第54話 俺の指を食べる彼
停滞する秋のにおい。
足早に過ぎ去る夏の残り香。
ようやく、夏の暑さに減退した食欲が戻ってきた。
秋の料理を彼に作ってやれば、喜ぶだろうかと、たばこを咥えたまま、レシピを探していた。
あんまりに凝ると、偏食な彼が困惑するかもしれない。
栗の炊き込み、甘露煮…。秋刀魚は、あまりにおいが得意でないだろうから除外する。
素直に、サツマイモでスイートポテト辺りが、安パイかもしれない。
俺も彼も、甘いものは好きだし、派生でパイか、タルトを後日に持ち越して、二度楽しむのも、悪くない。
かち、かち、と、マウスの音を立て、ページを繰る。
全く、どうして、インターネットなるものを使うと、簡易に、凝ったレシピから、ありもので済ませられるものまで調べられるのだから、便利なものだ。
「あっ、おまわりさん…、仕事してるかとおもったら…!」
彼が俺の背後から、パソコンを覗き込み、笑った。
「給料泥棒してたんですね…!」
「人聞きの悪いことを…どこで覚えてくるの、そんな言葉…!」
きみに旬のものを食べさせてやろうかと思って、と、付け足すと、彼はにんまり笑った。
「あまいやつ…!お菓子…!」
「芋のタルトケーキでも作るか…」
いくつか、簡単レシピをお気に入りにいれて、次の休みに、材料を買いに行く算段を立てる。
たっぷりの荷物を持って、パトカーを私物化するのが、日常となっているけれど、たまの休みに使う車を、そのうち買ってもいいかと思い始めている。
そうするなら、中古車でも選んで…きっと彼が、あの車種であの型番で、だとか、色々無茶な注文をつけるのだろう。
妥当なところが、パトカーと同じ、十一代目のクラウン、だろうか。
欲を言えば、ハイブリッドで燃費のいいものを…。俺が使うし、金を出すのに、横で彼が「あれがいい」とごねるのを容易に想像して、口元が綻んだ。
ぷふぅ、と、唇の隙間から音を立てて煙を吐き出すと、部屋に立ち込めた紫煙に気づく。
「窓開けてなかったな…」
「ちょっと鼻がイタイですね…」
窓際に向かう彼が、ほんの少し背伸びして、窓を開けてくれた。
吸い出されるように、淀んでいた白い空気が、外へ流れ出していく。
「きみさ、なにが好きなの」
秋のもので、と、つけるのを忘れた。
「たべものですか?赤身肉…」
俺の顔をじっと見て、一言、「最近食べてないなぁ…」と、独りごちた。
秋の味覚なる話題を、すっかり忘れてしまって、確かに最近、赤身肉を食べさせてやっていなかったことに気づく。
なるべく早めに、肉を調達してきてやろうと思い、冷蔵庫の中身を確認しようと、腰を上げた。
「まって」
一声、そう発して、彼が俺の腰に手をやる。
「ん?」
するん、と、警棒を、彼が俺の身体から抜き取った。
こんなに素早く動けたのか、と、関心したいとまに、警棒を俺の頭に叩きつける。
傾いた視界。
鈍い痛みに、低いうめき声をあげることしかできず、こめかみからだくだくと血を流しながら、床へと倒れ込んだ。
「お゛ぁ…油断したわ…」
手のひらにべったりとついた、真っ赤な血を見ながら、俺は舌打ちした。
「最近おまわりさんたべてないんで…」
そう言いながら、彼がにじり寄ってくる。
その目は、少し潤んでいて、薄い唇を、赤い舌が舐めていた。
食欲に侵された顔の彼が、俺の頭が脳しんとうを起こす程に殴打する。
悪態を吐きたいのだけれど、もつれた舌が出せる音は、低い呻き声ばかりで、どうにも言葉にならない。
俺は抗う気力も失せ、それに呼応するのか、素直に失神すべく、身体は血圧を下げる。
こうして、彼を甘やかしているのも、俺の意思だけれど、痛いものは、痛い。
できればなるべく、痛みの少ない手順で、彼が俺を食ってくれればいいと、回る床を見ながら、切に願った。
調理、となると、俺ならばどうするだろうか。
彼の肉を食いたいと思ったことは無い。
しかして、もし、そうすることがあるならば、俺はどうやって彼を調理するだろうか。
そもそも、彼に大して可食部があるとは思えないけれど、食べるならば、肉として食べやすそうな部位がいい。上半身は、内臓ばかりだし、腕は肉が少ない。
俺は内臓肉は嫌いではないけれど、彼はあまり好まない。
そうすると、尻か、足か。
彼の考えも同じだったようで、スラックスも下着も脱がされて、陰茎を放り出した情けない格好で、俺は浴室の冷たい床に転がっていた。
