第15話 彼の悪夢とねじのあじ
じきに早朝だ。
俺はどうにも寝付かれなくて、ぐるぐると回るような思いで布団の中に横たわっていた。
なにもかもがわからなくなるようなひどい虚無感が、俺を支配していたのだ。
それはじっとりと俺の身体にへばりつき、俺を動かないように布団に押し付けている。
恐らく、そいつが生まれてくる場所は、少し離れたところで眠る彼なのだろう。
俺が眠ろうとして、しばらく経った頃、彼は何事か呻いて、何度も寝返りを打った。
悪夢に魘されているのだろう、その姿を、俺は起こして止めてやりたかった。
だのに、俺の身体は、布団に縫い付けられてしまったように微動だにせず、ただ虚空を見つめ、彼の悲しむ声を聞き続けるだけだったのだ。
クレヨンを何度もこすったような、べったりとした暗闇の中で、少しずつそれが俺の身体にも染み込んでくる。
ああ、これが彼の言っていた、身体が溶けるような苦しみなのかと、俺はなす術もなく、泣きそうになりながら、黒い液体に蹂躙される。
腹の奥に蠢く悲しい思いがぐるぐると渦巻いて、内臓が全部とろけてしまって、じきに手足が腐って落ちるような感覚。やわらかく溶けてしまった手足が薄皮にかろうじて繋ぎ止められ、骨を軸にして体裁を保っている。
指先ひとつを動かすのも億劫な、なにもかもがしあわせでなくなってしまう恐ろしい気持ち。
しあわせとはなんだったのだろうか。
嬉しかったことを思い出しても、それはフィルターを隔てた他人事のようで、悲しかったことを思い出しても、それが俺の感じたことなのかわからない。
こころが、ちくとも動いてくれないのだ。
ただ億劫で、目を閉じて眠りたいのに、頭の中に入っているのは、脳髄じゃなく、黒色の夢のようだった。
俺の脳みそは、どろどろに腐った体液の中に浮いて覚醒している。
聴覚だけが鋭敏になり、隣の部屋のアナログ時計が刻む秒針の音がまとわりついて頭の中を叩いているようだ。
今、もし、誰かが俺の手足を掴んだら、荒い縫い目の人形のように、ぼろぼろとほつけて崩れてしまうだろう。
ただ、この気持ちに、愛おしさを感じてしまって、ほんの少しだけ、ここが自分のいるべき場所のような、そんなおぞましい錯覚をしてしまった。ひんやりとしていて、先の見えない湿った苦しみは、それだけを見つめて考えていられる。他には、なにも考えなくていい。静かに目を閉じて、胸の内から吹き上がる真っ黒いまどろみに浮いている。
抵抗する気にもならない気持ちの中で目を開けると、窓の向こうでゆっくりと空が白んでいく。
今日が休みでよかったと思う。
彼が目覚めて、この悪夢の侵略が終わりを迎えたら、どろどろになりそうな彼を、存分に俺は、作り直すことができるのだ。
彼は、酷く疲弊していた。
だから、俺は寝不足で痛む頭を指で押さえながらでも、簡単に彼を拘束することができた。
布団の上で仰向けになった彼は、抵抗することもなく、腹を出して四肢を投げ出している。
これが拘束と呼べるのかは置いておいて、少なくとも、彼はそのまま動くことはできないのだから、拘束に近いものであると思う。
「…おまわりさん」
「ああ、わかってる」
わかっている?なにをだ。なんにも、わかりゃしない。
俺は俺で、彼は彼で、あの泥沼のような気持ちの原因がなんなのかなんて、俺にはわかりっこないのだ。
やはり、彼が目を覚ました途端、俺の身体を蝕んでいたものは消え去って、なんであんなにも苦しく悲しい安寧に甘んじていたのかわからない程だった。
「腹の中に、またあるんだろ。黒いのが」
「……」
はくはくと口を小さく開けて、なにかしら話そうとしているのだろうけれど、言葉が出てこないのだろうか、彼は答えない。
俺は、工具箱を開いて、中からプラスドライバーをつかみ出した。
工具箱のもうひとつには、なにに使うのかよくわからない螺子やナットがやたらと詰め込まれている。
その種類はめちゃくちゃで、箱を持ち上げるたびに、ごろごろじゃらじゃらと音がする。
先住者がどんな目的で集めたのかはわからないが、とにかく、やたらめったらに数ばかり多く詰め込まれていた。
彼が以前、口に入れたのも、そんな用途不明の螺子のひとつだった。
彼は、ナットや螺子の類を道路で見つけると、近寄って行って拾う。嬉しそうにポケットに入れて持ち帰り、そういった細々したものを詰め込んだ容器を見つめては、満足そうにしていた。
そんなだから、俺は工具箱を開いて、彼にその中身を見せてやった。彼は予想通りに喜んで、螺子の山を指で触った。小さく、ころんとした無数の螺子やナットを見て、彼はその中からひとつをつまみ上げると、舌の上にのせて、ごくりと飲み込んだ。
驚いた俺に、彼は笑って、「食べたくなるじゃないですか…」と、答えたのだ。
その時の彼は、間違いなく幸せそうで、俺はそのへらへらと緩んだ口元を、よく覚えていた。
だから、彼の腹の中を、螺子でいっぱいにして、彼の中に溜まったコールタールのようなものを、押し潰してしまおうと思ったのだ。
プラスドライバーを手に持って、彼のへその中で鈍く光る螺子を回す。
「く…ぅっ…」
尖った先端が、彼の中にゆっくりと押し込まれていく。
薄い皮膚を突き破ったのか、それとも溶けた内臓の中に紛れ込んでしまったのか、途中で手先から離れていってしまった。
