第12話怪異を作る黒い憂鬱
嫌なことがたくさん続いた日の夜は、なんだかとても眠るのがこわい。
その嫌なことそのものが、夢かもしれないし、現実かもしれない。その境目は、一度眠って、目を覚ましてみないとわからないのだ。
そんな日に限って、おまわりさんに交番を追い出されてしまったのだから、ぼくは一人で眠らなくちゃいけない。おまわりさんは、一晩どこかで泊まってお勉強会とやらに出るらしい。よりにもよって、こんな日に。
ぼくは、パトカーさんと一晩過ごそうと思ったのだけど、そんな日に合わせてパトカーさんを点検に出したおまわりさんは、少し性格が悪いと思う。
うっかりおまわりさんがパトカーさんと一緒に、「やっぱり泊らずに帰ってきた」と言って帰ってくるのを期待したぼくは、夕方まで交番の前でうろうろしていた。
けれど、いつまで経ってもからっぽの車庫を見て、ぼくは家に帰るしかできない。
帰り道は薄暗くて、まるでこわい夢の続きのようだった。
ぼくがいなくても、飼っているねこは平気そうで、今日も、開けておいた窓から外に遊びに出かけているらしい。空っぽの餌入れが、ぼくを見ていた。
しんとしている。
おまわりさんのいる交番は、あったかくて、おいしいごはんが出てきて、よく干されていいにおいの、ふかふかした布団で眠ることができる。
その上、朝起きたらすぐにパトカーさんに挨拶ができて、昼間もずっとパトカーさんの前に座っていられる。
改めて、あそこはとても素敵な場所なんだと、ぼくはおもった。
家に帰ると、なにもかもを自分のために自分でやらなくちゃいけなくて、ごはんは食べなくても平気だけど、お風呂に入るのはできればしたい。
ぼくは乾いた湯船にお湯が満ちるのを待っていた。
ねこもいなくて、とても静かで、ぼくの大切な車のパーツや模型がたくさんあるのに、なんだか今日はぼくの家じゃないみたいで、起動したゲームもあんまり楽しくなかった。
ほとんどからっぽの冷蔵庫が、低く唸っている。
普段聞こえない音が聞こえる。
小さな隙間から、誰かがじっとみている。
お風呂がわいたので、服を脱ぎながら、ぼくはべっとりと背中になすりつけられる視線を感じていた。ぼくはうつむいて、自分のつま先を見た。大丈夫、見えるのはつま先だけだ。
おまわりさんにいじわるされた傷はすぐに良くなっていくのだけど、この間たばこの火を押しつけられた足の指は、きれいにはなっていない。
ぼこぼこに穴のあいた指は、今でもたまに熱いたばこを押しつけられて、特に小指は、爪がなかなか生えてこない。
あんまりおまわりさんが何日もかけてぼくの小指を焼くので、身体が治すことを諦めてしまったのかもしれない。傷口を指でつまんで、ぎゅっとちからを入れると、張りかけていた薄皮が破れて、中に溜まっていた体液が指についた。
今度死んだら、治るのだろうか。
湯船にちょっとだけ浸かって、頭を洗おうと洗い場に座る。
シャワーで髪を流していると、気持ちの悪い想像が、ぼくの頭の中でぐねぐねと動き回る。シミのように広がった黒いもやもやのひとが、どんどん膨らんで、真っ黒な目でぼくをじっと見る。
つよいパトカーさんにやっつけてもらおうと、必死にパトカーさんのことを考えるのに、さっき見たからっぽの車庫が出てくるばかりで、ぼくの後ろに立った意地悪な人は、ぼくが怖くて悲しい夢を見るように呪いをかける。
大急ぎで髪をすすいで、あったかい湯船に逃げ込んだ。
お湯の中は、なんだか不思議な力で守られているような気がする。
けれど、ぼくはすぐに逆上せてしまって、ふらふらしながらお風呂を出た。
