第58話 日常 回帰点。

身を切るような寒さの中に、花の匂いがする。

それが、交番の片隅に植えられた蝋梅のにおいであると気づくのに、そうは時間はかからなかった。

甘酸っぱいような、不思議なにおいは、いたく可憐で、年甲斐もなく、鼻先をその蝋作りのような黄色い花弁に埋めて、俺は息を吸った。

ひたり、ひたり、と、春が近づいている。

眠るように優しく、淡く光立つような季節が近い。

それまで、もう暫く、じっと固い灰色に身を落として、堪えねばならぬ。

そう思いて、俺は顔をあげた。

薄曇りの情景は、まさに冬と呼ぶに似つかわしく、今にも、白いものを産み落としそうであった。

かじかんだ指に息を吐きかけながら、警邏に赴こうと、ポケットの鍵をまさぐる。

厚い冬のコートの下で、防刃ジャケットがこわばっている。

運転席に乗り込み、鍵を差し入れ、回すと、一瞬高く、エンジンが鳴いた。

凍えていたパトカーが、身ぶるいし、身体を温めはじめる。

その音を聞きつけたのだろう、彼が助手席の窓をノックした。

「ぼくも、行っていいですか…」

控えめに発せられた声は、白い息を吐いている。

「ああ。静かにね」

「やたっ…!」

開いたドアの隙間に身体を滑り込ませるようにして、彼が助手席に座る。

まだヒーターの効かない車内は冷たく、ネックウォーマーで隠した唇も、熱い息を吐いている。

ギアをドライブに入れ、ゆっくりと、アクセルを踏み込む。

コンクリートの道を踏み越え、アスファルトの公道へ。

がり、と、小さな石を噛んで、車体が揺れた。

灰色の世界に、ひとはおらず、そして車も、俺たち以外に走っていなかった。

まるで隔離されたような錯覚。

いつか似た景色を、見た覚えがある。

彼が一切を遮断しようとした、夏の日の、セロハンを貼り付けた青い空。

偽物のような止まった世界に、俺と彼が息づく。

名を交換してから、まだいく日も経っていない、冬の夢。

その先にあるものを求めている。

黄金色の太陽だけが、色彩を持って、俺たちを見下ろしている。果たしてそれは、兆候だろうか。

いけども続く無人の道を、俺は彼とパトカーと、言葉を交わすことなく、進んでいた。

不意に、言葉が欲しくなり、いつもの警邏ルートを外れ、交番から少し離れた稲荷神社へと、パトカーを向かわせた。

「初詣、まだだったよね」

俺がそう言うと、彼は頷いて、少し嬉しそうに笑った。

稲荷は、丹塗りの鳥居と、長い石段を持って、俺たちを迎え入れた。

「パトカーさんは、少し待っていてくださいね…」

彼はそう言って、パトカーの車体を手のひらで撫でた。

パトカーは黙して語らない。なにもかもを見透かし、知っている怪異の機械は、言葉を持たない。

鳥居をくぐりて、俺たちは、石段上がる。先を行こうとする彼を止め、手を繋いだ。

冷え切った彼の手が俺の手にくっつく。ふたつの手のひらが、ゆっくりと体温を取り戻していく。

ざり、ざり、と、細かな砂を踏みしめ、石造りの階段を上がると、朱色の社が俺たちを出迎えた。

ぞろりと並んだきつねの石像。

それの全てが、赤い舌を垂らすように、赤い布を首元につけている。

石のきつねが、こちらを見て、ニンマリと牙を剥き出して笑う。

矢張り、境内にもひとはいなかった。

羽を膨らませた丸い雀が二羽、俺たちの来訪を見て、社の屋根へと飛び乗っていった。

彼が俺の隣で、明瞭に声を発した。

「こんにちは」

彼独特の、消え入るような語尾でないその話ぶりに少し驚き、それから、彼は誰に話しかけたのだろうと、そこに行き着いた。

鈴を鳴らすでもなく、すたすたと賽銭箱の前に彼が立ち、社に一礼する。

「暫くのご挨拶で…。すみません…。特になにも変えていませんが、変わることがありました。それはさした問題でないと思ってますが。あぁ、お子さんの具合は?」

俺は、彼の後ろに立ち、ただ、彼が誰かと会話をするのを聞いていた。

「種のお母さんも、大丈夫なんですね。よい知らせですよ。ぼくはこちらで暫く…ええ、もう当分はこちらで」

なんの話をしているのかと聞くのは無粋に思えた。

浸食する怪異たる彼が、この稲荷大社の持ち主と、なにか言葉を交わしていたとして、なんの不思議があろうか。

彼の前に、巨大な白いきつねが笑っているような気がして、俺は一歩、後ずさった。

「おまわりさん、危ないですよ…おちてしまいます…」

彼に言われて振り返ると、俺の背後は、いつの間に近づいたのか、黒く蠢くものが、幾つも折り重なって、こちらに手を伸ばしていた。

「動かなければ平気です。そのひとたちは、めがわるいから…」

