第19話 異物嘔吐

おまわりさんが、また交番を出たところでたばこを吸っている。真っ白い煙を、息と一緒にたくさん吐き出して、ぼんやりと空を見ている。おまわりさんの口からもわもわと出てきた白い煙が、青い空にひゅうひゅうと昇っていって、途中でかき消されていなくなる。もくもくした雲は、おまわりさんがつくっているのかもしれない。

おまわりさんは、僕が近づいたのに気づくと、たばこを指に挟んだ右手を、ひょいっと上にあげた。

毎日毎日、よく飽きないなぁと思った。それも、一日一回でなく、何回も吸うのだもの。

ああ、でも、ぼくもだいすきな食べ物は、できれば毎日食べたいから、おまわりさんももしかしたらそれと同じなのかもしれない。

だったら、おなかいっぱいおまわりさんも食べればいいのに。あんなに何回も、煙にして少しずつ吸わなくたって。

すきなものでおなかがいっぱいになると、すごくしあわせだから、おまわりさんもしあわせになればいいのに。

食べたことがないのかもしれない。

いつだって、火をつけた煙を吸っているから、食わず嫌いだったらかわいそうだ。

とても素敵なことを閃いた気がして、ぼくはにーっと笑った。おまわりさんが不審そうな目でぼくを見ている。


おまわりさんが棚の中にたくさんたばこを買って置いてあるのは知っている。おまわりさんが近くにいないのを見計らって、棚に手を伸ばした。

長細い紙包みの中に、たばこが入っている。

ミシン目をぱりぱりと爪で割って、中から三箱引き出した。

ビニールの小包装を破って、アルミを剥がして、細くて小さなたばこを取り出していく。

紙に巻かれた茶色い葉っぱを解して、ティッシュの上に乗せる。独特なにおいが、爪の先にひっついてしまった。

きらいなにおい、というわけではないので、構わないのだけど。

においをかぐと、おまわりさんの指のにおいもこんなだった気がして、お揃いがちょっと嬉しくなった。

三つできたティッシュの包みをポケットに入れて、おまわりさんのところへぼくは向かう。

おまわりさんは、交番の事務机に座って、ちょっと怠そうに帳簿かなにかをつけていた。話しかけたら邪魔だろうか。でも、おまわりさんの食わず嫌いをはやくなおしてあげたい。

「おまわりさん…!」

くるんと椅子ごと振り向いたおまわりさんの口に、握り込んでいた葉っぱを押し込む。

「…!?」

おまわりさんが、せっかくの葉っぱを吐き出そうとするから、思いっきり手のひらで口を押さえた。

「だめ…!噛んで…!飲み込んで…!」

おまわりさんが、ぼくの手首を掴んで、口から剥がそうとするけど、負けられない。

椅子に座ったままのおまわりさんを押すと、机に椅子の背が当たって、力を入れやすくなった。おまわりさんのちからはすごく強いからぼくは何回もおまわりさんを蹴って、あきらめてもらおうとする。