「うぅ…気持ち悪い…」
冷蔵庫に入れっぱなしだったお茶のボトルを飲み干して、布団に倒れこんだ。
頭がぐらぐらして、早く熱くなってしまったところが冷たくなって欲しい。
電気をつけていても、廊下の方には意地悪な人がぼくにまだ呪いをかけているし、窓の外には、別の人がぼくにひどいことをしようと待ち構えている。けらけら笑う声が聞こえる。
ぼくは体を丸めて、みんなが何処かに行くのをじっと待っていた。
部屋に入り込んできた意地悪な人たちは、ぼくを掴んで、たくさんの人がいるところに連れていく。
おんなじような格好のひとたちが、ぼくを取り囲んで、授業をはじめる。
ぼくは怖くて、ノートになにか書くことができないでいた。
それに気づいた意地悪な人は、ぼくを捕まえて、真っ白なぼくのノートをみんなに見せてけらけら笑う。
ぼくの腕も、服を、引っ張ってまた別の場所に連れていく。
たくさんの人がぼくをみている。
にたにた笑うたくさんの人の視線を浴びて、ますますぼくは恐ろしい気持ちになっていく。
ぼくが悲しくなって、怖くなるほど、意地悪な人は喜んで、次の場所に連れて行こうとする。
悲しい気持ちが、ぼくのおなかのなかで、真っ黒な塊になってぐるぐる回っている。
それはだんだん大きくなって、ぼくの身体を押しつぶし、ぼくをぼくにしないように暴れるのだ。
「あぁ……あぁ……」
ぼくは、真っ黒な塊を抱き抱えたまま、目を覚ました。
なにがあったのかはすぐに忘れてしまったのだけど、おなかの中のぐるぐるする黒い塊だけは、ちっとも消えてくれなかった。
時計を見ると、もうお昼だった。
おなかなんてすかない。
おなかの中は黒いぐるぐるでいっぱいなのだ。
ぼくは、黒いぐるぐるに体の中を掻き回されながら、交番に向かった。
おなかのぐるぐるはとても重たくて、ぼくは上手く歩けない。
そんなに遠くない道を、いつもの倍くらいかけて歩いた。
歩いているうちに、ぐるぐるはぐずぐすに溶けた塊になって、ぼくの中身をぐちゃぐちゃに溶かしていく。
おなかの中のものを出したくて、爪を立てたけれど、おなかは破れてくれなかった。
「ごめんなさい…ごめんなさい……」
這々の体で辿り着いた車庫は、未だがらんとしていて、ぼくを更に打ちのめした。
ぼくは車庫の中で体操座りをした。
おなかのどろどろが少しでもおとなしくなるように願いながら、ほんの少しパトカーさんの匂いの残る車庫にいたかったのだ。
ああでも、もしかしたら、パトカーさんがまだ帰っていなくて、よかったのかもしれない。
タールのようにどろどろしたぼくを見せなくて済んだのは、よかったのかもしれない。
手のひらを見る。
肌色の下には、きっと重油みたいに真っ黒のなにかが詰め込まれていて、こんなものを薄皮隔ててパトカーさんに押し当てるなんで。そんな。
ぼくは、一緒に流れてくれないかと、外の水道で手を洗った。
冷たい水道水は、ぼくの手から体温を洗い流していく。
だのに、内側にあるタールみたいなものは、ちっとも流してくれないのだ。
「うう…ふ…ぅ…っ…」
涙がぽろんとまつげを伝って落ちた。
流し台に落ちた涙が、まるで墨汁のように黒く、水に溶けていった気がした。
慌てて、目の中をほじくってどろどろを出そうと瞼を触った。
「なにやってんの」
不意に、声をかけられた。
「あ…あの…あ…」
「なんで水道なんかで手を…うわ…冷たいだろ…。なんだよ、昼前に帰ってきたんだよ、俺は」
おまわりさんがぼくの手を掴む。
痺れたようなぼくの手は、おまわりさんに掴まれているのもよくわからない。