そう言って、彼は社に向き直る。

「随分と、彼らも小さくなりました…。ぼくが、しあわせを積んでいくから、殺すものも少なくて済んで…。消えることはないでしょうが、じきにもっと萎むでしょう…」

背中越しに、蠢く黒いものの声が聞こえる。

それは呻きのようで、呪詛のようで、言葉を成していない鳴き声だった。

蜘蛛の糸に繭のように包まれ、薄い皮を指で裂いて、生まれ出ずる、彼の浸食。

きっとこれらは、彼だ。

「あのひとは、ぼくの大切なものなので、もしぼくが見ていない時な、あれらがあのひとになにかした時は、よろしくお願いします…」

彼が、ぺこりと頭を下げて、一歩下がる。

「今日は急だったので、手土産もなしに失礼しました…。またなにかおいしいものをお持ちします…。ええ、あのひと、料理がすごく上手なんですよ」

ではまた、と、彼が社に告げ、俺の隣へと、駆け寄ってきた。

「冬は灰色だから、増えてしまうんですよ…。でも、おまわりさんとなら、ぼくはもう、このひとたちが、こわくない…」

彼は、俺の手を引いて、群れる黒いものの中へと、歩みを進めた。

折り重なっていた黒いひとたちが、わさわさと横に避けていく。

石のきつねが、黒いひとたちを目で威圧し、時に唸りをあげて、散らそうとする。

彼に手を引かれ、石段を降りていく間中、黒いひとらは、置いていくなと言うような目で、未練がましく、俺たちに手を伸ばしていた。

うねるような冷たい風が、俺と彼の身を寄せさせ、黒いものを吹き流した。

けもののにおいが、一瞬、鼻を掠める。

「きつね…?」

「ちゃんと見ていてくれてますよ…」

お願いしたから、と、彼が付け加え、安心したように、俺の指を、彼のそれで糾う。

石段を降り、パトカーの前に立つと、パトカーの車体は、温まっていた。

エンジンは切られているのに、内部機構も、ヒーターでぬくめられた車内の空気も、そのままだった。

「帰る?」

俺がそうたずねると、彼は助手席に座り、前を見たまま、「山にいきたい」と、そう言った。

梅雨の頃か夏の頃か、すっかりと曖昧になってしまったけれど、彼と山に行ったことを思い出す。

俺が倒れ、死にかけていたその最期を看取った彼のこと。

俺が死んでいる間に、彼がなにをしたのか、定かではない。

その時に拾い上げたジッポライターは、オイルが切れても、いつまでもポケットの中に眠っている。

そこに向かおうと、ハンドルを切る。

灰色の空はしづかで、じきに雪が降るだろう。

音は、なにも聞こえなかった。

路肩に車を停め、俺はパトカーを降りた。

マッチを擦ると、橙色の炎が音を立てて燃え上がる。

つんとするリンのにおい。

「は、ふ…」

彼が俺の隣に立って、パトカーに背を預けた。

「つめたいですね…」

「冬だしなぁ」

彼の吐き出す白い霞。

俺が吐き出す紫煙。

混じり合って疎らに移ろい、霧散する。

垂らしていた左手を、彼が掴んだ。

指を絡め、きゅっ、きゅっ、と、握る。

「俺は、夏にここで死んだの?」

俺が聞くと、彼はこくりと、頷いた。

「ぼくが、ころしました…」

鼻を鳴らして俺が笑うと、彼が俺を見上げた。

「きみに殺されたのは何回かな…。俺がきみを殺したのは、もう回数を覚えてないけど、逆は、数えるくらいしかないと思う」

たばこの苦い煙で巻いて、彼の気持ちを知りたかった。

「ん…」

「きみが安心するのなら、俺の中に入れてもいい」

俺は、パトカーのボンネットに腰を預け、続ける。

「ここで、パトカーのボンネットの上で、あの日の再現をしてもいい」

彼が俺の足に擦り寄り、何事かを呻いた。

「今夜は冷えるだろうから、俺は腐らないし、きみもきっと凍死する。一緒にここで死なないか」

心中めいた言葉を言っていると思う。けれど、俺たちに限定すれば、心中ではなく、ただの二人の日常だ。

死ぬこと、生きること、殺し殺され、黄泉帰ること。

それが営みに食い込んで、最早切り離すことのできない、暴力装置であるのだ。

俺と彼の内には、猟奇的と評価される繋がりがあって、俺はそれでいいと思っている。

二本めのたばこの火が消えるまでの間、たっぷり時間をかけて、俺は彼に話をした。

ボンネットに仰向けに寝転び、彼を腹に乗せる。

自ら、防刃ジャケットのジッパーを下ろし、着込んでいたシャツに脱ぐ。

冷たい鉄板と外気に、どんどん体温が奪われていく。

彼の手には、カッターナイフを握らせた。

「いいよ」

そう言うと、彼は、法悦に濡れたまなこを俺に向け、小さな声で、失礼します、と言った。

