第43話 彼の背中を剣山で削る日。
彼が、小さく息を吐いた。
俺もそれにつられて、深く吸ったたばこの煙を、ふうっと音を立てて吐き出した。
彼の左足の小指の爪は、未だ焼き潰れたままで、あればかりは、いつまでも治らずにいてくれている。
理由はわからないけれど、それを見るたびに、俺は充足感を覚え、穏やかな気持ちになる。
治さないでいてくれているのか、もしくは、そういうものだと、彼のいのちがそう定めて、そうしてくれているのかはわからない。
ただ、俺はそれに、喜びを覚えていた。
彼に俺のしたことが、染み込み、深く根付いているような、そんな気持ちが。
彼が俺を忘れることがないという、約束のような気持ちが。
とても安らかに思えて仕方がないのだ。
けれど、俺の好奇心は、安らかさからは乖離し、どうにも始末に負えないのだ。
こうして、彼を見ている間も、じわりじわりと、次の為に、腹の奥に溜まっている。
俺は、彼の背中が好きだ。
なだらかに続く、背骨の階段と、それの両端に生える、羽のような肩甲骨。
下には、腰骨の窪みを備えた、頼りない、細い背中。
彼の背中を、傷つけ、責め苛むのが好きだ。
うつ伏せた彼の黒髪に、鼻先を埋めて、ほんのりと香るガソリンのにおいを嗅ぎながら、彼に、今どんな気持ちが、尋ねるのが好きだ。
ただ、彼の表情を窺うことができないのだけが、少しだけ寂しくて、彼の首をこちらに向けさせたくて堪らなくなる。
今日は、彼になにをしようかと、俺はたばこを咥えたまま、思案の海に、身を浸していた。
倉庫の中で、手のひらに少し余る大きさの剣山を見つけた。
硬く立ち上がった、何本もの針山。
これを手のひらに乗せた瞬間に、俺の好奇心は、わき踊った。
彼の背中に、この鋭い切っ先を押し当て、上から下に、削ぎ落とすように、引き下ろしたなら、彼の背中はどうなるだろうか。
どんな傷口が、現れて、彼はどんな声で呻き、俺に与えられる苦痛を享受するだろうか。
彼の白い背中を想像して、俺は切なく息を吐いた。
車庫のパトカーに向かって、幸せそうに、その車体を撫でる彼に声をかける。
「ねぇ、寝室にきてよ」
彼は、少し怪訝な顔をする。
なにかしらひどいことをされるだろう、そのくらいは学習している彼なのだけれど、それでも、彼は俺の言葉に従って、後ろについてくる。
俺も彼も、ただ穏やかな日常を、寄せ返す波のように暮らすだけでは、足りないのだと知っているのだ。
俺は、俺の好奇心の為に。
彼は、彼の心の安寧の為に。
俺と彼の、猟奇的な営みは、日常と呼べるものであって、それが如何に、外側から見たら、悍ましい行為なのか、想像するに難くない。
けれど、俺は、俺と彼がしあわせでよければよろしく、他者のしあわせを鑑みる余裕などないのだ。
俺と彼とパトカーの、この世界で、それこそが、生活の営みなのだから、どうすることもできやしないのだ。
彼の着ていたTシャツを脱がせる。
バンザイのポーズをした彼の身体は、相も変わらず頼りなく、成長過程のまま、止まっている。
ちょうど、精通を迎えはしたが、声変わりまでは至らない、あの頃のかたちだ。
俺にも、きっとそんな時があった。
その頃合いには、どんなことをしていただろうか。少なくとも、こんな行為に憧れたり、猟奇的な空想はしていなかったように思う。
きっと、彼に出会っていなければ、こんな好奇心を知ることもなかったのだろう。
それについては、後悔もなく、かと言って安堵するわけでもない。
ただ、そうなるようになった、としか思えないのだ。
彼に、暴力を振るいたかった。
彼を布団の上に引き倒し、うつ伏せさせる。
白い背中。
彼は、こちらを窺いながら、けれどもやはり、従順であった、
彼を責め苛むのに、剣山だけでは不充分な気もしたけれど、彼の背中に、剣山を押し当て、ひねり、揺らす。
