第13話 めぐすり
ぼんやりと空を見上げていた。水彩絵の具を薄く広げたような青空は、どこまでも平坦で、滑るように真っ白い雲が流れていく。ぴゅうと伸びた飛行機雲が、雲の隙間を縫い合わせ、繋いでいく。
彼は小さく伸びをして、パトカーに向けて歩いていった。
俺はたばこの煙を吐きながらその後ろ姿を見ていた。
彼がパトカーの前にしゃがみこんで何事かしている。
どうせまたバンパーを撫で回して、その冷たさだとか、なめらかな感触だとかを楽しんでいるのだろう。
パトカーが、身じろぎした。
俺のポケットには、パトカーの鍵が入っているし、パトカーがひとりでに動く道理はないのに。
パトカーは、ずるずると前に進み、彼を食べるようにゆっくりとその車体の下に引き込んでいった。
彼の悲鳴のような、小さな声が聞こえる。
俺は動けない。
足が地面に張り付いたように、棒立ちのままだった。
ゆっくり、ゆっくりと、足から順にパトカーに食われていく彼を見ていた。
人が車体に引き込まれて潰されていく音を聞いたことがあるなんて、そうそうあるものじゃない。
だのに、俺はその音をきちんと認識していて、彼が少しずつ彼の意識を手放していくのを知っていた。
風向きが変わって、むっとするような血臭が俺のところに届く。
車庫の脇に生えた大きな植木が、葉をすれ合わせて、ざあざあと鳴いた。
彼が、首だけをパトカーの下から出して、俺を見ている。
見ている。
彼はどんな顔をしていただろうか。
彼は俺と目を合わせたりなんかしない。
クレヨンで塗りつぶしたような真っ黒な顏から、見開いた目が。
そんな、くっきりとした夢を思い出しながら、俺はたばこを咥えて、夢と同じように空を見ていた。
ちぎれた空の波間から、白く光が零れさしている。
夢の中では快晴だったのに、現実はそうはいかない。
けれど、じきに晴れるだろう天気模様が存外に心地よく、薄く湿った風に吹かれていた。
「お巡りさん…あの…」
控えめな口調で話しかけてくる彼は、夢のようにひしゃげてはおらず、身長差も相まって、やはり顔を窺うことはできない。
「ああ、なに?洗車なら、俄雨が降るらしいから、また明日頼むよ」
「あ…そうなんですか…。そうか…。でも今から洗えば、明日も洗える…あっ…二回洗えますよ…!」
二度手間、ではなく、楽しそうに言うのは、洗車のたびに俺が手間賃代わりに渡す千円札目当てではなく、単純にパトカーを洗いたいだけなのだと、俺は知っている。
彼の洗車はとても丁寧で、業者に頼めば千円じゃきかないだろう仕事をしてくれる。
昇降機と赤いランプをつけたパトカーを、一回八百円の洗車機にぶち込むわけにもいかず、かと言ってしょっちゅう洗車をする程、俺はまめな性格ではないのだ。
千円で内装の埃取りまでしてくれるなら、万々歳である。
「いや、明日頼むよ」
「そうですか…」
至極残念な声を出しながら、彼は左手で自分の目を擦った。
泣いているわけではなさそうだが、俺は気になって、体を屈めて彼の顔を覗き込んだ。
白目が赤くなった顔が一瞬見え、すぐに飛び退るように彼は逃げた。
「な、…な、なんですか…!?いきなり…急に…!」
「目を擦ってるから、どうかしたのかと思って…赤くなってたね。こすらないで目薬点しなよ」
「あぁ…うっ…はい…。自分の点したんですけど…あー…やっぱり痛痒くて…」
彼は顔を伏せながら言う。
「あっ…!」
いいことを閃いた、という声だ。
俺としては、彼の閃いた、は、だいたい突拍子もないことで、それを前提にして、彼の話を促す。
「パトカーさんの…ガソリンなら…治るかもしれません…!」
「そんなことだろうと思ったよ」
「目薬…!点しましょう…!ねぇ…!お巡りさん…!お願いします…!パトカーさんのガソリンわけて…!」
俺の服の袖を引きながら、彼は嬉しそうに言う。俺は、彼をあしらいながら、吸いかけのたばこを、外用の灰皿に放り込んだ。
得てして、彼がパトカー関連のことで折れた試しは殆どない。
それに、俺としても、彼にガソリン目薬なるものをしたらどうなるのか、少し興味がわいていた。
彼と出会ってから、なにも生活は変わらず、好きな食べ物も、嫌いな番組も変わっていない。
ただ、彼に対峙した時の、彼を痛めつけたらどうなるのだろう、という好奇心。
