第14話ぼくはパトカーさんに恋をする

隣で寝息が聞こえる。

そっと身体を起こして、おまわりさんのおでこをぴたぴたと指で叩いても、寝返りをうってそのまま眠り続けている。

ぼくは、音がしないように部屋から出て、玄関に向かった。

何足かあるうちから、おまわりさんのクロックスを選んで、外へ出て行く。きゅる、と、小さな音を立てて、玄関をぼくひとりぶんだけ開いて、通り抜ける。閉めてから、中の様子を窺うけれど、おまわりさんが動く気配はしない。

交番を抜けて、歩いていく。コンクリートに僅かにクロックスが擦れる以外に、物音は立てていないはずだ。

スエット姿でも寒くない深夜の空気は、じっと黙っていて、時折、遠くを走る車の音や、どこかにいる虫の声が聞こえてくる。

シャッターに指をかける。慎重に持ち上げても、少しだけ音がしてしまう。

ぼくが通り抜けられるだけ開いた車庫のシャッターをくぐって、パトカーさんに向き合った。

深夜の訪問に、パトカーさんは少し驚いたようだけど、それがぼくだとわかると、嬉しそうに笑った。

前にも何回か来たことがあるから、パトカーさんはそれをちゃんと覚えていてくれているみたいだ。

なるべく音がしないように、半開きのシャッターを閉めた。

おまわりさんの眠る部屋の窓は、ここに通じているから、なるべく、なるべくしずかに。ぴったり閉められたカーテンは、ひらりともする気配がないし、おまわりさんも起き上がっていない。ぼくとパトカーさんだけの、しずかな空間。