おまわりさんの目に、ちょっとだけ涙が浮かんでいたけれど、鼻を塞がれて観念したのか、葉っぱをごくんと飲み下した。

「げほっ…うぇ。なにこれ…草…?」

「そうそう…元気がでますよ…?」

まだ口の中に葉っぱが残っているらしくて、おまわりさんは口をもごもごさせている。

「まだありますから、それも食べて…!」

ぼくはポケットから包みを取り出して、ぐいぐいとおまわりさんの口に押し込んだ。

おまわりさんは顔を顰めて拒絶する。油断すると口の中のものを吐きだそうと、抵抗するので、ぼくは手を離すことができない。体重をかけて、おまわりさんの口をふさぐ。

ちからがうまくかけられず、ぼくの手が滑り、おまわりさんの歯が、ぼくの手のひらにあたる。

がりっと音がして、親指と人さし指の間に刺すような痛みが走った。

「いたっ…!」

手を離した途端、おまわりさんの口から、茶色い草の塊が、どべっと吐き出された。

床に落ちた塊は、茶色の汁を滲ませてべちゃんと音を立てた。

「あぁ…もったいない…」

ぼくの言葉が聞こえていないのか、おまわりさんは続けざまに先程飲み込んだものを嘔吐した。

指と指の間をすりぬけて、茶色に変色した胃液と、細かい草の葉が床にぼとぼと落ちていく。

おまわりさんの額を汗が浮き出して、顎から落ちていく。

「頭がぐらぐらする…。きみ、これ、そのへんの草とかじゃないでしょ…なんなの…」

少し怒ったような声で、ぼくは萎縮してしまう。口に合わなかったのかもしれない。

「あ、あの……おまわりさん…たばこ…すき…だから…」

「なに、たばこかよ…」

おまわりさんが、またえずいて嘔吐する。茶色い胃液が、びたびたと床を汚した。

「あー…」

おまわりさんがうめいて、額に手をあてる。指の隙間から、おまわりさんの目が、床の葉っぱと、ぼくを繰り返し見て、じっとりとした声で言った。

「これ、きみが食べなよ」

革靴のつま先で、べたべたのかたまりを指している。低い低い声が、おまわりさんがぼくのことを怒っているんだとわかる。

こわい。

すごくこわい。

「あ…ぁ…。ごめんなさい…ごめんなさい…!」

ぼくは慌てて膝を折って、床に顔をつけた。かぶりつくように、丸まった草を口に入れる。

すごくにがい上に、おまわりさんの吐き出した胃液の味と混ざってしまっている。

でも、おまわりさんは怒っているから、ぼくが言うことを聞かないと、もっと怒って悲しいことになってしまうかもしれない。

そう思うと、おなかのあたりがきゅうっとなるから、許してもらう為には、きちんと言うことを聞くしかないのだとわかる。

指で散らかった葉っぱを掻き集めて、口に入れて飲み込む。どんな味も、我慢して飲み込んでしまえばなんとかなるのだ。

ざらざらした床を舐めて、残った水分をきれいにした。ぼくの舌が通ったところだけ、土埃が剥げている。

おなかがむかむかしている。けれど、おまわりさんの様子を窺うと、ぼくを見下ろしたまま、顔が変わっていない。

ぎし、と、音を立てて椅子から立ち上がると、奥の部屋に向かっていった。

慌てて、ぼくは後ろからついていく。

途中、おまわりさんは、台所で手を洗っていた。

冷蔵庫を開けて、パックに口をつけて牛乳を飲んだ。ちょっと不衛生だと思うけれど、ぼくはなにも指摘できない。

飲み残した牛乳を冷蔵庫に戻すと、おまわりさんは、そのまま居間に敷きっぱなしの布団に倒れこんだ。

うつ伏せの目が、ぼくのことを見ている。

「…ごめんなさい……」

「…うん」

怒っていない声だった。おまわりさんはうつ伏せのまま片手をあげて、なにごとかぼくに伝えようとする。

二、三回、ひらひらと指を動かして、そのままぱたりと腕を倒し、おまわりさんは眠ってしまった。

もう怒っていないといい。ぼくは、早くおまわりさんが目を覚まして、怒っていないよと言って欲しかった。

おまわりさんの寝息が聞こえる。

いつまで待っていたらいいだろうか。


ひどい気分で不貞寝をした。

起き抜けに下痢に苛まれ、俺はげっそりした気分でトイレから出た。

まさかと思って棚を開けると、カートン買いしていたパッケージが破られ、中から三箱、たばこが抜かれていた。

俺はそこからさらに三箱、取り出して、これをまた彼に食べさせたらどうなるだろうかと、考えた。

彼の姿を探すと、パトカーの車庫の前でごろごろしている。

昼寝をする猫のように、パトカーの前に寝そべって、手を伸ばしてグリルやエンブレム、タイヤを触って楽しんでいるのだ。なんでも、ローアングルからのパトカーは、一層強そうに見えて素晴らしいのだとか。

服に砂がつくからやめろ、と言ったのも忘れてしまったらしい。

俺は、居間に戻ると、たばこの葉を解して、皿の上に積み上げた。

ちょうど彼が俺の口に押し込もうとした量と同じだ。

未だ口の中に残る苦味を忌々しく思いながら、考える。どうしたら彼がこれを口にする気になるだろうか。

ひとつまみ、葉を口に入れ、噛み直す。

ひどく苦いが、突然でなければ、ああも容易く吐き出すことはないだろう。彼はどうだろうか。コーヒーも飲めない彼は、どんな顔をするだろうか。

俺はゴミ箱に葉を吐き捨て、外に出ると、彼を呼び寄せた。

「居間にきてくれ」

そう言うと、彼は起き上がって体についた砂を払うと、小走りにこっちに向かってきた。肘のあたりに砂が残っているのに気づいていないようだ。

「…あっ、葉っぱだ…」

彼は、皿の上の葉を見るなりそう言った、

「ああ、さっきはきちんとしたやつを食べさせてなかったから」

とん、と、彼の前に皿を置くと、さも嫌そうな顔をして、

「いや…ぼくたばこ吸わないし…きっとぼくにはおいしくない…きっと…」

彼はそう言った。予想通りだ。

俺は口の中に残った苦味を舌で触りながら、少し考えた。

皿から葉をつかみ取り、口に運ぶ。ガムを噛むように奥歯で叩き、その苦味を味わった。

「そうか?残念だな。ああでもなきゃ存外うまいかもしれないのに」

俺が笑いながらそう言ったのを聞いた彼は、断る顔から迷うような顔になった。

元来悪食の癖のある彼のことだ。まるで興味が無いわけではないのだろう。

皿の中身をつかんで口に押し込んでやろうかと思ったが、それではさすがに芸がなさすぎる。それに、俺の口の中のたばこをまた吐き棄てるのはなんだか嫌だった。昨今たばこも結構な値段がする。もう幾ら悪ふざけに使ったことか、あまり考えたくない。

