第55話 黒い鯉幟

季節外れの台風が過ぎ去った朝のことだ。

未だ灰色の空の下、交番に出た俺が目にしたものは、ガラスの扉に張り付く、巨大な一匹の鯉幟だった。

濡れた巨体を、ガラスに押し付け、丸い目を見開いて、交番の中を見ている。

俺をじっと見据えるような、意思のない目に、台風に向かって、なんてものを運んできてくれたのだと、心の中で悪態を吐いた。

しかして、ここは交番であって、遺失物ならば、暫し保管しておかなければならないだろう。

俺は、湿った鯉幟を、ガラス戸から引き剥がし、ずしりと重いその身体を、半ば引き摺るように奥へと運んだ。

起きたばかりの彼は、俺が持ち込んだものを見て、心底嬉しそうに声をあげた。

「すごい…!真っ黒な鯉幟…!かっこいい…!」

嬉しそうにそう言う彼は、敷いた新聞紙の上で乾かされる鯉幟の周りを、くるくると回った。

「すてきなものが、飛ばされてきましたね…!」

すてきなもの、と。

確かに、丁寧に鱗を描かれ、繊細な着色を施された豪奢なそれは、すてきなもの、と呼ばれるに相応しいのだろう。

けれど、未だじっと、俺を見据えるその目が、なんとはなしに、俺に薄暗い気持ちを植え付ける。

よくないものを、腹に抱えてやってきていなければよいが。

俺は、信心深い方では…世間的には、むしろ信心深いのかもしれない。

名の由来は、仏教徒的であるし、祖父母の教えの中で、読経をそらで行うこともできる。

それが、信仰心に直結しているかはさておき、神のようなものがいて、それはあくまで、有象無象の程に存在しており、俺たちはその中で生きている。

ひとと神の境目すらも曖昧で、なにものも神たりえるというような。

怪異の子である彼が、なにものであったとしても、俺はきっと驚きはしないだろう。

そんな、独自宗教のような思いは、俺の腹の中にも、ありはする。

故に、死に体のようなこの、巨大な鯉幟にも、何処か神仏的な絡みを憶え、小さな畏怖の念を、どちらかといえば、敬遠する思いを患ったとして、なんら不思議ではないだろう。

「だいぶん濡れているから、乾くまで触っちゃダメだよ。誰かの落し物かもしれないし」

「はい…!乾くまで我慢できます…!」

元気な返事と共に、目を輝かせる彼には、この鯉幟に思うところはないのだろうか。

恐らく、彼はきっと、むしろこの鯉幟の本質に近いもので、畏怖の念を抱くようなことはないのだろう。

それに彼は、彼だけの王を持っていて、それ即ち、彼の宗教に近い。

俺のような脆弱な信仰心は、時として、凝り固まった壁となる。

どろりと濁った目が俺を見るので、たまらずに部屋を移動する。

換気扇の下で、たばこを咥え、火をつけた。

先端から立ち上る、細い煙が、つるりと、換気扇に吸い込まれ、回るファンに砕かれる。

鯉幟。

空に泳ぐべき鯉幟が、地に伏しているというのは、いかがな気分なのだろうか。果たしてその腹のうちに、なにを持って、風雨の中飛んだのだろう。

どうしても、こびりついた無為の思考は拭い去れなかった。

仕事をしようと、交番に向かう。

事務机に腰掛け、書類を弄り回すも、未だにあの、ガラス戸に鯉幟が張り付いているのでは、と、そんな想像が、俺の顔を上げさせた。

丸い目が、張り付いているはずもないのに。

捗らない事務仕事を、どうにか片付けた頃には、昼になっていた。

簡単に済ませてしまおうと、昨夜の冷や飯を茶漬けにする。彼にも、同じものでいいかと、声をかけるが、すくに返事をしなかった。

茶漬けのはいった椀を二つ持ち、居間に行くと、彼は、新聞紙の上に寝そべる、黒い鯉幟に抱かれていた。

正しく言うならば、彼が身体に鯉幟を巻きつけている、とするべきなのだろうが、俺には、そう見えた。

黒い鯉幟に抱かれた彼は、しあわせそうで、その滑らかな布地に頬を押し付け、微睡んでいた。

その頭を、つま先で小突いて、彼を起こす。

