第5話パトカーさんのおいしいガソリンは雪の日に
その日、朝目が覚めると、世界はとても静かだった。
とうとう世界が全部なくなってしまったのかと思ったけれど、カーテンを引いたその先には真っ白い世界が、ちゃんと広がっていた。
「わぁ…」
ぼくが声をあける間も、大きな雪がはらはらと、窓の向こうで舞っていた。
こうしている間も、雪はしんしんと降り積もっていく。ぼくは慌てて身支度を整えると、スニーカーを履いて外に出た。
真っ白に覆い隠された世界は、現実のものでないようだ。
街灯も、家も、庭石も、石柱も植木鉢も、みんなみんな、白い雪をかぶって、きのこのようになっている。
足の下で、新雪が、ぎゅっ、ぎゅっ、と、片栗粉をもんだ時のような音を立てている。とても静かだ。いつもなら遠くに行き交う車さんの音が風に乗って運ばれてくるのに、今日はちっとも聞こえない。
ぼくの歩く音と、服に包まれたぼくの体温だけが、まっしろな世界で息づいているような気がした。
ふと、後ろを振り向く。
点々とついたぼくの足跡の上に、またふるふると雪が落ちて、ゆっくりとぼやかしていく。
境目はどんどん薄くなってじきにふやけるようにわからなくなってしまうのだろう。
車庫には屋根があるから、パトカーさんに降り積もることはないはずなのだけど、昨日、おまわりさんは、予備の除雪道具を車庫に詰め込んでいたから、もしかしたら、パトカーさんは外に出されてしまっているのかもしれない。
車庫につくと、予想した通りに、パトカーさんは雪帽子をかぶって、しっとりとぼくを待っていた。
フロントガラスにも綿のような雪はつもり、パトカーさんはまんまるだった。
ころんとしたおにぎりみたいになってしまったパトカーさんから、立てられたワイパーが飛び出ている。
けれど赤い警告灯だけは、雪をかむりながらも、その色を覗かせている。
白黒の車体の殆どを、白く染め、それでもなお赤い彼の警告灯。ぼくはパトカーさんの前に歩み寄ると、ボンネットの上に手を伸ばし、きゅっと扇を広げるように動かした。
赤と黒と白の美しいコントラストに、ぼくは息を飲んだ。
真っ白い世界に、ぽたりと垂らされたような色彩だ。白雪姫の冒頭で読んだような、鮮烈な三色のコントラスト。もしかしたら、パトカーさんは白雪姫なのかもしれない。
真っ白な世界で、パトカーさんだけが明確な色彩をもって、ぼくの前に佇んでいる。
かじかむ手のひらで、パトカーさんのバンパー周りの雪を払うと、見慣れた旭日章が現れた。すばらしく美しいデザインのこれは、雪の中で咲き誇る黄金色のさくらだ。
金色のエンブレムが、雪解けの水をその身に乗せて、灰色の雲の下でも、凛と空を仰いでいた。
ぼくは、旭日章が纏うしずくを、指の先で集め、口に入れた。あたたかく湿った口腔の中で、きんと冷たいしずくが躍る。
ぼくはたまらなくなって、旭日章、その周りについていた雪を口に運んだ。
パトカーさんのさくらを覆っていた雪は、一等特別なものに思えて、ぼくは喉を鳴らして雪解け水を飲む。足りなくなって、グリル周りの雪も、指でこそげて口に入れた。
パトカーさんの雪なら、ぼくは飽きることもなく食べ尽くせるのではないかと、思い巡らす。
ああ、それでも。
ぼくが本当に食べたいのは、雪ではなくパトカーさん自身で、そのかわいくてかっこいい、素敵な車体を食んで、噛み、嚥下したいのだ。滑らかな塗装と、かたい鉄板に前歯が食い込む感触を想像するだけで、口の中にはあたたかく唾がわいてくる。
けれど、ぼくがパトカーさんを食べてしまったら、パトカーさんは無くなってしまう。
