第4話俺が彼についた嘘
「こらっ、そんなところにいたらまた轢き殺すよ!」
朝から大きな声を出すというのは、存外に疲れるものというのを、彼は知らないのだろうか。よくよく考えると、彼が腹から声を出した時なんてないし、いつだって、語尾が消え入りそうな話し方をしている。
俺の大声に、彼は少し怯えて、けれど、轢き殺すという言葉に反応して、嬉しそうに笑った。
轢かれるとけがをするから、死んでしまうかもしれないから。という世間一般の常識的な注意喚起が、全くもって彼に当て嵌まらないというのは、頭が痛くなる。
どちらかといえば、彼はパトカーに轢かれて大喜びするし、むしろ轢いて欲しくて、こうして走り出すパトカーを待っている方だ。
「ねぇー、警邏行くんだって。どいてよ」
「け、警邏…は、ぼくは行けないから…。ここで…タイヤが動くのを待とう…かなって…」
パトカーの前で体操座りする彼が、たどたどしい口調で俺に言った。自主的に動けと言っても、頑として動かないところだけは、彼の意固地さを感じる。是非、他のところで、その主体性を発揮してもらいたいのだけど。
俺は彼を羽交い絞めにして、無理やり立たせると、交番まで引きずっていった。にゃあにゃあ鳴くような声で、パトカーさんから離れたくないと喚いていたけれど、俺の業務に支障をきたすようなことを承知するわけにはいかないのだ。
「三十分くらいで戻るから。誰かきたら…こないだろうけど…きたら、三十分くらいで戻りますって言っといて」
「えっ…ええっ…!?知らない人がくるんですか…!?そ、そんな…嫌です、一人にしないで…!」
折角交番まで運んだのに、彼は交番から飛び出して、パトカーのボンネットに抱きつく。
「いやです…!いやです…!ぼくも行きます…!おとなしくしますし、誰かに見られないようにしますから…!」
引き剥がしても、拘束を緩めれば、すぐにまたパトカーの前に戻ってしまう。いっそ椅子にくくりつけて、交番の倉庫に放り込んでやろうとも思ったが、さすがにそれは非人道的すぎる選択だろう。
けれど、これじゃいつまで経っても警邏に行けやしない。
「警邏時間は、俺とパトカーさんのデートの時間なの。邪魔しないで」
力が抜けて剥がしやすくなるだろうと思ってついた嘘だ。
だのに、ボンネットに半身を乗せた彼は、大きく目を見開きながら振り向いて、口をはくはくさせながら、言葉を接げずにいる。
俺とパトカーを交互に見て、えっえっ、と驚きとも悲しみともつかない声を上げた。
「えっ…あっ…あ、パトカーさんとおまわりさん、つきあって…?え…?」
「そうそう、つきあってるの。婚約してて、もうじき籍も入れる。だから、デートの邪魔しちゃ駄目だよ」
俺がそう言うと、彼は手のひらで顔を覆いながら、何事かぶつぶつと繰り返した。指の隙間から、まるく開いた目玉が覗き、ぐるぐると黒目が動く。
「あ、あの…その…結婚…おめでとうございます…!あぁ…でもそんな…パトカーさん…ぱ、パトカーさん…!うっ、ううっ…そんな…うっ…ひっ…」
彼は身を翻して、逃げていく。
見えた横顔は、真っ白なほどに青ざめていて、もしかしたらとんでもない嘘をついてしまったのかと、俺は狼狽えた。
けれども、警邏には行かなければならない。時計を見ると、予定の時間はとっくに過ぎている。