それだけが、ふつふつと腹の中で膨れ上がり、すっかりその欲求に抗うことを放棄していた。
こうしたら、どうなるだろうか。
子供のような好奇心。まるで蝶の羽から鱗粉を取り、トンボに塗りつけて新しい虫を作ってみようとする、そういう類のものだ。
その好奇心の対象が、ひとのかたちをしているとはいえ、彼限定にのみ湧き上がるのだから、俺にはそれを躊躇う理由はあまりない。
彼は、死なないから。
その理由付けは、俺の中の倫理観だとか道徳心だとかを程よくごまかして、俺を好奇心の奴隷でいさせてくれる。
持ち上げた携行缶には、たっぷりとガソリンが入っていた。
彼がたびたびガソリンをせがむので、手間を省く為に、いつも携行缶にいくらか移しておくようになったのだ。
それも、彼が勝手に出して飲まないように、車庫の中に鍵付きの棚を用意してまでだ。
キャップを外すと、ガソリンのにおいが漂い始める。
それをグラスに注ぐと、薄いオレンジ色がきらきらと光り、独特なにおいは強くなっていく。
彼は椅子に座っていて、ガソリンのにおいのせいなのか、落ち着かなそうに腹を抑えた。
「おなかのすくにおいですね…!」
「それを思うのは、多分君くらいなもんだよ」
ガソリンのにおいが好きな人はたくさんいるだろうが、それをおいしそうと形容する人には、彼以外には会ったことがない。
スポイトで吸い込んでみると、さすがにオレンジ色は見えないほどに薄まって、殆ど透明に見える。
「あ、あの…顏…見ないでくださいね…」
彼は服の袖で、目以外をすっかり隠しながらそう言った。
俺がしげしげと彼の顏を見たのは、今回が初めてだ。
両目が赤く充血している。
そんな剥き出しの、それも相当神経の入り組んだ眼球にガソリンを垂らして欲しいというのだから、やはり彼は少し…どこかがどうにかなっている。
俺は彼の瞼を指で抑えた。
黒い睫毛に縁取られた白兎の目は、所在無げに細かく視線を変えている。
俺の顏を真正面から見据えたくないのだろう。
いつか、人の顏は怖い、と、彼は言っていた。
それが、人による視線なのか、それとも顔面の造形自体を指しているのかまでは、深く聞いていない。
わくわくした彼の目に急かされて、スポイトを彼の目の上に運ぶ。
きゅっと玉になったところを押すとスポイトから、二滴、ガソリンが落ちた。
眼球に着地した途端、彼の瞼はぎゅっと閉じられた。
「あ゛っ…!あ゛ぁっ…、イ゛ッ…!」
彼の袖は、目を押さえて、顏は下を向く。
痛いのだろう。当然だ。
「イ゛ッダ……パトカーさん…イッ…あぁ…あぁぁぁ……ひひっ…パトカーさん…ガソリン…。イ゛、イダィィ…パトカーさん…!」
俺は彼の首根っこをつかんで、上を向かせる。
「反対側も注すんでしょ?隠してたら注せないよ?」
顏も見えてるし。と、言うと彼は服の袖を下にずり下げ、また鼻と口を隠した。
ガソリンと涙の混合液が、真っ赤になった眼窩から溢れ出している。
俺はもう二滴、その真っ赤な目にガソリンを注した。
「ゔっ…あ゛ーー……ふゔっ…ふゔーっ…パトカーさんがっ…ふふふっ…あ゛ァッ…!」
目を覆い、体を丸めたくなるのを耐えているのだろう。
かっと見開いた真っ赤な目から、ガソリンが揮発していくのは、どんな痛みなのだろう。
反対側の目にも、同じようにガソリンを垂らす。
彼の顏はひどく歪んで、顰められた眉の下で、赤く熟れた眼球が果汁を溢れさせている。
「ゔーーっ……みえない…なんにもみえない…。おまわりさん…どこ…あ゛ーー……こわ、こわい…みえない…」
俺は、彼の顏に手を添えた。
涙で濡れた彼の顏は、しっとりと冷たかった。
俺は、彼の眼球に、指を押し当てる。
彼が身をよじる。
頭をしっかりと掴んでいるので、彼は固定されたまま、眼球を俺の指が触っていくのを受けるしかない。
腕を振って抵抗すれば、彼の顔が俺に見えてしまうのがわかっていたから、彼がなにもできないのを、俺は確信していた。
濡れた丸い玉が、指の下で動き回り、瞼を閉じようとするのだけど、俺の指を跳ね除けて閉じる力なんてない。
優しく、指の腹で撫でるように、表面を触った。
つるつるしている。やわらかい。
「お゛まわり…さ…」
彼が怯えている。
「そのままでいてね」
俺は彼の左目に、唇を近づけた。
歯の間から出した舌で、彼の眼球をぞろりと舐める。