それだけが、ただ悲しくて、パトカーさんに縋って少し泣いた。
ほたほたと落ちた少しの涙は、綿雪にくぼみを作るばかりで、全部の雪を解かしてくれはしなかった。
ガソリンなら、パトカーさんを無くすことなくパトカーさんの血液と呼べるものをぼくの中に取り込むことができるのに。
パトカーさんのガソリン…飲みたいなぁ…。どうしたら…パトカーさんのガソリンを…。
そう思って、ぐずぐずと鼻を鳴らして泣いていると、おまわりさんが分厚いコート姿でやってきた。
朝から泣き噦るぼくに怪訝な顔をする。
「どうしたの。悲しいことでもあったの?」
「…パトカーさんの、パトカーさんが食べたくて…でも食べたらなくなっちゃうのが悲しくて…うう…。ガソリン…ガソリンなら、…ガソリンが、パトカーさんのガソリンが飲みたい…」
おまわりさんは、困ったお願いだ、と、ひとりごちる。
この人は押しに弱い上に、ぼくが死なないので、無茶をしても平気なのを知っている。
最初こそ、あらゆる意味で頑なに、ぼくの要求を拒み続けたおまわりさんも、今となっては、重大な事件にさえならなければ、ぼくに協力してくれる人となりつつあった。あくまで、彼自身が面白そうだと思ったことに関してだけれど。
いつの間にか、ぼくは打算を覚えて、おまわりさんの好奇心を期待するようになってしまっていた。こうしたい、その言葉をおまわりさんに伝えて反応を窺う。興味を持ってはくれないだろうか。
「ともかく、中に入りなよ。いつからそこにいたんだ」
唇が真っ青だと、おまわりさんに言われてはじめて、自分の身体が恐ろしく凍えていることに気が付いた。ぼくは、分厚いコートなんて持っていないのだから、仕方がないのだけれど。
いつものパーカーには雪が染み込んでしまって、おなかのあたりが氷を着ているように冷たかった。
冷え切った体をおまわりさんに抱えられ、交番の中の石油ストーブの前に座らせてもらった。
しゅんしゅんと薬缶が湯気を吐いている。灯油の燃えるにおい。冬のにおい。
アルミサッシの窓が結露していた。小さな水の粒は、絡まりあい、重さに耐えきれなくなって、ガラスを滑り落ちていく。
「服を乾かしなさい。これも飲むといい」
おまわりさんは、薬缶の中身をマグカップに注いで、ぼくに渡してくれた。もわっとあがった湯気が、ぼくの顔にあたって、広がっていく。とても熱くて、ぼくはカップで指先を温めながら、中身が冷えるのを待った。
ゆっくりと、濡れて色の変わったパーカーが、元の色に戻っていく。
ぼくが熱い白湯をちびちびと飲んでいる間、おまわりさんは外で雪かきをやっているようだ。がり、がり、と、アスファルトの上を、固い金属のシャベルが引っ掻く音が聞こえてくる。
まだ雪は降っているのに。
結露した窓を、パーカーの袖で拭いて、外を覗くとパトカーさんの前から車道に向かって、道ができていた。
おまわりさんは、パトカーさんのための道を作ってあげていたんだ。パトカーさんのタイヤからタイヤまでとほとんど同じ幅の道を。
目的を果たしたのだろう、おまわりさんが、シャベルを引き摺りながら交番へ戻ってくる。
きゅいと、ガラス張りの引き戸が鳴って、おまわりさんが帰ってきた。
「おかえりなさい…」
「ああ。…今から掻いても無駄だったかな」
あたたかい室内に戻り、濡れたコートを脱ぎながら、おまわりさんはそう言った。
事務机の上にコートを放り、手袋も外した。
「それで、雪に備えて入れて置いたパトカーのガソリンがあるけど、きみはそれを、どうしたいんだった?」
バイク用だろうか、小ぶりの携行缶を事務机の上に置いて、おまわりさんは言った。
パトカーさんのガソリン…!