人が苦手な彼が、公園だとかで悲愴に暮れているとは思えないし、きっと家に帰ったのだろう。警邏の帰り際に彼の自宅に寄って、さっきのは嘘だよと言おうと、そう思った。
パトカーに乗り込み、エンジンをかける。
冷え切った車体を震わせ、秋の冷たい風がエアコンから流れてくる。
じきにエンジンが温まれば温風が出るだろう。
帰る頃にはすっかり温まったパトカーに乗せて、交番に戻ってやれば、彼の機嫌も元どおりになるだろう。
ハンドルを回し、ゆっくりと住宅街、駅前や、商店街をすり抜けていく。
一時停止も信号無視も、昼間からの酔っ払いもなく、スムーズにルートを回り終えて、彼の家に向かう。
いつだったか、彼がたまたま持っていた保険証を記録しておいたのが幸いした。
世間一般では、十二分に不審者の枠に入るだろう、彼が、きちんと身分証なるものを所持していたことには、今となっては意外さを感じるけれど、そのおかげで、こうして彼の住居の前に来ることができた。
古い日本家屋。隙間風が入りそうな木造建築だ。
今時珍しい、重い瓦屋根を背負って、寒さに家全体が縮こまり、固く耐えているように思える。彼はここに一人で住んでいるのか定かでないが、同居人がいるとも思えない。表札はかかっているのに、ひどく風化していて、読むことができなかった。ぼやけた文字の形状から、苗字を読み取ろうとするのに、どんな文字にも当て嵌まるような気がして仕方ない。
先ほどまで彼の住所と名前を書き留めたメモを見ていたのに、彼の苗字も名前も、俺は思い出すことができなかった。そもそも、そのメモは、どこにしまってあったのだろうか。
俺はいつ、どういう流れで、公式書類でない紙に、彼の住所氏名を書き留めたのだろうか。
違和感を覚えながらも、深く思い出すこともできず、玉砂利の敷かれた玄関までの通路を歩く。
「おーい、俺だ。迎えにきたけど、交番まで行かないか」
返事はない。チャイムのようなものも、取り付けられていなかった。
怪訝に思いながら、引き戸に手をかける。きっ、と音を立てて、五センチ程隙間が開いた。
甲高く鳴く引き戸はとても重かった。瓦屋根が家を圧迫し、立て付けがおかしくなってしまっているのかもしれない。鍵がかけられていないことに、田舎特有の不用心さを感じたけれど、盗みに入られるような高価なものに囲まれた彼は、想像に難い。
事実、玄関先には、置物代わりだろうか、機械部品のようなものが幾つかと彼のスニーカーが一足あるだけで、盗みに入った者が申し訳なさを覚えかねない様相だった。
「入るよ」
もう一度声をかけるも返事はない。
俺は靴を脱いで、彼のスニーカーの隣に並べて置いた。
居間とおぼしき部屋は、遮光カーテンがぴったりと閉められていた。大型テレビとゲーム機、そして、彼のコレクションなのだろうか。車のボンネットやタイヤ、もしくはその類のものが、棚ないし床にぎっしりと並べられ、うっすらと埃をかぶって鎮座している。
雑然と置かれたコレクションは、生活感を感じさせるものではなく、じっと押し黙って、慣れぬ来客に不信の目を向けていた。
彼を探そうと、廊下に足を一歩踏み出すたび、床板が僅かにたわんで、足の裏に伝わる。
