第49話 俺と彼とパトカーの目
「パトカーさんが、片目ですよ…!」
そんなことを、彼に言われたのは、夕方のことだ。
ライトを点けっぱなしで見てみると、確かに、片方のライトが切れている。
「あー…。しまったな。これじゃ警邏行けないし、今日はこれを取り替えて…」
確か、買い置きがあったはずだ。どうせ替えるなら、二つともがいいだろう。
「おまわりさん、パトカーさんの目も替えられるんですね…」
彼は、パトカーのライトに顔を寄せたり、俺がボンネットの中をいじくりまわすのをちょろちょろと見ている。
砂埃や、粉塵を孕んだボンネットが、俺の指を黒く汚す。
乱反射する、ライトのナカミは、彼にとって、宝石箱のように見えるらしく、時折、唾液を飲む音が聞こえる。
「おいしそう…。パトカーさん、おいしそう…」
「あんまり近づくと邪魔だよ。ほら、要らなくなったバルブあげるから、おとなしくしてて」
もう片方も変えなければいけないのだ。
彼に、交換したばかりのバルブを差し出すと、貴金属を受け取るかのように、両の手に乗せ、わぁ、と、息を飲む。
「こんな…すてきな…。いいんですか…!」
「もう片方もあとであげるからね」
光に透かし、何度も感嘆し、彼はため息を吐く。
本物の宝石のようにでも、見えているのだろう。
パトカーのボンネットに手を突っ込んでいじりまわす、というのは、なんだか手術的な印象を受ける。
彼に言わせれば、相当卑猥な状態だと形容されそうだけれど。
小さな機材を取り外し、替えのものと入れ替え、外したものを元に戻す。
ただそれだけの、文字通り機械的作業なのだけれど、怪異に浸食されたパトカーのことを思うと、これは、生き物の身体のナカミを触っているような、不可解な印象を受ける。
「はい、これで終わり」
二つ目のバルブを彼に手渡し、俺は、パトカーのボンネットを閉じた。
ばたん、と音を立てて閉まるボンネットに、彼が手を差し出して挟まろうとするのを、やんわり制止して、使ったものを片付ける。
「これは…たからものだ…」
彼がぽつりと呟いた。
顔を向けると、彼は上を向いて口を開き、大振りなクラウンのライトバルブを、舌の上に乗せた。
ごくり、と、彼の喉が上下する。
言葉をかける間も無く、彼の中にバルブが落ちていった。
「えぇ…」
「もうひとつあるから…おまわりさんにも…お裾分け…」
彼が、一歩俺に近寄る。
彼の目に威圧され、俺は後ろに下がった。ひくり、と、喉が音を立て、呼吸が詰まる。
法悦に濡れた黒いまなこに、じっとりと俺を見つめられ、俺の身体は、二歩、三歩と、後退する。
パトカーの車体が、俺の背を押し、膝が曲がった。
ぺたりと、尻をついて、彼が俺の前に立つのを見ていた。
「くち、あけて…」
ぞわりと、身体を支配する言葉だった。
俺は、彼の言霊に上手く対応できず、素直に口を開く。
舌先に、つるりとした電球が乗せられ、奥へと、彼の指がそれを押し込む。
「ん、ぐっ…」
「のんで…」
彼の手が俺の口を塞ぐ。
なめらかな電球が、丸のまま食道を通る鈍い痛み。
胃袋へ落ちていく、ガラスのかたまり。
「う、げほっ…」
喉元を過ぎて、やっと、俺は息をした。
「おいしいでしょ…?」
至福の感情なのか、どこか虚ろな彼の声に従って、俺は、おいしい、と、返してしまった。
彼の顔が、ぱっと明るくなる。
「いいものがありますから…!」
彼はそう言って、交番の中に駆け込んで行った。
腹の中に入り込んだ異物を思って、俺はまだ動くことができない。呼吸で膨らんだ胸が、空虚ななにかに満たされて、臓腑が圧迫されている。
そうしている間に、彼は菓子箱を持って戻ってきた。
「おまわりさん、電球すきなら、たくさんありますから…!」
紙箱の中に、ごろごろと入れられた大小様々な電球を見て、俺は背筋を震わせた。
だのに、一言たりとも、彼に反発する言葉を、選ぶことなどできなかったのだ。