「昼。茶漬けでいいよね?」

座卓に二つの椀を置くと、のそのそと彼は鯉幟から脱出し、座る前に、鯉幟のかたちを整えた。

「いただきます…!」

「いただきます」

二人で手を合わせ、茶漬けに口をつける。さっぱりとした梅茶漬けは、舌に良く、冷や飯も相まって、喉を癒してくれた。

「乾いてたの?」

「え、あ、はい…!すっかり…!」

視線の端に、鯉幟がいる。

並んだ鱗模様の中央が睫毛を生やした人の目に見えた。

それが、ぞろりと一斉に此方を向いて、俺と彼の一挙手一投足を見ている。

流し込むように、茶漬けを食べ終わり、俺は汁椀を座卓に戻した。

彼もすぐに食べ終わり、「ごちそうさまでした」と、小さく、手を合わせて言った。

俺が二つの椀を流しに持って行く間に、彼は鯉幟の中へと、潜り込んでいた。

巨大なさかなに抱かれて、彼は頭だけを、さかなの口から出している。

それが、まるで、彼を喰らい、その異形の子を腹におさめようとしているかのようで、じっとりとした不快感が、胃袋に込み上げた。

彼が、ごろりと、寝返りを打つ。

鯉幟の目が、俺を見る。

その微動だにせぬまなこに、矢張り、一切の感情はない。

当たり前だ、当然だ、と。

そう思いこそすれ、俺は違和感を振り払おうと、頭を振った。

並んだ鱗の下で、彼が動く。ぞろりと並んだ扇状の鱗の群れが、波打ち、さざめきあう。

尾を打ち付け、飛翔しようともがく。

俺の怪異を、空に持ち帰ろうとするのか。

俺は、鯉幟と彼に歩み寄ると、鯉幟の尾を縛る。

「やだぁ、出られなくなっちゃいますよ…!」

彼がそう楽しそうに言った。

「鯉幟、好きなの」

俺がそう、問いかける。

「はい…!黒くてかっこよくて…もしかしたら、パトカーさんと……の次に、好きかも…」

ふぅん、と、俺は生返事を返した。

視線を鯉幟から外し、斜め上に走らせながら、ろくに彼の話を聞いていなかった。

頭の中はよく冷えていて、これからすること、それに見合って、生じる結果。その過程。全てが、事細かに想像できていた。

鯉幟の内側で、肉片のようになり、血袋のナカミと化した彼と、黒い巨体を彼の血で染めた鯉幟。それが、見たくなったのだ。

警棒を引き出すと、彼の足首の近くに、腰を下ろす。

彼が、鯉幟から頭を出したまま、此方を見る。

「俺と、楽しいことしようよ」

「あ、え…?いいですよ…えっ…このまま?」

「そう。このまま」

振り上げた警棒を、一切の躊躇なく、彼の足首に叩きつけた。

「ぎゃっ」

彼が短く悲鳴をあげる。

鯉幟の布越しに、彼の足首を、何度も何度も、渾身のちからを込めて、警棒で殴った。

細い彼の骨は、繰り返される殴打に耐え兼ねて、悲鳴をあげる。

もっと固いものはないか。俺は、そればかり考えた。

素振りに使う木刀を、居間の端から、引き寄せる。

彼の足を打ち据える。

何度も、何度も。

布越しでは、彼の皮膚がどんな色になったかわからない。

彼の骨を砕き、できることなら、挽肉のようにして、骨と肉の境目など無いほどに、潰してしまいたかった。

「やだ…いたい……。おま、わりさん…」

鯉幟の口から、彼が声を出す。

「なんで、なんで…。おまわりさん…こわ、こわい…」

だん、だん、と、彼の足を先端から根本へ、丹念に潰していく。

骨を粉砕することは叶わなくとも、あらぬ方向に曲がった足の骨を打ち砕き、そのかけらで、彼の肉を内側から裂くことはできる。

潰された彼の足からは、だくだくと血が溢れ、黒い鯉幟を内側から染めていく。

赤黒く、それでもなお、染め切られぬきんいろの鱗が、俺を見て騒めいている。

「おまわりさん…」

魚に呑まれた彼が、辿々しく俺を呼ぶ。

先程までの嬉しそうな顔とは、打って変わって、眉尻を下げ、泣きそうな顔を。痛みによる表情と違う、怯えのそれは、俺の頭を、氷の刃のように突き刺して、脳髄を凍てつかせる。