ぼくは、喉を焼く熱さの白湯を一息に飲み干して、おまわりさんに縋り付く。
「ぼく、ぼくに…それを…飲ませてください…!じゃないと、ぼ、ぼくはパトカーさんを食べて…食べてしまったら無くなって…パトカーさんが…無くなって…ううっ…ウッ…ウウゥッ…!」
そう言いながら、パトカーさんが、かじられ星のように削られて小さくなっていくのを想像して、どんどん悲しくなる。
おまわりさんが机に置いた携行缶に、釘付けになる。わざわざ小さな携行缶へ移し替えてくれたのだろう。
手を伸ばして触らせてもらうと、金属の容器の中で、とぷん、と、ガソリンが音を立てる。
「静電気、危ないから、奥で手を洗っておいで」
ぼくは弾かれたように指し示された方向に向かった。
おまわりさんが、携行缶のキャップをひねって外すと、ふわりと独特なにおいが広がって、ぼくは思わず喉を鳴らした。
「コップとかのがいいのかな…いやでも、コップにガソリン…」
おまわりさんが迷ったように言う。今から使ってもいいコップを探されるなんてとんでもない。一刻も早くして欲しいのに。
「そのままでいいです…!」
床に座り込んだぼくの目の前にある、携行缶の注入口に向かって口をあけ、舌を出す。
おまわりさんが携行缶を持っていてくれるので、ぼくは注入口に口唇をつけた。
舌にガソリンが触った瞬間の、痛みのような錯覚。気化していく鮮烈ななにおいのせいで、刺されたような気がしただけだ。さらさらの食用油と変わらない、滑らかな舌触りが、ぼくの咽頭へと向かって流れていく。
口内に流れ込んできたガソリンは、殆ど無味なのに、ひどく苦くて、甘いような気がする。複雑な味とにおい。芳しいしあわせなかおり。最初の一口目を、こくりと飲んだ。
先ほどお湯で焼いてしまった喉の粘膜をガソリンが覆って、ただれるような悲鳴を上げた。
「ア゛…イダァ……ウゥッ…。ガソリン…パトカーさんの…ガソリンっ…」
少しずつ注がれるガソリンを、ぼくは吸うように口に入れ、飲んでいく。粘膜からガソリンがしみていったのか、喉が熱い。
だんだん、胃の中までも熱く焼けるように感じ始め、頭がずきずきと痛む。
「ゲボッ…!うぶっ…えほっ…あ゛…あぁ…」
噎せて口からこぼれたガソリンが、顎を伝って、膝を濡らす。
揮発性の高いそれは、じきに乾いて、あの芳しいにおいを服に残していなくなってしまう。
「よく飲めるな…」
おまわりさんが、ぼくの頭の上で率直な感想を述べているけれど、彼は食わず嫌いなのだ。
こんなにおいしいのに。
ぼくは、また携行缶に吸い付いて、ガソリンを飲み始める。
胃の中から、気化したガソリンが湧き立っている。鼻の奥を抜けて、ぼくが息を吐き出すたびに、その濃いにおいを周囲に振り撒いている。
いつまでも続くといいと思う。
「グゥ…ふっ…」
パトカーさんのガソリンの事だけを考える、素敵な時間は、携行缶が軽くなるにつれて、ゆっくりと残り少なくなっていく。
おまわりさんは、一リットル程しか入れてなかったらしく、重さに手を震わせることなく、まるで給餌する親鳥のように、ぼくにつきあってくれている。
「ウッ…!ぐぁ、げほっ、げほげほっ…!」
ひどく噎せて、ぼくが頭を下げたので、ガソリンが少しぼくの髪に注がれる。
つめたい。
このつめたい淡いオレンジ色の液体が、パトカーさんの中に流れ込み、パトカーさんを動かすのだ。ぼくの身体の中で、パトカーさんの血液がめぐっている。
胃壁から吸収し、そして気化したものを肺から。臓器を漬け込み酸素に混じって脳みその中へ。パトカーさんが。
「もうやめといた方がいいんじゃないか?」
うずくまって咳き込み続けるぼくに、おまわりさんが声をかける。