「身体も冷えてんだろう…。ひどい顔してるし…とりあえず風呂入れ。俺が帰ってきてから使ったから、まだあったかいよ」
おまわりさんに抱えられるようにして、交番の中に運ばれる。
足がもつれそうになると、おまわりさんがぼくを引っ張って倒れないようにしてくれる。
「おまわりさん…」
「なにがあった?」
おまわりさんは、いつもと変わらない低い声で、ぼくに聞いた。いつものおまわりさん。少しだけ安心する、おまわりさんの低い声。
「……恐ろしくて…ぼくの中には黒くて…ぐるぐるするものが…。それがぼくを…全部ぼくを飲み込んでぼくに…。すごく悲しくて、謝らなきゃって思って…それがだんだん外にもにじみ出てきそうで、こんなにぼくは…」
くちゃくちゃな説明しか出てこないのだ。
それでも、おまわりさんは、相槌を打って、ぼくを脱衣所まで運んでくれた。
脱衣所に入ると、おまわりさんは壁の方を向く。
「倒れたら困るから、あがるまでここで待ってる」
ぼくは少し落ち着かない、けれどほんの少し嬉しいような気持ちで、お風呂に入った。
お湯の中に口元まで沈めて、冷え切った身体に体温を取り込む。
お風呂の中でぶくぶくとあぶくを吐いて、口から黒いもやもやが出て行かないかと期待したけれど、ちっともお湯に溶けてなんていかない。
「おまわりさん…」
ぼくが小さな声で呼ぶと、なんだ、と、低い声がした。
「ぼくは…」
説明の仕方がわからない。
こうして膝を抱いて、強く力を込めたら、みしみしと肉が引きちぎれて内側からいろんなものが落ちていきそうなそんな気持ちを、どうしたらわかってもらえるのだろう。
ぐちゃぐちゃにとろけたぼくの内臓を、次々に死んでいくぼくをどうにかするには、ぼくが一度ぼくをやめないといけなくて、それはきっと自分ではうまくできないことで、それをできるのは。
ぼくがとめどなく発する言葉を、おまわりさんが静かに聞いている。きちんと、ぼくを理解しようと、ぼくのために耳をそばだてていてくれる。
なのに。なのに。
ぼくは、うっと唸った。おまわりさんにこんなことは頼みたくないのに、そうしなければ、この真っ黒なものからは逃げられないのだ。ぼくは何回も、小さな声でごめんなさい、と言った。
「おまわりさん…ぼくを…」
――ころしてください
「はは…」
小さな笑い声が聞こえて、ドアが開く。
おまわりさんは靴下のままお風呂場に入ってきて、浴槽の横にしゃがんだ。
「お前、なに言ってるのかわかってるのか」
ぼくは俯いて、鼻の頭とお湯がくっつきそうになりながら、もう一度繰り返した。
おまわりさんの手が、ぼくの後頭部を触る。
数回、撫でてくれたように思う。
とぷん、と、ぼくの顔は温かいお湯の中に押し込まれた。
ちょうど息を吸っていた。
鼻や口の中にお湯が入って、ぼくはそれを吸い込んでしまう。
痛い。
身体が吐き出そうともがいて、更に深く息を吸おうとする。
吸い込まれるのはお湯ばかりで、苦しくて苦しくて、ぼくの頭の中は、その、苦しいことでいっぱいになる。
おまわりさんの手は強くて、頭の後ろまでお湯に押し込まれていく。
音が聞こえる。
ごぼごぼ言う、水泡の音。
嵐のような耳鳴りの中で、おまわりさんがなにか言っている。
みえない。
おまわりさん。
なんでそんな悲しい声を出すの。
おまわりさん。
あなたのせいじゃない。
俺は、彼の頭を湯船の奥深くに沈めた。
体操座りをしていた彼の身体は、足を崩して、どうにか生きる為にもがこうとする。
薄い爪が、俺の頬を引っ掻いた。
びりっとした痛みが走って、一瞬、距離を取ろうと身体が逃げる。
