第2話ぼくがパトカーさんとおまわりさんに殺してもらった夏の終わり
静まり返った世界を、誰にも見つからないように歩く。
背後の暗闇が少しおっかなくて、ぼくはだんだんと早歩きになっていた。
交番の赤いランプが見えて、ぼくはほっとしながら、併設された車庫へと近づいた。
今日はシャッターが開きっぱなしでぼんやりとした月の光が、パトカーさんの足元を照らしている。
真っ暗な交番には、おまわりさんの姿は見えない。
だいたい、おまわりさんががみがみ言わなければ、こんな夜中にパトカーさんに会いに来なくてもいいのだ。たまには、半日くらいどっかに出かけてしまってもいいと思うのだけど。
でも、薄暗い車庫の中で静かに鎮座するパトカーさんに会いに来るというのも、なんだか小説の中の逢引きのようで胸の中があったかくなる。
ぼくは、真夜中のパトカーさんに挨拶をした。
パトカーさんは黙ったままだけど、ぼくに挨拶ができて嬉しそうだ。
ぼくは、パトカーさんの周りをぐるっと回ってきれいな車体を見て、触った。
つるつるの車体に、少しだけ唇をつけて、舌を出して息を吐く。息でパトカーさんの黒が、靄にかかったように白く濁り、すぐに晴れていく。
ぼくが膝を折った視線のすぐ近くに、パトカーさんのドアグリップがあった。
つるんとしたドアグリップを軽く引く。
かこん、と、手応えがして、ドアが動いた。
パトカーさんに鍵がかかっていなかったのだ。
それを理解した途端、言いようのない興奮が、ぼくの身体を駆け上がり、体温がかっと熱くなる。
おまわりさんはいない。誰もいない。今は、ぼくとパトカーさんだけの秘密の時間だ。
不用心極まりないおまわりさんに、ちょっとだけ感謝して、ぼくはパトカーさんのドアグリップをもう一度引いた。
ぼくは、パトカーさんのドアを細く開けて、腕を差し込んだ。
軽く閉めると、腕がきゅっと挟まれてとても気持ちよかった。
今度は広めに開いて、勢いよくドアを閉じた。
重いドアに挟まれて、上腕の骨が軋み、肉を押し潰される痛みが走る。跳ね返った運転席のドアが、ぼくの右手にあたって止まった。
「あ゛ッ…ぐゥっ…」
折れてはいない。
ぼくは、じんじんする左腕を手のひらで押さえながら、パトカーさんを見つめて笑った。痛い。うれしい。パトカーさんがぼくを挟んで、ひっついてくれる。
もっと細くて、パトカーさんの金属の扉で容易く折れてしまうような場所を挟んだらどうなってしまうだろう。
ぼくは高揚と緊張に、汗を滲ませながら左手を差し出した。
指だけを差し込んで、思い切りドアを閉める。
左手の指は、パトカーさんのドアに砕かれ、変な方向に曲がった。
閉まりきらなかったドアが、跳ね返って開く。
「ひぐッ…う、ウゥッ…グヴゥっ…!」
ぼくは膝をついて、めちゃくちゃになってしまった指を触る。
骨折した指をいじくりまわす度に、脳天を抜けるような痛みが、ぼくへ雪崩れ込んでくる。
ぶるぶる震える左手首をつかんで、隙間に押し込み、また強く閉める。
「イ゛ギぃッ…!ヒィッ…ヒィ……パ、パトカーさんっ…い゛だいぃ…」
繰り返す度に、ぼくの左手はめちゃくちゃに砕かれ、手のような形をしたものになっていく。
細かく割れた指の骨が、骨の意味を成さなくなって、内側で肉に刺さって鬱血していく。
指先から這い上った痛みが、肩のあたりまで響いていく。
とうとう腕まで痺れて、挟むために腕を持ち上げることもできなくなってしまった。
これでは、大きく開いたドアが閉まるまで左手を上げて、今か今かと待つこともできない。
ぼくは考える。
どうしたら、パトカーさんともっと密着し、しあわせなことをしてもらえるのだろうと、視線を巡らせる。
交番の駐車場は、少し坂になっている。
ぼくは、パトカーさんの運転席に失礼して、エンジンブレーキを下ろした。
心臓をどきどきさせながら、じわりじわりと進むパトカーさんの前輪に左手を差し込んだ。
四方を向いた指が、ゆっくりとパトカーさんの前輪に巻き込まれていく。
「ヴッ…!ヴァァッ…!イ゛ッ…イ゛ダイッ…!パトカーさんッ…!」
めきめきと骨がパトカーさんに潰されていく。
内側から裂けた肉から、血が吹き出す。
ぼくの血と肉と骨を踏みながら、パトカーさんは、なだらかな坂を降りて行く。
轢き潰された左手は、ぐじゅぐじゅで、見るも無残、なんて言葉が丁度いい。
「グゥッ…ウゥッ…ウッ…。イタイ…イタイィ…」
ぼくの呻くような声を聞いて、パトカーさんが笑っている。
楽しんでくれているのだ。
痛みを発するだけの器官になったぼくの左手を、ゆっくりゆっくり轢き潰しながら、パトカーさんは楽しんでくれているのだ。
アスファルトとタイヤの隙間から指を引き抜きたくなるのを必死で堪える。
じっとりした残暑の空気の中で、脂汗を流しながら、ぼくはうめき声をあげる装置になったのだ。
潰れたぼくの肉片が、パトカーさんのタイヤの溝に入り込んで、更にその隙間にぼくの血が入り込んで、タイヤの奥まで染み込んでいけば、パトカーさんとひとつになれたことに近いんじゃないだろうか。
荒く息を吐いて、うごめくぼくの頭の横に、黒い靴が、じゃりっと砂を踏んで現れた。
「あ゛っ…あ…おま゛っわりさっ…!」
怒られる、と思った。
なのに、おまわりさんはぼくの隣にしゃがみ込んで、またわけのわからない遊びを、と呟いた。
潰れたぼくの左手をちらっと見て、おまわりさんは状況を把握したらしい。
うわぁ…と声をあげて、嫌そうに首を振った。
けれど、はた、と
「ねぇ、もっと潰されたい?」
ぼくの左手を靴のつま先でつつきながら、意地悪そうな声で聞いてくる。
「パトカーさんに…?潰されたいに決まっているじゃないですか…!」
ぼくが泣きそうになりながら言うと、おまわりさんは、ドアグリップに触った。
「えぇ…鍵開いてたの…。あぁ、だから動かせたのか…。時間経ったらかかるはずなのに…」
おまわりさんは、するっと運転席に乗り込んで……なんと土足で…!