きちきちと音を立てて、カッターナイフの薄刃が押し出される。

鳩尾に、ちくりと、小さく痛みが走った。

みぢり、と、肉を掻き分ける音と、文字通り切り裂かれるような激痛。

俺は、自分の親指の付け根に牙を立てて、彼が驚かないように、声を殺した。

彼が俺の腹を切開する間、ひたすらに頭の中を占めていたのは、痛みに対する苦しみではなかった。

なぜ出会ったのかと、そんなことだった。

なんの因果か、彼は俺の交番に来て、俺は彼を迎え入れた。浸食する怪異を受け入れ、今度はこうして、彼をもっと深く受け入れようとしている。

なにがこうも絡み合って、お互いがひとつのものに。

彼となにになりたかったのだろうか。

「ぐ、ゥっ…」

「おまわり、さん…」

返り血を浴びながら、彼が俺の傷口に指を差し入れ、抜き出す。

べったりと血潮で染まった指先を、さも愛しそうに舐めながら、俺を呼ぶ。

彼と恋仲になりたいのではない。

ましてや、親子になりたいわけではない。けれど、俺は家族が欲しかった。

めおとでも親子でもない、そんな、俺だけの家族が。

そして、彼はパトカーと家族になりたかったのだ。

こじれにこじれたお互いのエゴを、巧みに撚りあわせ、出来上がったものがこれだ。

不完全でどうしようもなく爛れた、ひとと怪異の営み。

そして、俺は、それこそが、俺の求めていたものに近いのだと、今はよくわかる。

彼が俺のはらわたを引き出し、ボンネットに広げていく。

寒さのせいなのか、痛みは然程強くなかった。

だくだくと溢れ流れる俺の鮮血が、パトカーの白と黒を舐め回し、凄惨なものとしていく。

パトカーが、あたたかい、

彼の愛したパトカーが、ひどくあたたかく、優しいものである気がして、それならば、彼がこれを愛しているのも頷ける。

俺の見込みは、正しかった。

「げぇ、ふっ…」

胃袋からこみ上げた血液を口から吹き出しながら、じきに俺は失血で意識を失うのを自覚する。

思考は澱み、凛と冷えた冬の冷たさすらも、霞がかかったように、他人事であった。

全身を俺の血で染めた彼が、俺の血を、喉を鳴らして飲んでいる

幸せそうな横顔は、ひどくかわいらしかった。

「おまわりさん…おなかのなか…からっぽになっちゃいましたよ…」

彼が、俺の腹の中に腕を差し込んでいる。

俺には、その異物感すら感じられなかった。

「お邪魔します…」

引き出された内臓を身体に巻きつけて、寝具よろしく、彼は俺の中へと、身体を丸めて横たわった。

叶うなら、腹を閉めて、俺の中で安らかに寝付かせてやりたいのに、指一本、動かすことができなかった。

昏々と、牡丹雪が落ちてくる。

しづかに、着実に、俺と彼とパトカーの上に降り積もり、白い優しさで、埋めるのだろう。

「おやすみなさい…」

俺は、



瞼を開く。

白い蛍光灯が、俺を照らしていた。

微かに、蝋梅のにおいがする。

がば、と、身体を起こし、辺りを見回す。

「え、あ…」

「おはやうございます…」

隣の布団から、彼が頭だけを出して、俺に言った。

「……俺たちは」

「夢じゃないですよ…」

彼が、ずるりと、衣摺れの音を立てながら立ち上がった。

「とても…しあわせで…。だから。おまわりさんには、あたたかいところで眠って欲しくて…」

ふへ、と、彼の顔が、だらしなく弛んだ。

「今回のはじまりは、ここにしました…」

交番の、居住スペース。

寝室兼居間。

彼と俺とパトカーが暮らす場所。

ストーブが焚かれ、あたためられた部屋で、薬缶がしゅんしゅんと沸いている。

日常の回帰点。

俺と彼とパトカーが、全てを営む拠点。

そうならば、そうだ。

彼の日常の拠点は、既にここに移っている。

彼の家はどこだっただろうか。

少しパトカーを走らせた、ちょうど、あの稲荷大社の。

「ぼくはきつねさんではないですけどね…」

見透かしたように、彼が言った。

「おなかがすきました…。おまわりさんのごはん…たべたい…な…」

わざとらしく俺を見上げ、彼が言うものだから、追求することも馬鹿らしくなり、深く考えるのはやめた。

また行けばいいのだ。彼の家が、建っていようといまいと。

俺も彼もパトカーも、帰るべき場所はここで、今更切り離し、逃げることなどできないのだ。

俺はたばこを咥えて火をつけ、彼と俺のために朝食を作ろうと、腰を上げた。

日常を、開始するために。




2017/01/25

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