お腹の中は焼かれるようだし、頭のちかちかした目眩もどんどんひどくなる。身体は吐き出せと言っているのだろうけれど、ぼくはぼくの意思を持って、あるだけ、許されるだけ、飲み干してしまいたいのだ。
「やだ…。ぜんぶください…」
顔を上げ、残り少ない中身を口に注いでもらう。
おまわりさんが携行缶を振っても、数滴雫が垂れるだけになった頃、ぼくは瞬く星の中で、ぐるぐる回るおまわりさんを見ていた。
ひどい気分だけれど、しあわせで、達成感でいっぱいだ。
おまわりさんが、携行缶のキャップをしめているのを見ていたら、一気に力が抜けて、ぼくは床に倒れこんだ。
吐きそうだ…吐きたくない…ずっとおなかに入れていたい…ぼくの血がガソリンになるまで…パトカーさん…だいすき…ぼくのからだも、パトカーさんみたくガソリンで動けばいいのに…。瞬いているのは神経信号だろうか。頭の中で光が走り回っている。パトカーさんのヘッドライトなのかもしれない。きらきら瞬くパトカーさんの目。目。目。光はサーチライトのようにぼくを照らす。あかるい。くらい。みえなくなる。パトカーさんがぼくの中にいる。
頭痛と、おぞましい吐き気と目眩の中で、ぼくの視界は暗転する。
次にぼくがぼくとして起き上がったのは、雪が降り止んだ頃だ。
とても静かな交番の仮眠室で、石油ストーブのにおいに包まれて目を覚ました。
起き上がろうとしても、全身に力が入らなくて、ずきずきと頭が痛いのは変わっていなかった。
ひどく喉が渇いていて、おまわりさんが用意しておいてくれたのだろう、ぬるま湯い湯冷しを、コップに注いで飲み干した。けふ、と小さく咳をすると、おなかの中から薄まったガソリンのにおいがした。くる、と、おなかの中で音がする。
あったかい毛布の中で丸まって、おなかがすいたな、と思っていた。
足音が聞こえる。近づいてくる足音と気配。ドアノブが動いて、おまわりさんが、仮眠室に入ってくる。
舌がしびれてしまって何も言えない。まぶたを開くのも億劫で、毛布の中でそのままでいた。
おまわりさんから雪のにおいと、ガソリンのにおいがする。雪かきをしてきたんだろう、汗のにおい。ひとのにおい。
きっと頭にかぶったから、ぼくからはもっとガソリンのにおいがするんだ。
パトカーさんのにおい…。ぼくのではない布団の中でも、安心させてくれるにおい。
「まだ寝てる?」
おまわりさんが、そう言いながら、ぼくの枕元になにか置いている。
起きているのに、起きているのがわかったら帰らされてしまうことに怯えて、ぼくは起き上がれずにいた。
「食べれそうだったら食べていいからね」
そう言っておまわりさんが部屋を出ていく。遠ざかっていく足音と気配。目を開けて枕もとを見ると、ラップに包まれたおにぎりが、ふたつ、湯冷ましをいれた薬缶の横に置いてあった。お言葉に甘えて、ラップを剥いておにぎりを頬張る。少ししょっぱくて、けれどおいしく炊かれたごはんと具材は、たちまちぼくのおなかに収まっていった。
少し離れたところから、シャワーを浴びる音がする。おなかが膨れて眠たい。もう一杯、白湯を飲んでぼくはまた毛布の中に潜り込んだ。
戻ってきたおまわりさんからは、お風呂のにおいがした。ぼくがおにぎりを食べたことが嬉しかったのか、ふっと笑う声が聞こえた。
おまわりさんは、もう一枚布団を敷いて、電気を消す。
ぼくがよく寝ていると思ったのだろう。声はかけられなかった。
交番にお泊まりできる雪の夜なんて、すごく特別な気がして、ぼくはパトカーさんのことを考えながら、深く息を吸う。
了
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