第56話 なまえのはなし

粛々と、冷えた空気が落ちてくる。

甘く冷たい清らかなそれは、俺と彼を浸して、灰色の中に落ち着かせていく。

「は、ふ」

彼が息を吐いた。

「今夜は雪ですかね…」

俺を見上げて、そう言う彼の口元には、白い靄が、ふわりふわりと紡ぎ出され、霧散していく。

「そうね。降るって予報で言ってた」

俺の口からは、紫煙がひゅうと流れ落ち、薄まりながら、上へ向かって広がっていく。

「中に入ろうよ。一服つけるのに付き合って出てこなくていいのよ?寒いでしょ」

「ん…わざわざ外で吸わなくてもいいのに…」

握った小さな手が、冷えている。

「冬はね、星がね」

「あー…きれいですからね…」

と言うのは、詭弁である。

今日の空は、薄曇っている上に、月がひどく明るい。

星を見られるはずもなく、外に出て頭を冷やしていた理由を見つめながら、俺は彼に続いて、交番へと入った。

白いうなじが、ジャージの襟越しに此方を見ている。

少し伸びた後ろ髪が、簾か格子のように、黒と白のコントラストを見せつけ、俺を呼ぶ。

寝室の布団に彼が座っても、俺は彼の首を探していた。

「どうしました…?」

「いや…」

咥えたばこを唇から指で拾い上げ、灰皿に押し付ける。

彼のうなじを、混濁したような意識の中で、じっと見ている。

彼とて、それに気づかないはずもなく、けれど俺がなにかしたいのだろうと、俺が行動に移すのを待っている。

「膝においで」

俺が呼ぶと、彼は胡座をかいた俺の膝へと乗る。

彼の背中。

黒い髪。そうして、白いうなじの境目。

ああ、これもまた好奇心なのか、それとも浅ましい欲求なのか、見果てぬ深い業であるかはわからないが、俺は彼の細いうなじへ、指を糾う。

「んっ…」

細い。

両手で包み込んだ首は、一周するに余り、指を組んでもなお、俺の手のひらに覆えない場所は無かった。

「ひどいことさせて」

彼の耳元で、低く唸ると、彼はこくりと、頷いた。

肯定という免罪符を持ちて、俺は指にちからを込める。

みし、と、彼の頚椎が軋む。

「か、はっ…」

彼の指が、俺の指にかけられる。

薄い爪が、俺の肉に食い込み、がり、と、音を立てた。

「顔が、見えないな…」

「ふ、ぐっ…」

指を解き、曲げた肘の内側を使って、彼の首を絞め落とす。

抵抗が無くなり、だらりと垂れた彼の腕が、膝にあたった。

俺の腹へと背中を預け、口からは涎を垂らして、彼が落ちている。

その身体を、仰向けに布団に寝かせ、腹の上に、俺は跨がった。

苦しみのうちに、勃起したのだろう、彼の陰茎を揉み、彼が目を覚ますのを待った。

一分にも満たず、彼の目が俺を見る。

「う…ぁ…ぼく…いま…」

「ああ、おはよう」

彼の喉笛に、手のひらを当てながら、俺は答えた。

「あの、夢を…」

「そう。俺はきみを見てたよ」

すり、と、彼の股間を撫でる。

「失神して、涎を垂らしてるきみの股間、勃起してたから。こうして触ってあげてた」

「う…」

すり、すり、と。

首を、股間を、手のひらで撫でる。

彼の潤んだ目が、よく見える。

「今日は殺さないから」

殺すよりひどいことを、するつもりなのだ。

彼の身体を使って、俺が満たされようとしていることが、とてもひどいことなのは、至極自覚している。それでも尚、俺はその欲に絡め取られ、どうにも抗う気にはなれないのだ。