部屋数が多いのか、廊下は曲がりくねっていて、奥へ踏み出すたびに、足元が暗くなっていく。灰色に染まった家全体が、ぎしり、と、僅かに軋むような、息づくような、静寂。
静寂の狭間で、にゃあと猫の声がした。猫を飼っているのだろうか。けれど、それきり、猫はひとことも鳴かず、しんとした静寂が家の中に雪のように降り積もっていく。
灰色の板壁に、そっと手をつくと、境目もわからないような影法師が、俺と手を重ねた。初めての家で、自ら灯りをつけることもためらわれ、かといって彼をもう一度呼ぶこともできず、俺は彼の家の中を歩く。
古い木造家屋が持つあたたかみは、灰色に陰った知らない空気のにおいの中では、気配となって、俺を脅かす。
息づく静寂の中で、俺は少し躊躇した。
彼は本当に、ここにいるのだろうか。今ここで引き返し、交番で彼を待つ方が早いのではないだろうか。そう思っても、鍵のかかっていない玄関と、彼の靴が、彼はここにいるのだと、そう主張していた。
「二階があるのか…」
暗く急な板張りの階段が、奥まった先に延びていた。二階があるならば、大抵、自室は二階に置くだろう。彼がいるのは、この先ではないだろうか。そう思って、遮光カーテンで締め切られた一階を後にする。
一段のぼるごとに、足を乗せた板が音を立てる。隙間なく敷き詰められたはずの床板が、冷たい空気を吸って縮みできた、僅かな隙間を触れ合わせ、静寂に音を響かせる。
上階は、雨戸が閉め切られているのだろうか、ひどく暗い。上階から黒色の闇が流れ落ちて、靴下越しに染み込んで、足先が冷えていく。
俺は、蝸牛のような足取りで、息づく闇の中へと進んでいく。みし、みし、と、俺が階段をのぼる音が、自己主張するように家の中に響いていく。
理由もなく、見つかってはいけないのだと、息を殺した。
二階には、トイレと思しきドアと、残りふたつ、ドアがあった
手前のドアがほんの少しだけ開き、細く細く、蜘蛛の糸のような光の筋を漏らしている。
俺は安堵を覚えながら、ノックをし、返事が返らないことを訝しみながらも、ドアノブを引いた。
途端、猛烈な腐臭が、俺を呑み込んだ。
「ア…?」
ベッド脇の一枚の窓だけが、雨戸からも、カーテンからも解放され、外界の光を室内へと吸い込んでいる。
その光の中を飛び回る無数の黒い点。
それらは、ゎん、ゎん、と、羽音を立てながら、俺の耳元を飛び回り、腕に、背中に着地しては、また離れていく。
突然の光の中、異様な音と臭いに突き刺され、足が竦む。黒々とした恐怖が、俺の両足首をがっぷりと捕らえ、床に縫い止めた。
腐臭が、部屋中に満ち、その中を一センチ近くはあろう、丸々と太った銀蠅が、無数に飛び回っている。
逆行を背負い、部屋の真ん中に、彼が立っていた。
二部屋を襖で仕切っていたのだろう、部屋の真ん中には、鴨居がまっすぐに横断している。
鴨居に括られた紐は、彼の首にぎっちりと食い込み、全身に蠅を群がらせた彼を、立たせ続ける役目を持つかのように、彼のうなじへと繋がっている。
ざわ、と、蠅が羽を動かし、彼の表面が波打った。
「う、うぁ…」
聞きたいことはたくさんある。
あの嘘はきみが自殺するほどのものだったのか?
死なないきみが死ぬほどに?
三十分のことで、ここまでおぞましい死体に変化するほどに?