「お、えっ…」
「まだよっつめですよ…?」
彼に幾つ電球を飲まされるのだろうか。
小さなものなら、まだいい。
紙箱の中には、大振りなものも残っていて、彼がそれを選ぶことがないように、祈るばかりだった。
「はい、あーんして…」
またこれだ。
彼の声が、俺を縛り、一切の反抗心を削ぎ取っていく。
これは彼のたからものたちで、彼はそれを俺に分けたがっている。
その好意を無碍に…してもかまわない状況なのに、彼の声音が、まるで王の言葉のように、俺を支配していた。
ごくり、と、喉が音を立てる。
次々に舌に乗せられる電球を、俺は飲み下していく。
胃袋の中を思うと、脂汗が吹き出してくる。
腹の中で、互いにぶつかり合った電球が割れ、俺の腹を裂く想像。
おぞましい光景に、心臓がどくどくと音を立てる。
彼の差し出したなつめ電球を、舌先に乗せ、口元を押さえられることもなく、俺はそれを飲んだ。
食道の粘膜を削って、かたいものが、喉を通っていく。
胸を越え、腹に落ちるまで、内側をあるそれのかたちが、わかるのだ。
彼の菓子箱が、ゆっくりと軽くなっていく。
俺の腹は、その中身を受けて、ずしりと重く、身動ぎすれば、繊細なガラスが触れ合い、砕けることを易々と予感している。
「この青いやつ、すごく気に入ってるんです…」
どこの車から外してきたのだろう。
瑠璃のような色の、車のライトバルブ。
彼はそれを摘みとり、俺の口に入れた。大きなそれを、飲み込むことに躊躇し、しかして、俺はそれを飲んだ。
「ぐ、うっ……」
腹の奥で、かちゃり、と、音が鳴った。
「う、あ…」
鈍い痛みが、腹に満ちて、こみ上げるものを抑え込もうと、身体を丸める。
その動きに、腹の内容物は更に押し合い、音を立てる。
「が、ふっ」
這い上がってきた液体が、口から溢れ出す。
ままならない呼吸。血反吐を吐くと、きらきらした小さなものが、無数に混じり込んでいた。
「あ゛…」
灼けるような痛み。
胃袋と、喉を、ガラス片が焼いている。
「ぐぅ、げえっ…。げっ…げえぇっ…」
コンクリートの床に這い蹲り、俺は吐いた。
際限なく、腹から血液がほとばしり、口からそれを吐き出そうと、身体が硬直する。
腹にちからを入れれば、また、無事だった電球が砕けて、俺の内側を切り裂いていく。
彼の菓子箱は、随分軽くなっている。
即ち、そこにあった電球のほとんどが、既に俺の内部にあるのだ。
「おまわりさん…」
彼が、うっとりした声で言った。
その感情はなんだ。
彼の法悦の喜びが、その闇色のまなこがら溢れ出して、俺を満たしていく。
これでよかったのか。
彼が、そうしたかったのは、これか。
ああ、しかし。
こんなもので、済まさないで欲しい。
彼に懇願するように、顔を上げた。
彼の細い指が、俺の頬を撫でる。
いとしく、慈しむその指が、俺をあやす。
もっと、なにか、俺にしたいことがあるのだろう。
それを、俺に受け止めさせてくれ、と。
言葉を吐けぬ唇を、彼が吸った。
「おいしい…」
ふふ、と、彼が笑う。
「ガソリンを入れたら…もっとおいしいかもしれませんね…」
パトカーの、給油口が、かこんと、音を立てて開いた。
灯油を入れるためのポンプは、この車庫にも置いてある。
彼はそれを取ると、パトカーのガソリンタンクへと差し入れ、一方のノズルを、俺の喉に押し込んだ。
蛇腹がくねり、けれど、ほとんどまっすぐな、軟質プラスチックが、俺の食道を削り、奥へと這い込んでいく。
彼がポンプを揉む。
ゆるゆると、チューブの中を通り、俺の腹の傷を焼く燃料が、流し込まれた。
「あ゛っ…が…あぁ…」
「たくさんはだめですよ…。パトカーさんのなんですから…少しだけ、わけてもらう…」
喉からノズルが引き抜かれる。
抑えていた嘔吐感が、一息にせり上がり、俺は、口を抑えることもできずに、吐いた。