「あ…ぅ…」

「こっち見ててね」

股間を撫でながら、彼の首を片手で絞める。

両手でなくとも、彼の首の殆どが、俺の手のひらに押し潰される。

酸欠に喘ぎ、顔を赤くし、彼が悶える。

「首絞められてちんちん勃起させてるの、わかる?気持ちいい?」

「ぎ…ひぃ…」

服越しに、先走りだろうものが浸み出しているのがわかる。布地の向こう側に、滑りやすい液体が溢れ、布地を掻けば、彼の喜ぶ場所が刺激される。

首を絞める指にちからをいれた。彼が声にならず、鳴く。

小さな体躯が反り返り、指が彼の意思に関係なく、俺の腕を掻き、爪で肉を抉る。

ぴりっとした痛みの後に、引かれた赤い線が、彼のくれたものだと思えば、殊更嬉しかった。

彼の身体が、二度、痙攣し、はたりと動かなくなった。

開いた唇から、ひゅう、ひゅう、と、息が聞こえる。

俺は彼の股間を手を滑り込ませ、熱り立たった陰茎を握り、しごく。

ちゅくちゅくと音を立てて、彼の陰茎が、快感に膨らむ。

「あ゛…は…げほっ…。うっ…」

「二分くらいかな」

彼の落ちていた時間を、スマートフォンで確認し、俺は言った。

「つらい?」

俺がそう問えば、彼は荒い息のまま、大丈夫だと、そう答えた。

「そう」

彼の首を撫でる。

陰茎をしごきながら、彼の首に浮き始めた、俺の指の痕をなぞる。

「ん、あ…。おま、わりさ…」

「もっと絞めてほしいでしょ?きみは、いやらしい子なんだから、きっとそうだろう」

彼の首を絞め、緩め、彼の表情が変わる。

くるくると、快感と苦悶を行き来し、彼が呻く。

「あ、あ…」

切ない声を聞きながら、彼の頸動脈を、指で強く挟み込んだ。

途端、酸素を送る血液が途絶え、彼は意識を失う。

けれど、射精の瞬間は、その限りではなく、俺の手のひらには、彼の吐いたものが残った。

青臭くぬるつく彼の精液を、手のひらで受け、それを口元に当てる。

すん、と、鼻を鳴らして嗅ぎとる、彼の劣情のにおい。

それは、俺のものとさして変わらない。

俺の劣情を代理しているかのような白濁を、舌で舐めた。

「は…。ぁ…」

浅ましい熱が、俺の股間に昂ぶり立つ。

勃起したものを、彼の太ももに擦り付け、腰を揺らした。

彼はまだ、夢現を揺蕩っている。蒼白の寝顔を観察するのは俺だけだ。誰のものでもない。

「かわいい…」

口をついて出た言葉は、それだった。

いとしく、浅ましく、可哀いと、俺は彼を独占しながら、そう思った。

彼は今は、何を夢想しているのだろうか。浮かび揺蕩うような、あたたかい営みの中で、彼はしあわせを感じているのだろうか。

くる、と、彼の喉が鳴った。

繰り返される意識の喪失と覚醒に、彼はまた、夢現から蘇生する。

ひたり、と。

彼の喉に当てた手のひらが、彼の体温を感じ、微細な皮膚の揺れ動きを受け止める。

ころりとした小さな喉仏。

肺へと向かい、下に落ちる喉の軟骨。かたいチューブが、彼の体内にある。

脈動する彼の太い血管が、どくどくと、早鐘のように高鳴って、繰り返されるのだろう、酸欠の苦しみに怯え、しかして期待し、震えている。

「お、まわりさん…」

血の気の失せた唇が、言祝ぎのように、震えた一言で、俺を呼ぶ。

「ああ、いるよ」

ここにいるよ、と。ずっと見ているのだ。

彼が自らを見据えていないその時も、俺が彼を観測し、彼を保たせている。

死と蘇生を繰り返す彼を、彼が観測し切れぬ時を、俺が肩代わりしようと思う。

ひどく切ないような気持ちを覚え、俺は顔を歪めた。

彼のいのちを、手のひらに握り込んでなお、俺は彼のいのちを、彼のこれから先を握っているわけではない。

刹那的な彼の死を、握り込んでいるだけなのだ。

いつになっても、俺が彼を所有することはできないのだろう。

所有させてくれ、など、口が裂けても、腹を裂かれても言うことはないだろう。

所有されているのは、俺なのだ。

彼のいのちを握っても、彼に所有されているのは俺なのだと、俺は知っていた。

浸食する怪異たる彼によって、俺は生かされているのではないか。その疑念は、うすらとしたものから、降り重なる新雪のように、厚く、やわらかく、俺に凍みさせていく。