「ゔ…あ゛っ…あ゛ぁ…ぁぁ……」
ガソリンのにおいが、うっすらと鼻を抜ける。
涙の塩味と、ガソリンのにおい。
どちらも俺には好ましいものではなくて、彼の目玉を舌でする感触が気に入らなかったら、すぐにやめてしまったことだろう。
彼は呻き声をあげながら、俺に嬲られるまま、おとなしくしている。
恐ろしいのだろう、痛みの時とは違う震えが、彼の体に満ちている。
あやすように右手の親指で目玉を撫でてから、彼の眼窩をぎゅっと押し込む。
少し伸びていた爪が、瑞々しい球体に刺し込まれていく。
「ひぃっ…い…あ゛ッあ゛ッあ゛ッあ゛ッ……!」
割り裂かれた柔らかな眼球は、どろどろと内側の水分と血を吐き出して萎んでいく。
親指を、すっかり彼の中に埋めてしまうと、俺はようやく彼の左目から舌を離した。
彼の身体が、がくがくと痙攣している。
痛いからなのか、奥まで指を押し込み過ぎたからなのかはわからない。
濁った母音を口から吐きながら、それでも彼は顔を半分隠したまま、片方だけ残った哀れな目をしばたたかせて、なす術なく椅子に座っている。
残った左目に、爪を立てた。
先程と同じように、濡れた球体が圧迫され、狼狽えながらかたちを変えていく。
ぐっぽりと指を沈め、温かな眼窩の中で回すように動かして、楽しんだ。
俺が指で搔き回すたびに、彼の身体はひくんひくんと小さく跳ねる。
声も無く彼は身体を震えさせていた。視覚を奪われ、なす術もなく。
指を引き抜くと、赤黒くにちゃにちゃしたものが、爪の中に入り込んで、彼の軌道から糸をひいた。
両目を真っ赤に塗りつぶされて尚、彼は顔を隠している。
そろそろ両手が疲れてしびれてしまっているのではないだろうか。
俺は、救急箱から三角巾を取り出して、ちょうど彼の両目と、鼻まで覆える太さに折った。
血を吸うように、傷パッドを彼の目に当て、三角巾を巻きつける。
「やだ…顔…おまわりさん…かおは…」
「見えなくするから、手を下ろしていいよ」
結び目を作って、少しの事では解けないか確かめる。
うまく結べたようで、彼の顔の上半分をしっかりと覆った布は、ずり落ちることはなかった。
「まえ…みえない……パトカーさん…どこ…パトカーさん……おまわりさん…パトカーさんは…」
立ち上がろうとした彼が、座っていた椅子の脚に引っ掛けて転びそうになる。
「やめとけよ、見えてないんだろ?」
「う…でも…パトカーさん…。目はもう痛くないし…うう…パトカーさんに触る…。触りにいきます…」
俺は手をひいて、彼をパトカーの前まで連れて行ってやろうと、交番のドアを開けた。
彼が、すん、と鼻を鳴らして
「あめのにおいがしますね…」
言われてみると、成る程。
俄雨が通り過ぎ、地面は濡れ、雲の波間からは淡く光が立っていた。
出しっぱなしだったパトカーが、震える水の玉を身にまとっている。
広く冷たいボンネットに、彼が手のひらを置くと、動き出したガラス玉のような粒が、彼の元へ集まり、滑り落ちていく。
「パトカーさん…いい雨でよかったですね…!明日は…ふふ…そうですね、ぼくがきれいにしてあげますからね…!」
まるで、パトカーが喜ぶ姿が見えているかのような物言いで、彼はボンネットをぺたぺたと触り続けた。
パトカーの気持ちが見えない、俺の方がいっそ盲目のような気さえして、俺はかぶりを振る。
「大丈夫ですって…パトカーさん…。もう目は痛くないんですよ…おまわりさんが治してくれたから…ねぇ?」
パトカーの前で体操座りをして、グリルを撫でながら彼は言う。
固く巻かれた布の下で、どのように彼の潰れた両眼が生えてきているのかは、あまり考えてたくない。
俺はうねうねと彼の内側が波打って肉が生えてくる様を想像して少しゲンナリした。
けれど、彼の回復力ならば、明日の朝には本当に潰れたものが再生し、いつもと変わらない姿でこうしてパトカーの前に座っているようにも思う。
たばこに火をつけ、いつ彼を立たせて、交番に連れ帰ろうか様子を窺う。
焦げた煙の靄の中で、一瞬、パトカーが小さくふるえ、ほんの数センチ、前に進んだのを見て、俺は彼の首筋をつかむと、引きずるように交番へと走り込んだ。
了
初出20160220
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