びしゃっ、と、音を立てて吐き出されたものは、俺の血と、パトカーのガソリン、そしてガラス片の混合物だった。
「おまわりさん、ぼくに…ぼくにそれをください…」
揺らめくような声が、投げられた。
彼が、俺の頭を抱いて、深く深く唇を吸う。俺の吐瀉物を、彼が喉を鳴らして飲み干そうとする。
ガソリンと血の匂い。俺の腹からは、次々と液体が湧き上がり、彼に給餌する為に、吐き出されていく。
顔面に血とガソリンの混合物を受けて、びったりと赤く染めながら、彼は笑っていた。
しあわせの只中で、笑っているのだ。
そう、それならば。
それならば、いい。
彼がこうしたくて、俺をこうしていて、それがしあわせならば、俺はそれを与えようと。
次第に、身体を起こしていることも叶わなくなる。
呼吸すら、胃から湧き上がる、揮発したガソリンに阻害されているのだ。
ガラス片に切り刻まれた喉が、どれ程、本来の用途を叶えてくれているのかもわからない。
酸欠の脳が、ふわふわと、俺を恍惚じみたところに連れて行こうとする。
彼のしあわせが、雪崩れ込んで、俺はしあわせだった。
「おいしい…おいしい…」
彼がそう言って、笑うならば、それがいい。
パトカーの側面に、後頭部を押し付けながら、朦朧とした意識の中で、俺は揺蕩っていた。
浮上する身体を、彼が押さえ込み、仄暗い底へと、沈めていく。
痺れた舌が、彼に吸われ、ひどく心地よかった。
鼻腔の奥が、ガソリンと鉄錆のにおいに、ねっとりと絡みつかれ、息をすることを忘れてしまう。
血化粧の彼が、俺の上で、しあわせそうに笑うのだ。
それがいい。
ごり、と、肩甲骨が、固い床にぶつかって音を立てた。
寝起きの頭をあげると、すぐ近くにパトカーが停まっている。
「車庫…」
坊主頭を掻いて、落ちていた制帽を被り直す。
時計を見ると、まだ十六時を少し過ぎたところだった。
彼に電球を飲まされて、俺が死んだ辺りまで、たっぷり二時間はかかっていただろうに、空はまだ、紅色に浮かぶ雲が残っていた。
「警邏…行かなきゃなぁ…」
独りごちて、ポケットの中の鍵を探る。
「いくんですか…!?」
突然に、助手席のドアが開いて、彼が顔を出した。
「なんで勝手に乗ってるのよ…」
「え…。おまわりさんが起きるのを…待つのに床は…痛いし…。パトカーさんがここに…いるから…?」
「ああ、そう…」
俺はそう言いながら、口の中に感じた違和感を吐き出した。
唾液に混じって、コンクリートに吐き捨てられた、透明なガラス片は、細やかな音を立てた。
「これ、腹の中に残ってたら、出てくるんだろうな…?」
「さあ…?」
全くもってあてにならない返事を聴きながら、胃袋の中で、今もごわごわと、ガラス片が波打っているような気がして、胸が悪くなった。
「…君の中にいれたやつも出てきたし……よくはないけど…まぁいいか…」
もう一つ、ガラス片を吐き出してから、俺は運転席に乗り込んだ。
「あー…うわあご。なんかまだ刺さって…」
唇に指をひっかけながら、ルームミラーを覗く。きらりと光るガラス片が、三つほど、頭を出していた。
「帰ってきたら抜くか…」
エンジンの駆動音。ガソリンのメーターが、少し減っている。
「君さぁ…」
「……」
「飲んだ?」
「…飲みました」
おずおずと、俺を見上げる黒いまなこ。
俺はその目に一瞥だけくれて、アクセルを踏んだ。
「喉がいたい…たばこ吸いたい…」
「パトカーさんの中は…禁煙ですよ…!」
「どっか停めて吸う…」
紫と紅色の空が、ゆるゆると、藍の中に落ちていく。
奥歯が、かり、と、小さなガラス片を噛んだ。
爛々と光るパトカーの両眼が、黄昏の色を白く照らしていた。
きっと、彼と俺の胃袋には、かの王の両眼が残っている。
いつまでも出てこないのだろうと、俺は、それを知っていた。
了
2016/11/03
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