彼は、小さな声を上げるばかりで、身体を動かすこともない。
俺は、またひとつ螺子を取って、彼の中に押し込んでいく。
がら、ごと。
俺が工具箱に手を伸ばす度に、重い金属が蠢いて音を出す。
穴が開いてしまえば、プラスドライバーを回す必要もなく、それこそ、ナットみたいなものであっても、先端でめりめりと押し込んでいけば、水の中に落としたように手応えが消える。
彼の身体の中に、幾つ入れたのかは、途中で数えるのをやめてしまった。
ことん、こつん、と、彼の腹の中でぶつかり合う音がする。
小さな金属は、確実に彼の中に堆積し、溶けたはらわたを圧迫している。
彼は、細い息を吐きながら、相も変わらず指先ひとつ動かせずに、何処かを見ている。
唇だけが小さく動き、微かに聞こえる音量で、パトカーさん、と発していた。
その声が途切れ、
「オ゛ァ…」
固いもので膨らんだ腹が波打ち、彼の口から、胃液とも血液ともつかないものが溢れ出てきた。動けない彼の顔を横に向けてやると、口腔からとぽとぽと、赤黒い液体を垂れ流した。
その様を見て、彼の中の毒の種が、ほんの少し吐き出されたようで、俺は嬉しくなった。
彼の額にびっしりと浮いた脂汗を拭ってやり、ついでに頭を撫でてやる。
「しあわせか?」
そう俺が聞くと、詰まったような音に混じって
「…えぇ」
と、彼は小さな声で答えた。
少なくとも彼は、今、この物理的な苦しみと痛みだけを感じていて、他にはなにひとつ…身体が崩れ落ちるような、四肢をもぎ取られるような悲しみを思い出すことはないのだろう。
それは、彼にとっては限りない救いで、彼がそれを求めているのを、俺は知っていた。
ただひとつのものを見つめ、考えていることの、なんと盲目的でしあわせなことか。
新しい螺子を彼の中に入れる。
こつんと、なにかに当たる手応えがした気がした。
腹の中に滞留したものが、山になってしまったのだろうか。
それとも、どこかに引っかかったのか。
俺は、彼の腹に手を当てて、塩の瓶を最適化するように、ぐらぐらと揺らした。
「オ゛グッ…ゔぁ……」
皮越しに、固くごろごろしたものが手のひらに触れた。
俺は暫し彼の腹を揺すぶった。
その間、ずっと彼は、潰れたような声を上げながら、赤黒いものを吐き出し続けていた。
彼の手の指が、きゅっと握り込まれたのを見て、俺は彼の苦しみが少しずつ押し出されているのを確信した。
いい加減、隙間ができただろうと、俺は、彼の中にものを詰め込む作業を再開する。
ごりごり、彼の中から、工具箱を触った時と同じ音が聞こえてくる。
小さな金属が集まって、彼の溶けた内臓を更にすり潰し、液体の中に紛れて沈み、深く深く、彼を傷つけているのだろう。
俺は、真っ黒い中に落ちていく金属片を想像した。
彼はなにを思っているのだろう。
勿論、長い痛みの中だ。何かを考える余裕などないかもしれない。
けれど俺は、彼のこころにほんの少しでいい。あの真っ黒い中で俺が感じた、小さな安寧に近い、ここにいて良いのだという、安らぎを感じていて欲しかった。
「ア゛ァ……」
押し当てたプラスドライバーは、持ち手ぎりぎりまで深く、彼の中に侵入した。
腹の中を掻き回すように動かすと、固いものを混ぜ合わせる手ごたえが伝わってくる。
この辺りにあった内臓は、なんだったのだろうか。
彼は口から何度も、赤黒いものを吐き出して、呼吸を浅く、小さくしていく。
「おまわりさん…」
耳を澄まさなければ、声と判別ができないような、細く細く頼りない声で、彼が俺を呼んだ。
開いた指が空を掻き、布団の上にはたりと落ちた。俺は、彼の指先をきゅっと握って、彼が握り返してくれないか、暫し待った。彼は何も言わないし、動かない。
ふっと、筋肉が弛緩し、彼の身体から音が消える。
俺はプラスドライバーを引き抜き、へその中に指を差し込んだ。
中指が、ごろごろとした金属に触れる。
いくついれたか覚えていないので、取り残しがあるだろうが、この金属全てを腹に残しておくよりは、彼の寝覚めが良いだろう。
俺はたばこを吸いながら、彼の中から、いくつも螺子とナットを取り出した。
どれも、赤黒い血肉にまみれ、時々指の先をすり抜けて落としそうになる。
広げた新聞紙の上に、どろどろになった螺旋釘が山になっていく。
それは、手探りの発掘作業のようで、採掘が進むたびに、部屋には鉄のにおいが濃くなっていく。最初こそ小さかった腹の穴が、俺の指によって広げられ、裂け目を大きくしていく。
腹に開いた穴に手を突っ込んで搔き回し、引き抜く間も、徹夜明けの思考は止まることなく夢想のように取り留めなく広がっていく。
今の彼は、夢を見ているのだろうか。
未だ治りきらない、彼の変形した足の小指の爪に、何度かたばこを押し付けた。
どんな夢を見ているのだろうか。
俺は、ひとつ、山の中から小さなナットをつまみあげて口に含んだ。
飴玉のように口の中で転がすと、濃い鉄の味がした。
彼の血と悪夢の味を、ごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。
了
初出20160225
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