「頭、自分で避けてよ。タイヤ滑りそうだから」
エンジンのかかる音。
どきどきする。まさか、こんなことになるなんて思ってもみなかった。
あのがみがみうるさいおまわりさんが、なんの気まぐれか、こんなことをするなんて。理由を聞くよりも、ぼくの頭の中は、パトカーさんに轢いてもらえるという事実に舞い上がって、それだけしか考えられなくなっていた。
エンジンの回転数が上がる音がした。瞬間、パトカーさんが一気に三十センチほど前進した。
「イ゛ッ…!ヒィギィィィィッ…!」
パトカーさんのタイヤは、ぼくの手首を容易く越えて、肘の関節を押し潰した。
パトカーさんのタイヤの下で、組み合った骨がみしみしと音を立てている。
もう抜こうと思ったって、腕は抜けない。
パトカーさんがぼくの腕をつかんで、離れないように握りしめているみたいだった。
ぎゅいん、ぎゅいん、と、小刻みにエンジンの回転数が上がる。
その度に、パトカーさんはほんの少し進み、力不足で後退して元の位置に戻る。
ぼくの肘は、パトカーさんが往復するたびに、めちゃめちゃにプレスされていく。
ぼくは大声を出さないように右手の親指の付け根を噛みながら、パトカーさんに轢き潰されるのをぞくぞくして待っている。
また、パトカーさんが前進する。
今度は、肘を越えて肩関節奥まで、がっぷりとタイヤとアスファルトの隙間に咥え込まれた。
丹念にプレスし直されるたびに、肩の関節はぎしぎしと音を立てる。
重なり合った骨と骨がはずれて、割れていく。
肩の上で、タイヤが左右に首を振る。ぼくの関節を壊そうとしているのだ。
パトカーさん。
パトカーさん、そんな。
そんなにぼくのことを。
パトカーさん。だいすき。
だいすき。
肩を越えて肩甲骨に、パトカーさんが乗る。腕は解放されたけど、動かすことなんてできなかった。
細い肋骨は、パトカーさんの体重でアスファルトに押し付けられ、めきめきと音を立てている。
肺が圧迫されて、息ができない。
酸素が欲しくて口を開けると、プールで水を飲んだ時のような絶望的な苦しさがぼくを襲った。吐いた息には真っ赤な血が混じり、ぼくは溺れていく。アスファルトに顔を押し付けながら、ぼくは溺れている。
それでも、パトカーさんは、ぼくの体を轢き直し、踏みにじるようにタイヤを振る。
ぼくは今、きっとぼく以外はなったことのない、パトカーさんとアスファルトの隙間にいる人になっているのだ。
パトカーさんの、はじめてだ。
はじめてをぼくが。
ぼくが。パトカーさんの。
パトカーさん。かわいいね。
パトカーさん
………………!
目を覚ますと、夏の日に寝かせられていた仮眠室の中だった。
おまわりさんは、スマホを片手にゲームをしている。
なんて不良警官だ…!税金泥棒…!
ぼくが体を起こして、おまわりさんを睨んでいると、おまわりさんもこっちを向いた。
「服は今、乾燥機回してる。血は拭いといたけど、…そろそろ帰る?」
見ると、ぼくは変な柄な上にぶかぶかのTシャツとハーフパンツを履かされていた。おまわりさんが勝手に着替えさせたのだろう。
服を脱がせて!ぼくの知らないうちに!
乾燥が終わったのだろう、洗濯機がおまわりさんを呼んでいる。
席を立ったおまわりさんの後姿を見て憤慨する。かけられたタオルケットをぎゅっと握ると、左手の傷が、まだ完全には治っていなくてひきつった。
「もう夜明けだよ…。寝損ねちゃった…。ほら、帰った帰った!服はまた返してくれればいいから!」
どこかのお菓子屋さんの紙袋に突っ込まれたぼくの服を、おまわりさんが押し付けてくる。
乾燥機を出たばかりであったかい。
落ちきらなかったぼくの血糊が、シャツの袖にしみになっている。
交番を追い出されたぼくは、紙袋を持って、パトカーさんのところへ急いだ。
パトカーさんの右前輪!
ぼくが挟まれていた場所だ。アスファルトは、おまわりさんが水を流したのか、濡れていて、けれど落ち切らなかったものが、うっすらと鉄のにおいをさせていた。
顔を出してきた朝日を頼りに、タイヤを覗き込むと、パトカーさんのタイヤの溝には、ぼくの骨と肉のかけらが挟まっていた。
ぼくはなんとも言えない嬉しさに顔を綻ばせながら、もっと奥に入るようにと、骨を指で押し込んだ。
赤黒くなったアスファルトを、また後で流しにこよう。
ぼくは紙袋を抱いて、ぱたぱたと家に帰る。つくつくぼうしがひと鳴きして、夏を終わらせようとしている朝だった。
了
初出20160111
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