それでも、俺は彼を沈めた。
浮き上がる水泡の中に、彼の言う黒くてどろどろしたものが溶けこんでいるような気がした。
俺には、彼の言う恐ろしくて黒いなにかのかたまりというのはよくわからない。
けれど、彼がそうするのを望むのなら、それが彼の救いなら、俺がしなければならない。そんな義務感。
ああ、自分で頼んでおいて、身体は生きようと足掻いているのに、彼は。
死ななければならない程の恐ろしさを、俺はまだ知らない。
腹の中で、自分を殺し続けるかなしみを、俺はまだ知らない。
死なない彼の腹の底が、そら恐ろしく感じて、そしてそれをわかってやれないのが悔しくて、俺は、泣きそうになりながら、彼の頭を水面に押し込み続けた。
彼の腕が俺の手首に絡んで爪を立てる。
ぎちぎちと引かれた赤い傷跡から、血がにじんでそこがまた、爪で裂かれて、湯船の中に赤いものが溶け込んでいく。
彼は次第に動かなくなる。
動かなくなった彼の頭を、俺はなかなか手から離すことができなかった。
ようやっとの思いで、風呂の栓を抜いて、水量を減らした時には、俺の腕からは、だらだらと血が流れる筋が何本もできていた。
排水口に吸い込まれていく湯の中に、どろりとした黒いかたまりが、 俺の血と混じって見えたような気がして、服が濡れるのも構わずに、彼をそこから引っ張り出した。
傷もなく、彼は死んでいる。
体を拭いて、服を着せて、布団に寝かせると、眠り続けているように見えた。
俺がしつこく焼き潰した小指の爪が生えてこないまま、ぱっくりと口を開いたように穴になっている。
早く起き上がってくれるといい。
何回か彼を殺したことはあったけれど、彼から望んで殺したのはさすがに初めてだった。
罪悪感、というのか、なにか食い違った気持ちの淀みが、しこりになっている。
たばこの煙と一緒に口腔から逃げていくその些細な食い違いは、なんなのだろうか。
たばこを咥えながら、彼の前髪を下ろしてやった。
顔を見られるのを嫌がる彼に対しての、小さな思いやりのつもりだった。
ひどく俺は疲れていた。
彼の真っ黒い悲しみを、俺が少しだけ肩代わりしたような、全身にのしかかる重みだ。それは俺の肩を、背骨を、包み込んで覆い、全体重をかけて俺を潰そうとしている。
けれど、俺の身体は存外に頑強で、その重しに潰されることは無い。
俺ならば、彼の悲しみを背負っても、ずっしりとする重量を感じながら、蝸牛のようにゆっくりと歩くことができるのだ。ひととは、そうだ。
ひとの為にならば、荷を受け、背負って歩くことができるのだ。
きっとひとりで、どこにもおろせないその悲しみを持ってきたのだろう、彼のことを思うと、俺は暗澹たる気持ちで、眠る彼を見た。
重い身体でたばこの火を灰皿でもみ消して、彼の隣の布団で背中を丸めた。
俺の悲しい気持ちは、きっと起きた時には消えているのだろう。
彼は、どうなのだろうか。
眠っても消えない恐ろしさに怯える彼は、いったい、何回の死を繰り返して、こうして安寧を手に入れているのだろうか。
何人の、自分のしかばねを、足跡のかわりに置いて、ここまできたのだろうか。自分で殺したそのしかばねを。
伝染する怪異たる彼のこころを考え、俺は再び恐ろしくなって、逃げるように目を閉じた。
俺の頭にとりついた黒い悲しみは、瞼の裏にまで染み込んでいた。
それでも、瞼を透かせる血潮の色が、その暗闇を追いやっていった。
了
初出20160217
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