「ぐ、うっ…」
彼が呻いて、彼の背中に、無数の赤い穴が開く。
そのひとつひとつが、細く赤い血の筋を垂らしている。
俺は、彼の背中に、何度も剣山を強く押し当て、穴を開ける。
ぷつぷつと、赤い点が、彼の背中を埋め、時折こじるようにすると、点と点が繋がり、引き裂いたような傷口になる。
彼の肩が震え、痛みを感じて、耐えているのがわかる。
噛み殺したような呻き声が、喉の奥でくぐもって、獣の低い唸りを作る。
彼が金切り声をあげて、泣くようなことは、一度も聞いた事がない。
彼の声は、いつも、かすれるように慎み深く、耳触りのいい音を出す。
俺は、穴だらけの背中を、剣山で撫でた。
硬い針山は、傷口に引っかかり、肉をこそげて、出血を増やす。
ぞり、ぞり、と、彼の背中を摩り下ろしているようだった。
細かく削がれた肉と皮が、剣山の麓に溜まり、ひたひたと、針の頂点から、血を流している。
彼の背中の皮を、あらかた細切れにし、剥がし終わるまで、そう長く時間はかからない。
白い皮膚だったものが、鮮血に染まり、皮下組織を露わにして、震えている。
じきに薄い脂肪層に達し、やがて、筋肉の固い層に至るのだろう。
どこで、手を止めようかと考えるのも、たまらなく楽しいものだった。
「ゔ…ぅ…。あ…いだい…。いだぃ…」
彼がぽつぽつと、言葉を発する。
首をそらせ、きゅっと目を閉じ、歯を食いしばりながら、いたい、と、口先からあぶくを吐くように、ぽろりぽろりと零していく。
「うん、痛くしてるよ」
俺は、そう、彼に返事をして、彼の肉を摩り下ろす作業を続ける。
彼は、小さく笑って、へたりとこうべを垂れた。
針の束を押し当てるだけでも、相当に痛むだろう、それを、ちからをいれて、何度も擦り付ける。
ぐじゅぐじゅと、血肉が混ざり合って音を立て、想像し難い痛みに、生きた肉が、脈動する。
俺の手が、彼を苦しめる為に使われて、彼の背中が、俺の好奇心を満たす為に使われている。
やはりそれは、一方的な暴力のようで、そうではなく、彼もきっと、この痛みを楽しんでいるのだろう。
歯嚙みしたような呻き声が、断続的に聞こえ、俺は彼の顔が見たくなる。
彼の顎に手のひらを添えて、此方を向くように誘導した。
横髪に隠れた彼の顔は、矢張り苦痛に歪められ、はたはたと涙をこぼし、それでも、どこかしあわせそうな、黒いまなこをこちらにむけてしばたたかせた。
濡れたまなこが、俺を見るから、俺は、むず痒いような、きりりと痛むようなものを、胸の奥に感じていた。
それが、どう言葉にするべき気持ちなのかはわからない。
けれど、不快なものではなく、ゆっくりと浸り、そこにたゆたっていたい、ぬるま湯のようなものだった。
彼の髪に鼻先をうずめ、呼吸する。
汗とシャンプーと、うっすらとかおるガソリンのにおい。
甘やかな、揮発性の高い油の匂い。
彼の匂いに浸かりながら、剣山を動かした。
ごり、と、骨を乗り越える固い感触とともに、彼が、ぐぅっ、と呻いて、咳き込んだ。
もう少し、そのひそめられた苦悶の声が、表情が、知りたい。
俺は顔をあげて、周りに視線を走らせる。
座卓の上に、幾つか並んだ調味料から、タバスコを取る。
小さな蓋を開け、彼に見えるように、差し出した。
「痛い?痛いよね?これ、背中に落としたら、どんな風になるか教えて」
彼は、その酸いにおいに、ひっ、と、短く悲鳴をあげたけれど、
「がんばります…」
と、小さな声で、俺に答えた。
ひとしずく、瓶の中身を彼の背に垂らす。
赤い液体が、彼の背中に着地し、血肉に吸われていく。
てん、てん、と、場所を変えて、彼の背中に、落としていく。
「い゛…ぎぃ……」
彼が頭を振って、噛み殺した悲鳴をあげた。
「どう?」
「あ゛、あ゛づい…あづぃで、すっ…」
彼の背中が、ぶるぶる震え、彼の両手が彼の髪をつかんた。
「熱いの?」