「あー…さむ…」
すっかり冷え切った身体をさすろうにも、腕にちからが入らない。
低いままの血圧のせいか、それとも、初冬の空気のせいか、肩から指の先まで、痺れたように、感覚が喪失していた。
頭の鈍痛は、未だ続き、口先で小さく、「たばこが吸いたい」と、漏らしてみても、胸ポケットからライターとたばこを取り出すこともできず、空気を吸った。
彼はどこに行ったのだろうか。
耳をそばだてて、音を探るも、特になにも聞こえない。
以前彼に食われた時は、包丁だのまな板だの、ホットプレートだのをせっせと持ち込んでいた。
それを取りに行ったのだろうか。
にしては、遅い。
別に食われるのを待っているわけではないのだけれど、こうも寒い中に動かれないまま放置されると、いささか軽視されているような、不満を憶える。
俺を食うんじゃなかったのか、と、声を張り上げたくもなったが、腹に息を貯めたところで、鋭い頭痛に苛まれて、言葉を発することができなかった。
風呂に入るでなく、掃除をするでもなく、こうして浴室に座り続けていると、磨き損ねた洗い場の端に、髪の毛が落ちているだとか、二つある電球の片方が、時折瞬くのが気になり始める。
いい加減、尻の肉も随分冷え切ってしまっているし、なにか進展が欲しいと、口角を下げていたところで、彼の足音が聞こえた。
「あっ…」
「遅いよ」
俺が起きていることに気づいた彼が、開けたばかりのドアに隠れて、こちらを窺い見ている。
「あ、あの…包丁が…見つからなくて…」
「包丁…」
ああ、そうだ。と、独りごちる。
俺が使う、肉厚の万能包丁は、今は研ぎ屋に出してあるのだ。
今日の夕方にでも取りに行こうと思っていたのだから、台所のどこを探しても、そんなものは見つかるまい。
俺がその旨を伝えると、彼はがっくりと肩を落として、どうしよう、と、小さな声で言った。
どちらにせよ、鋏だので俺を解体するのは、彼にはどだい無理な話だ。
「今日は諦めて、取り敢えず俺に服を着せなよ…。手足冷えて、痺れて動けないんだ」
「う…でもお肉…」
至極残念そうに言う。
「このままだと、包丁がない上に、今夜の夕飯すら危うくなるわけだけど」
「それはこまる…。あっ、お風呂場あっためますね…!お湯いれて…!服もすぐに…!」
そう言って、彼は浴槽に湯を張り始めた。
もわりと湧き上がった湯気のおかげで、乾燥しきっていた空気が緩む。
「どうせなら、上も脱がせて、シャワーかけてもらっていい?」
俺がそう言うと、彼は俺の衣服を手をかける。
あまり見ないように、ボタンを外し、ネクタイを抜き取る。
頭から這い出た血で汚れた服がなくなって、不快感も減る。
多少の力業も挟みつつ、どうにか俺の服を脱がせると、シャワーから湯を出して、身体にかけてくれた。
一応、頭を濡らさないように気を遣ってくれているのか、肩から下だけだ。
手のひらについていた血糊が、湯に溶けて、排水口へと流れていった。
じんわりと、体温が戻り、強張っていた指先に、少しずつ感覚が戻っていく。
持ち上がるようになった腕を使って、頭に手をやると、溢れ出た血液で、髪の毛が固まって、粉になったものが指先を汚した。
「…俺の顔、どうなってる?血まみれ?」
「…すごくかっこいいと思いますよ!」
彼がそう言うのだから、きっと外を歩けるようなご面相ではないのだろう。
濡れた手のひらで、頬をこすると、薄まった赤色が、するすると水滴になって腕へと伝っていった。
温かい湯で、体温が戻っていく。
膝にちからが入らないのは、貧血のせいだろう。
湯船を使うことを諦めて、彼に身体を流されるまま、ふうっと息を吐いて、目を閉じた。
「おまわりさん、眠たいんですか…?」
彼が心配そうに、そう尋ねた。
「いや、そういうのじゃなくて」
温めるように身体を流されて、彼の手のひらでさすられるのが、とても心地良いのだ。
頭の傷は、まだ痛めど、その穏やかな気持ちに委ねて、瞼を閉じていたくなる。
暫し無言で、彼の甲斐甲斐しい動作に任せ、俺はそれを楽しんだ。
「動けそうですか…?」
「ああ…。ちょっと肩だけ貸して」
随分と低い位置にくる彼の肩に手を置いて、ゆっくりと立ち上がる。
貧血の為か、少し目眩がしたが、すぐに収まった。
彼に身体を拭いてもらい、血まみれの制服の代わりに、部屋着に着替える。