明かりとりの窓から入る僅かな光以外はなにも照らさない、ぼくの手がやっと見えるくらいの薄暗い世界が出来上がっていた。

「パトカーさん…」

ぼくは、パトカーさんのボンネットに上半身を乗せる。

スエット越しに、ひんやりしたパトカーさんの体温を感じながら、ぼくは暫し深く息を吸った。

切ないような、少し苦しいような気持ちがふわふわして、ぼくはパトカーさんのボンネットに舌をつけた。

冷たくて、つるつるで、かじりつきたいけれど、傷をつけたくなくて、唇を押し当ててむぐむぐと動かすことしかできない。

切ない気持ちがくるくると膨らんで、足の間にあるものが、むずむずして仕方がない。

スエットの中に手を突っ込んで、ごそごそと触っていると、パトカーさんは仕方ないなあと言うように微笑んだ。

腰をすりつけて動かすと、銀色のグリルに当たって、ぞくぞくする。

グリルのおうとつが、ぼくのことをくすぐってくるのだ。

「…う…あ……ぱとか…さん……」

パトカーさんは優しくて、ぼくのことを受け止めながら、相変わらずこしょこしょと刺激してくる。

金色のエンブレムが、時々ぼくのことを引っ掻いて、それが余計にぼくをむず痒くさせる。

グリルの隙間に押し込んでしまいたい程なのを我慢しているのが、やっぱり切ない。

ぬるぬるするものが、パトカーさんにひっついてしまうのが、少し申し訳なくて、ぼくは小さな声で謝った。

でも、そうしてぬるぬるしたものを使って、パトカーさんにぼくをこすりつけているのがどうにも気持ちよくて、やめることなんでできない。

ふわふわした頭の中で、いろんなことを考えるのだけど、どんどん気持ちいいことに塗りつぶされてしまう。

パトカーさんがぼくを抱きとめて、きゅっと身体を押し付けてくれるから、本当にしあわせで、気持ちいいこと以外は考えたくない。

「ぱとかーさん……は…んっ…。う…くっ…」

ぼくとパトカーさんだけの時間は、すごく静かで、とてもしあわせだ。

ひんやり。つるつる。すべすべ。少しぬるっとして、いそ、身体全部が金属と金属の隙間に滑り込みそうになるのだけど、それは狭くて、弾かれてしまう。

ぼくは、夢中でパトカーさんに抱かれていた。

ああ、なんて。なんてパトカーさんは優しくて、まるで包み込むようにぼくのことを。

ボンネットに押し当てていた唇が開いてしまって、かじりつきたい衝動が抑えきれない。

前歯がパトカーさんのボンネットを小さく叩いて、その振動が、またぼくの脳みそをとろかしてしまう。

背筋がぞくぞくして、しあわせで、しあわせで、ぼくはまた、パトカーさんを少しだけ汚してしまった。

「あぁ……」

途端に、悲しいような、罪悪感のようなものがどっと押し寄せて、ぼくは泣きそうになる。だのに、パトカーさんは、ぼくのことをなんにも責めないで、気にしなくていいと笑う。

ぼくは、ポケットに入れてきたティッシュで、パトカーさんについてしまったよごれを拭き取る。

これで、明日きれいに洗車してしまえば、おまわりさんにはなんにもわからないはずだ。

もう一度、ぼくはパトカーさんにくっついて別れを惜しんでから、また明日会う為に、しのび足で布団に戻った。

おまわりさんは、気持ちよさそうに眠っていた。


ぼくは、少し油断してしまったのかもしれない。

おまわりさんが眠る前にお酒をたくさん飲んだ日は、夜中にトイレに行くのだ。

もしかしたら、その時に、ぼくが隣にいないことに気づいて、こうして見に来てしまったのかもしれない。

半分持ち上げられたシャッターの音に、頭の中が真っ白になる。

「あ…あぁ……あ…」

今日は月が明るくて、おまわりさんを後ろから照らしている。

おまわりさんの表情が、暗くて見えない。

怒っているのかもしれない。それとも、軽蔑しているのかもしれない。

今日はまだ、パトカーさんにくっついて、ボンネットをほっぺたを押し付けただけなのだ。怒られないかもしれない。

でも、おまわりさんがシャッターの隙間から覗いて、振り返ったぼくを見て、呆れたように鼻を鳴らした。

「うぁ…あ、あ…あの、ちが…あっ…。ごめ、あの、ごめんなさい…」

ぼくは途端に萎縮して、しゃがみ込んで泣きそうになってしまう。押し寄せてくる罪悪感に、身体がひきちぎられてなくなりそうだった。。

おまわりさんが車庫に入ってくる。

ぱちんと音がして、裸電球の薄ぼんやりした明かりが、ぼくとパトカーさんを、おまわりさんに見えるようにしてしまう。

怖くて怖くてたまらない。逃げ出したい。でも、パトカーさんを置いて?どこに?逃げ出したら、明日はもうパトカーさんに会えない?明日だけ?ずっとかもしれない?

