と、シッシッとやるので、ぼくはパトカーさんのトランクを開けてそこに帰ろうとする。

「公務執行妨害で逮捕するぞ…!帰れっ帰れっ…!」

ぼくの首根っこをつかんで、おまわりさんが意地悪く、逮捕をちらつかせてくる。

逮捕されたら、パトカーさんに会えなくなってしまうし、ぼくは善良な一般市民だ。

パトカーさんに顔向けできないことは、絶対にできないのだから、ぼくは諦めて、家に帰るしかない。人の弱みにつけこむなんて、おまわりさんはひどいひとだ。

歩きながら、携帯で天気を確認すると、むこう一週間の天気は晴れ。

明日はいい洗車日和になりそうだ。





初出20160109

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