彼にこちらに近づくように指をくいくいとやって伝えると、なんですか?と聞きながら顔を寄せてきた。

俺は彼の顔に口を近づけて、噛み砕いた草を舌に乗せると、直接口に押し込んだ。

唾液と絡んだ葉が彼の口内へ移動していく。

彼は全く抵抗しなかった。

しかし、その苦味に、彼はうっと呻いて、吐き出そうとしてしまう。

俺は彼の口を手で塞ぎ、あいた片手でもうひと摑み、草を口に運んだ。もそもそした草の葉が、口の中で唾液を吸って塊になっていく。

咀嚼しながら、彼が根負けして呑み下すのを待った。

ごくりと喉が動く。

彼が一息ついたところで、もう一度草の塊を舌を使って口にねじ込んだ。

彼が泣きそうな顔をしながら俺を見ている。まだ一回残っているのだ。それも飲んでもらわなければならない。

俺は残りの一回分を噛みながら、彼を見ていた。

彼も、俺の意図することを察したのだろう。相変わらず抵抗もせず、親鳥から餌を与えられる雛のように、自ら口を開いた。

舌を出した彼の口に、自分の唇をかっぷりと押し付けて、たばこの葉を食べさせた。

彼が飲み込むまでの間に、俺は口の中に残った葉を集めて舌に乗せた。

「これが残ってる」

俺が舌に乗った葉を見せる。

「もう、怒ってないですか…?」

彼が聞いた。

「ああ、もう怒ってない」

俺がそう返すと、彼は安心したようにまた口を開いた。

少ない量を、彼の口内の奥へと押しやり、ついでに、俺の舌に残った苦味を、彼の上顎になすりつけてやった。

どうせなら、あの、いつまでもあと残りする苦味を口中に塗りたくってやろうと、彼の歯を舐めてから口を離した。つもりだった。

彼の前歯が、俺の唇と舌を捉え、薄い粘膜とその表側を、白い歯で切り裂いた。

思わず身を引いて、唇に触ると、存外に深く切られたようで、ざっくりと亀裂が入っている。湧き上がるように染み出した血が、指を伝ってぽたりと垂れた。

「おいしいとかそんな…やっぱりひどい味じゃないですか…。にがい…ぼくにがいの嫌いなのに…」

彼が膝をついたまま、俺を見ている。

表情が読めず、途端、俺は彼が恐ろしいものであるのを感じ、動けなくなっていた。

「おまわりさん…血が出てますよ…。大丈夫ですか…?」

彼は俺の唇を触ると、垂れた血を指ですくって、それを舐めた。

てちてちと舌を鳴らして、俺の血を味わった彼は、お気に召したのか少し微笑むと、身を屈めて俺の下唇に舌を伸ばしてきた。

ちろちろと、彼の薄い舌が俺の血を舐めとっていく。傷跡を味蕾で擦られるぴりぴりした痛み。

時折、彼が歯を立てたり、血を吸いだそうとするので、出血は止まるどころか、傷口が大きくなっていく。

いずれ、俺の口内に侵入した俺の血液が増え、その濃い味を俺自身もとっくりと味わうことになる。

鉄錆と、嘔吐感を誘う生臭いにおいが、じわりじわりと広がっていく。

俺はまだ動けない。冷や汗のようなものか、うなじのあたりを伝って背中へ落ちていった。

彼は随分な時間、俺の血を舐めていたように思うのだが、俺はその間、全くとして動けないでいた。

ようやっと彼の口直しが終わり、解放された途端、俺は水中に潜っていた時のように大きく息を継いだ。

「……やっとにがくなくなった…」

ごちそうさまでした、と、彼はぺこりと頭を下げた。

俺は切れた唇を指で触りながら、なにも言えず座り込んでいた。舌も唇も、痺れてしまったようで動かせず、だのに痛みだけははっきりとしていた。

「おなかがすきました…。おまわりさん…ごはん…。おにく食べたい…」

彼が食事をねだる声が聞こえる。

まだ舌が痺れて話せない。

腫れ上がる前に治癒するだろうか。

「ねぇ…おまわりさん…?おにく…あ…おまわりさんおにく…。あー…」

彼の手が、座卓の上のガラスの灰皿をつかむ。

少しだけ入っていた吸い殻と灰が、ひっくり返されて座卓に散った。嫌な予感がする。

彼が厚いカットガラスの塊を振りかぶる。俺のこめかみに向かって、固いガラスの塊が、振り下ろされる。

衝撃のあと、ぬるぬると熱いものが頭から流れるのを感じる。彼は俺を見ている。

目を覚ました時には、傷のほとんどが消えて無くなって、またどこか肉を削がれているのだろうか。

悪態を吐きたい気持ちで、目を輝かせた彼を見る。吸い込まれるような感覚に、俺は落ちていった。




初出20160311

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る