「な、なぁ…」
喉の奥から、無理やりに声を絞り出す。
途端、彼の腐敗した胴体は、ずるりと崩れ、ぐじゃ、と、湿った音を立てて床に崩れた。乱れた空気が波のように、腐臭を俺の顔へと塗り付けた。
群がっていた蠅が、一斉に飛び立ち、そしてまた、彼の腐肉を食い、卵を産み付けるために彼の元へと戻っていく。
頭部と背骨だけになった彼が、蠅の羽音と共にわなないて、ぐらりと揺れた。
ぽっかりと空いた眼窩が、前髪の隙間から僕を見つめて、悲しそうに涙の代わりに蛆を産み落とす。なんできたんですか、と、彼が言っている気がした。
「違うんだ!パトカーと結婚するなんて嘘だ!つきあってなんかいない!全部嘘なんだ!許してくれ!」
弁解する。嘘だったと、繰り返し叫んだ。許して欲しかった。膝から下が冷え切って、今にもその場に崩れ落ちそうだった。
ぶゎん、ぶゎん、と、黒い蝿の塊が飛び回る。俺の腕を掠め、頬を触り、耳に羽音を投げ込んでいく。猛烈な音量の羽音が、俺の周りに埋め尽くし、ノイズかかったような声になる。
「嘘だったんですか…」
嗚咽のような言葉を聞き取った瞬間、俺は転がり落ちるように階段を下り、靴を掴んでパトカーの中へ走り込んだ。
がちがちと震える手は、鍵が回せない。かつん、かつん、と、鍵が鍵穴を求めて、音を立てる。
やっとの思いでエンジンをかけるとアクセルを踏み、ほど近い交番へと逃げ帰った。車庫の中に頭からパトカーを突っ込み、ハンドルに額を押し付けて、どうにか平静を取り戻そうと、大きく息を吸った。
いまだ胸の中では、太鼓のような音が響いている。ひどく喉が渇き、咽頭の壁がからからにひからびてしまっている。
パトカーから下りて、数歩歩いたら瞬間、あのにおいと音を思い出した。
内臓がひっくり返るような錯覚。
がぼっ、と音を立てて、口から吐き出される胃液は、乾いた喉を焼く。
すっぱいにおいに、腐乱した肉のにおいを思い出し、更に吐く。
びしゃびしゃと吐き出される黄色い胃液の中に、蛆虫が見えたような気がして、口の中に指を押し込み、また吐く。
体温がどんどん下がっていくのに、汗が止まらない。
がたがたと体が震え、耳に張り付いた彼の声を剥がそうと外耳を掻きむしった。羽音は、俺の耳に張り付いている。蠅が肌を触っているような気がして、なにもいない腕を払った。払っても払っても、まだそこになにかいるような気がした。
寒くてたまらない。
空っぽの胃袋から吐けるものはなくなり、指先を血染めにした頃に、ようやっと俺は暖かい交番の中に入り込む事ができた。
手を洗い、消毒薬をつけて尚、全身に彼のにおいと声が染み付いているようだが、目を閉じるのが恐ろしくてシャワーを浴びることができなかった。
仮眠室の布団に包まって、息を潜めていた。明るい電灯に照らされ、よく見える室内は、ここには蠅も彼もいないのだと、俺を落ち着かせてくれた。
布団の中で体温が上がるにつれて、根拠なく俺は安心し、眠り込んでしまった。
秋の日暮れは早く、目を開けた時は、外は薄暗く、夕日は沈みかけていた。
四時間ほど、業務を放置してしまっただろうか。
なによりも、彼の死体を。
自分が警官である以上、もう一度現場を確認し、状況を把握しなければならないと、パトカーの止められた車庫へ向かう。
普段ならバックで入れるパトカーは、此方に尻を向けていた。車庫を出てすぐのところに俺の吐瀉したあとが残っていた。やはり、夢ではなかったのだ。
エンジンをかけ、車庫から出す為に後ろ向きに動かす。
途端、ばきりと、硬い枝を折った時のような音がした。
音に驚き、叫び声を堪え、ドアを開けるまでひどく躊躇した。乗り込む時に、枝なんてなかったのだから。
手袋の左手で、顔面を覆いながら、震える太ももを拳で叩く。
行かなければ。音の正体を見なければ、これ以上パトカーを動かすことなんてできはしないのだ。
ドアを開いた足元に、彼の頭があった。
パトカーの車体の下に向かって、腐肉のこびりつく背骨を伸ばし、横たわっていた。
タイヤに踏まれへしゃげた背骨と、頭だけで、俺を見ながら、彼は言う。
「ひどい嘘…つかないでくださいよ……」
いつもの彼の声で、そう言った。
俺は彼の横に膝をついて、彼に謝った。何度も謝った。
「ぼく、こんなかなしい理由で死ぬのは二度とごめんです…」
コンクリートに鼻先をこすりつけ、しゃくりあげる俺の後頭部を、彼の手のひらが撫でていった
了
初出20160121
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