「あ、あぁ、ごめん…」

下肢をすっかり叩き潰して、出す言葉ではなかろうに、それでも、俺の口をついて出たのは、怯える彼に対する

その一言だった。

「なんで、そんなに…怒ってるんですか…」

ひくん、と、彼の喉が震えている。

怒っているのか、と、俺は己の口元を覆う。

なにを怒る理由があるのか。

鯉幟に感じた違和感を、向ける場がなく、半ば八つ当たりに、彼の身体を破壊したのは、認めよう。

それは怒りではなかったはずだ。

それに似たなにか。熱くうねるものが怒りならば、じっとりと臥して、浸すようなこの熱はなんなのか。

俺は、この巨大な魚に、なにを思ったのか。

「あ…」

かろん、と、涼やかな音を立てて、俺の手から、血塗りの木刀が落ちた。

その感情は、彼がパトカーに執着する時に、不意にこみ上げるものに似ていた。

けれど、パトカーと俺とは、彼の中で比べる余地もない違いがあるのだ。

こみ上げたその熱は、おとなしく身の程をわきまえて、すぐに鎮火する。

ならば。ならば、これはどうなのか。

彼が魚に抱かれながら、笑って見せるから。

パトカーとなにかの次に…鯉幟が好きだと言うから。

俺ではだめなのかと。

「嫉妬か…?」

もろく口から吐いた言葉は、彼にも聞こえたようで、彼は首を傾げて、俺の言葉を鸚鵡返しした。

「鯉幟は、おまわりさんみたいだから、すきなんですよ…?」

彼の発した言葉に、俺がいかに見当違いであったか、すぐに気づく。

鯉幟がすきなのでなく、俺ありきの、鯉幟がすきである、だ。

ずる、と、彼が鯉幟の口から這い出してくる。

出ようと思えば出られたのだろう。きっと俺の為に、出ないでいたのだろう。

する、ずる、と。

下肢を失った彼が、鯉幟から産まれてくる。

彼の這ったところに、血肉を擦り付け、俺の足元へ。

黒いまなこが、俺を見上げ、片手を伸ばした。

「おまわりさんじゃなきゃ、だめなんですよ…?」

彼の身体を抱き上げる。

濡れそぼった、生きた肉が、俺の腕の中で脈動する。

鯉幟は、死んだ目で俺を見ている

そうか、あれが孕んできたものは、俺の感情か。

持たぬつもりでいたものを、鯉幟が腹にいれてきたのだろう。

よくよくに、彼の話を聞けばこそ、なんら気に病むこともなく、なんら恐れることもないものなのだ。

死して伏せる遺骸に、なんら恐怖を覚えよう。

「すまなかった…」

俺は絞り出すように、彼にそう言った。

「早とちりでしたね…」

彼の手のひらが、俺の頭をぽんぽんと叩く。

彼の足から流れる血が、じっとりと、俺のスラックスを染めていく。

そうして、終ぞ、黒い鯉幟は、身動ぎすることはなかった。


あの鯉幟は、翌朝には、いなくなっていた。

彼に聞いても、ゴミバケツを覗いても、どこにもなかった。

ただ、鯉幟の口を形作る、巨大な円環だけが、居間に落ちていた。

鯉幟の行方を尋ねても、彼は笑う。

繰り返し尋ねて、ようやっと、彼は嬉しそうに顔を綻ばせて、答えた。

「食べました…」

ふふっ、と、腹を手のひらで撫でながら、

「おまわりさんによく似ていて、かわいかったから、食べました…」

彼のまなこが、俺を見て、どろんと濁り、赤い唇を、舌が舐めた。

彼は、鯉幟の怪異を食ったのだろうか。



2016/12/19

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る