「お布団も、敷いておきましたよ…」
「ありがとう」
彼に連れられ、布団の上に寝そべると、ふっと、身体が緩んで、途端、彼が腹をすかせていないか、心配になった。
「ねえ」
隣に座った彼の唇に左手を伸ばす。
「肉はあげられないから、指。噛んで」
せめてもの譲歩のつもりだった。
彼の口内に差し入れた、俺の人差し指は、真珠のように白い前歯に挟み込まれる。
ぎち、ぎち、と、遠慮がちに、その薄い刃物のような歯が、俺の指の肉に食い込んでいく。
圧迫された皮が、ぷつりと裂けて、鈍かった痛みが、傷口を挟み込まれるものに変わる。
出血した俺の指を、彼はおとなしく咥えていて、時折、舌で傷口を舐めたり、溢れ出るものを受け取ろうと、吸い付く。
傷口に、何度も、彼の前歯が食い込み、傷口を広げていく。骨から皮と肉を削ぐように。
まるで、骨つきの鶏肉を食べる時のように、丁寧に、けれど、文字通り貪るように。
彼の歯でこそげられた肉は、繊細な指先の神経が、痛覚を持って、俺に教えてくれる。
彼に指を食われているのだと。
薄い肉皮を削がれ、骨が出てしまっても、構うことはなかった。
彼がしあわせそうな顔をして、俺の指を喰らい、それを与えているのが俺だということが、嬉しかった。
ああ、こんな顔をして、俺を食うのか、と。
足の肉を削がれている時の激痛では、彼の表情を窺う余裕などないのだから、こうして、耐え切れないわけでなち痛みを持って、彼を見ているのは、あまりなかったことに思う。
彼の唇から人差し指を抜き取った時には、指先の骨が露出してしまっていた。
そのじくじくとした痛みを受けてなお、俺は彼に、中指を与えた。
いいのか、と、丸く開いた目で問う彼に、食ってよいと、目礼で返す。
「ん…」
彼の舌が、俺を気遣うように、中指を優しくくすぐった。
あたたかくやわらかい、ぬめった舌にいじらしさを覚える。
けれど、すぐに、中指にも、彼の前歯が食い込み始める。
上下から挟み込み、傷を作ろうと、食い千切ろうと、顎を揺らす。
骨のある指を、彼が食いちぎることはできなかったが、人差し指同様に、肉を削がれていく。
彼への給餌は、穏やかに、何時迄も続くような気がしていた。
と。
外から声が聞こえる。
数度、俺を呼ぶ声がした。
腰をあげる気にならず、声の主が、なにか固いものを、郵便受けに入れる音がした。
彼の顔を見る。
「取ってきます」
彼は口元を拭いながら、立ち上がり、玄関…交番を通らない、通常の玄関口の方へと、歩いていった。
「しんぶんしで、くるんだやつが、入ってましたよ」
「新聞紙…?」
彼に渡された包みを開くと、研ぎに出していた包丁だった。
大方、夕方近くなっても取りに現れなかったことに気を遣ってか、もしくはこちらに出る用事でもあったのだろう。
取り出した包丁は、誠見事に研ぎ澄まされ、それこそ、骨肉を断ち切ることすらできそうに仕上がっていた。
「……じゃあ」
広げた新聞紙の上にら左手を置く。
二本は、殆ど骨になってしまったのだ。
じきに肉が張るだろう。
残る、薬指と、小指の根元に、包丁の刃を、押し切りの要領で、ちからを加えた。
どん、と、存外小さな音がして、俺の薬指と小指が、新聞紙の上に転がった。
まだ血の滴るそれを、つまみ上げ、彼の口元へと差し出す。
「夕飯、肉ないからさ。今日はこれ食っといて」
そう言って、俺は、未だふらつくまま、立ち上がり、裁縫箱から木綿糸を取り出した。
切断面にぐるぐると巻きつけ、壊死覚悟の止血をする。
なに、どうしたって、また生えてくるのだ。
彼は、俺が指を切って与えたことが、予想外のことだったと見えて、ぽかんと口をあけて、俺を見ている。
血で汚れてしまった右手で、彼の鼻先をつまみ、
「夕飯、簡単なのしか作れないから。あんまりあれがいいとか、言わないでよ」
「い、いいません…」
嬉しそうな声に、聞こえた。
さて、片手で作れるような料理、とは、と、夕飯に使うコメを見ずに浸しながら、俺は考えた。
できるなら、そこそこ彼が喜んで食べてくれるものがいい。
研いだばかりの包丁を左手にぶら下げ、自由のきく右手でスマートフォンをいじって、レシピを探す。
彼の喜ぶなにかを、作ってやりたいだけなのだ。
了
2016/12/08
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