彼の喉を押し潰しながら、俺は息を吐いた。

彼が求めている酸素を、深く吸った。

「お゛、ぁぁい、あ…」

おまわりさん、と、彼は俺を役職で呼ぶ。

彼が俺の名前を呼んでくれることもなく、俺が彼の名前を呼ぶこともなく。お互いの名前を知らぬまま、深いところに来てしまったと、そう思った。

雪の夜のようだ。

しんとしづかなその世界で、俺も彼も、お互いの呼び名を知らず、息遣いだけで、お互いを認識している。

「俺さ」

彼の眼球が揺れ動き、今にも上を向きそうであった。

耳元に唇を寄せ、彼の体温を柔らかな口唇で示しながら、滲み出すような声で言った。

「俺の名前、ーーー…って言うんだ」

かふ、と、彼が小さく息を吐いた。

一瞬緩んだ俺の手から、彼の喉へと空気が巡り、彼が一拍置いて、俺に返した。

「ぼくは」

彼の名前が、俺の耳に入り込み、その明確な発音を脳に焼き付ける途端、俺はひどく恐ろしくなった。

彼の首を、両手で絞めあげ、踊るような彼の黒いまなこを受け止めながら、彼を落とした。

漸く彼の首から手を離した頃には、彼の肌に、俺の手形が青紫色にしかと残っていた。

死んだように白い顔をした彼が、眠っている。

俺の名前を抱えて、夢現の内にいてくれたらいいと思った。

冷ややかな肌に、手の甲で触れ、未だおさまらぬ浅ましい劣情を、彼の口に咥えこませた。

きっと彼は、歯を立てない。

意識のない彼の頭を掴み、脳内で彼の名を呻いた。

ぐるぐると、彼の名前が、腹のなかで蠢く。

彼の怪異が深く、俺の中に入り込んでいるようだった。

手指の末端まで、彼のものが俺に入り込んで、にゅるにゅると蠕動し、俺を食っていく。

「はっ…。ふ…、くぅっ…」

彼の上顎の溝が、俺の陰茎を撫で回す。

柔らかな喉の粘膜が、俺を飲もうと待っている。

彼が、その黒いまなこを開け、押し込まれたものに、一瞬苦しげに顔を歪ませ、そうして、目だけで笑った。

ごくり、と、彼の喉が嚥下し、俺の出したものを、胃袋へと収めた。

彼の舌が、俺の陰茎に絡みつき、じゅるじゅると音を立てて、精液を吸い出す。

ちゅぽん、と、小さく唇を鳴らし、彼が俺を見た。

「お、まわりさん…」

ひび割れたような、かすれた声だった。

彼が俺を呼ぶ、その言葉が、渦巻いていたもの。喰らって鎮めていく。

名前など、さしたる問題ではないのだ。

すがたかたちが、どうであっても構わないのだ。

俺も彼も、お互いの芯がそれであればそうなのだと。

俺は、彼の頭をかき抱き、暫し、汗に濡れた彼の髪に顔を埋めた。

精液のにおい。汗のにおい。うっすらとしたガソリンのにおい。

有機物と無機物を混ぜあわせたにおい。

彼が俺の背中に腕を回し、あやすように、数度、手のひらで、とんとん、と、叩いた。

法悦の極みと呼べるような抱擁だった。

「しずかですね…」

彼が言った。

「ゆきが…」

カーテンの隙間から光が零れていた。

「積もったんじゃないかな…」

俺がそう返すと、彼は笑んで、布団に入りましょう、と、潜めた声で言った。

身体を起こし、彼と一緒に布団を被る。

「ふゆは、とても優しいんですよ…」

彼はそう言って、俺の頭を抱いた。

「しろいのが、全部つつんで、静かに、静かにさせてくれる…」

とん、とん、と、彼の指が後頭部を叩く。

「おやすみなさい…」

耳鳴りがしそうな程に静かな夜に、俺は彼の音だけを聞いて、ひどく安心していた。

回帰するような、そんなあたたかい夢を、彼が俺に流し込む。

「いつか、ぼくをおまわりさんのなかに入れてくださいね…」

彼の言葉の真意を探る前に、俺はあたたかいものの中へと、眠り込んでいった。



2017/01/15

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ぼくとパトカーさんとおまわりさん 宮詮且(みやあきかつ) @gidtid

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