「ああ…ぁ…うぅっ…」

「…そんなに怖がんないでよ」

おまわりさんが、静かな声で言った。怒ってる声じゃない。でも、ひとのこころは、声だけでわかるものじゃないんだ。

「…知ってたよ。だから、怒ってないよ」

「え…?へ…?あ…あの…えっ…?」

おまわりさんが、シャッターをぴしゃりと閉める。

「ねぇ、外側だけでいいの?」

その時のおまわりさんの顔は、ぼくが見たことないくらい意地悪そうに、口の端っこを持ち上げて、きりきり言いそうな大きな犬歯をむき出して笑っていた。

「パトカーさんの、外側だけでいいの?って聞いてるの」

おまわりさんは、ぼくの腕を掴んで、引きずっていく。

パトカーさんの鍵を開けて、ぼくを後部座席に押し込んだ。

「ほら。乗って」

革張りのシートが、ぼくを受け止める。

おまわりさんが隣に乗り込んで、ドアを閉めると、パトカーさんのにおいがすごくよくわかって、ぼくはへなへなと身体に力が入らなくなってしまった。

途端に、ぼくの頭の中でぶわっと興奮の種が発芽して、萎縮していた身体が、とろけそうになりながらパトカーさんのことを渇望する。

「ここでしていいよ」

おまわりさんは、すごく意地悪な顔のまま、ぼくにそう言った。

「あの……して…?いい…?うっ…?」

頭が追いつかない。

ぼくがいつまで経っても、おまわりさんの望むことをしないから、おまわりさんが待ち草臥れて、ぼくの足を引っ張った。

うつ伏せに後部座席に転がされて、その上からおまわりさんが乗っかってくる。

おまわりさんの顔は見えない。ぼくに見えるのは、真っ暗な座席の足元と、すごく素敵で気持ちいい革張りのシートだけだ。

おまわりさんの手が、ぼくの足の間を触って、指でいじくりまわしてくる。

「うあっ…あっ…!」

おまわりさんの身体からは、お酒のにおいがして、もしかしたらまだ酔っ払っているのかもしれない。

どうしよう、どうしたら。それを考えたいのに、ぼくの身体は言うことを聞かなくて、肌にくっつくシートと、見えないのにどんどんぼくを気持ちよくさせようとする手が、ぼくの頭をぐちゃぐちゃにしていく。

「パトカーさんっ…」

パトカーさん。パトカーさんは…パトカーさんは、ぼくのことをなんにも責めないで、微笑んで、ぼくの身体を革張りの内側で包み込んだ。

パトカーさんのとは違う、ぬるぬると一緒になって絡みついてくる指のせいで、どんどん身体から力が抜けていく。

手を伸ばして、ドアポケットに触ると、樹脂製のパーツが、金属とは違った冷たさでぼくを握り返してくれた。

鼻先をシートに押し付けると、大分薄れた皮革のにおいと、芳香剤も置いていない、たばこや食事もしない、まっさらな車のにおいがする。

「うぁ…パトカーさん…。ぱとか、さ…」

気持ちよくて、気持ちよくて、パトカーさんの全部がぼくのことを支配して、責め立ててくるみたいだ。

シートにかじりつきそうになって、ぼくは自分の手を噛んだ。

ぼくの手には、シートのにおいがうつっていて、まるでぼくの身体がシートの一部になってしまったような気がした。

「んっ…う…ぁ…。ん…ふ…。ふゔっ…」

頭の中がどろどろになる。

悲しい時のどろどろじゃない。

それはあったかくてしあわせで、そんなもので頭の中を全部つけこまれたら、どうにかなってしまいそうだった。

「あ゛…ぁ…ぁぁぁ……」

きゅっと身体にちからが入る。押し出されるようにこぼれるぬるぬるが、シートを汚してしまう。

皮革の上に落ちるさまを想像して、ぼくは一気に絶望感に叩き落とされた。

恐る恐る、身体の下を覗き込むと、おまわりさんの手が、ぼくの出したものを全部受け止めていた。

「動かないで」

低い声が聞こえる。

身体を固くしていると、おまわりさんの手が引き抜かれて、のしかかっていた身体が離れていく。

おまわりさんが首にかけていたタオルで、まず、おまわりさんの手を拭いて、そのあと、こすらないように優しく、ぼくのことを拭いてくれた。

「ふぁ…ねむ…」

ぼくの後ろで、おまわりさんがあくびをする。

パトカーさんの後部座席は、内側からは開かないから、おまわりさんの足がぐいっと伸ばされて、運転席へと移動する。

「じゃあ俺、寝るから。今夜はここで寝ててもいいけど…中、汚さないでね。計器もいじらないこと。まだタオルいる?」

湿ったタオルをぽんと渡されて、ぼくはなにも言えないまま、おまわりさんを見送った。

ドアは施錠されずに、シャッターも、閉じてはいるけれど、施錠されていない。

ぼくは、ぼうっとなりながら、薄暗い裸電球の下で、パトカーさんと二人きりの現実を把握しようと努めていた。

おまわりさんは怒ってない。

パトカーさんと二人きり。

混乱したまま、ぼくはものすごく疲れていることに気がついて、パトカーさんの後部座席に横になった。

まだ心臓がどきどきしている。

シートに押し付けた耳が、ぼくの鼓動を拾っていて、まるでパトカーさんの心臓も、一緒にどきどきしているみたいだった。

「初夜…ですね…?」

そう呟いたぼくのことを、パトカーさんが愛情たっぷりに笑ってくれた。




初出20160225

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