「あ、づい……。せなか、やけ…あ゛、ぁぁ゛ぁ…」
彼の背は、焼かれるようなのだろうか。硬直した筋肉に押し出され、ぷっ、と、血潮が飛んだ。
灼熱に浸された傷が、一斉に口を開いた、業火のような痛みの中で、彼はなにを感じているだろうか。
俺は、彼の背に、もう一度酸い灼熱を落とし込んだ。たっぷりと、彼の背に、吸わせてやる。
範囲が広がるのだろう。
髪をかきむしるようにして、彼が鳴き、苦しみの中で身悶える。
それはまさに、俺の知りたい彼の苦悶の表情であって、何度も繰り返した凄惨な行為の中で、二度同じものを見ることのない、刹那のものなのだ。
脳裏に焼き付けた、彼のあらゆる表情を、記憶し続けても、俺の好奇心にはまだ足りない。
彼のなにもかもを、俺は知りたいのだ。
「おまわりさん」と、彼が穏やかに俺を呼ぶ時も、胸を焼くような悲しみの中で呼ぶ声も、耐え難い痛みの中で、俺を呼ぶ声も、ひとひら、落ちる雫のようなもので、どれを聴いても、俺にはまだ足りない。
未だ、俺は飢えている。
すっかり空になってしまった小瓶を座卓に戻し、俺は血まみれの剣山を掴み上げた。
鉄錆のにおいが、金属の針山の隅々まで染み込んで、てらてらと慟哭する。
彼の背に、針山を押し当て、力任せに肉を削いだ。
おろす、と言った方が正しいかもしれない。
ぐじゅぐじゅ、ぐじゅぐじゅ
手のひらの下で、剣山が湿り、粘質な音を立てる。
「ひィ゛…!おま゛わ゛り、ざ…!イダィ゛ィ…!」
彼の背を、すり潰すように、剣山を動かす。
いたい、あつい、と、繰り返しながら、合間合間に俺を呼ぶ、彼のなんと健気で愛しい声か。
いじらしく、脆弱で、俺は彼のその哀れな姿に、しあわせを受け取っていた。
彼の背骨に、針先が当たり、ごりごりと音を立てる。
彼の悲鳴が小さくなり、ひくん、と、身体を震わせて、動かなくなった。
息をしている。
浅く、早く、彼が息をしている。
哀れで、いとおしくて、俺は、彼になにを与えるべきなのかわからなかった。
身をかがめ、彼の涙と体液に塗れた顔を、舌で舐めた。
唇で彼の顔を触り、俺が彼を愛しく思っていることを伝えたかった。
掠れ、震える声が、「おまわりさん」と、切れ切れに、彼の唇から零れ落ちる。
「あつい…おまわりさん…。せなか、あつい…」
彼が、少し微笑んで、俺にそう言った。
血塗れの俺の手が、彼の頬を撫でるから、彼の頬には、彼の血が塗られ、それを彼の涙が薄めて、頬から落としていく。
「そうだな。すごく熱そうだ」
彼の白い背中をは、赤黒く変わり、凝固していく血液と、未だ流れ出る鮮血とが混ざり合い、傷口の肉は、唐辛子と塩と酢に味付けされ、さながら地獄の釜の中身のようであった。
彼の背中を、指で撫でると、彼は痛みに声を漏らした。
すくい取った血潮の混合物を、口に入れると、鉄錆と酸いにおい、そして舌を焼くような辛さが、俺を楽しませてくれた。
彼の背は、これらを全て背負っている。そして、それらは、ひたすらに彼の身体を焼いているのだ。
俺は、彼の背中を、指先で搔きまわしながら、彼が苦悶する表情を、よくよく観察した。
眉を寄せ、目から、鼻から、口から体液を垂らし、ひどい顔をしている。
ぐちゃぐちゃにまみれた顔で、それでも、俺に時折向ける、沼底のような黒い目が、濡れた睫毛に縁取られ、それがとても美しいと思った。
伏せた睫毛に、涙が染み込み、束になった先端から、雫が落ち、彼の頬を伝い、血を薄め、流していく。
どんな味がするのかと、彼の顎をつかみ、無理矢理上を向かせ、顔を舐めた。
鉄錆と、塩味、生臭い血のにおい。
汗に濡れた髪が匂い立ち、彼のにおいが、俺の鼻腔を撫でていく。
濡れた睫毛に舌を伸ばし、その縁取りの中心にある眼球を、味わうように、唇で囲い込んだ。
にゅるにゅると、舌を動かして、彼の眼球を舌で嬲る。
痛みとは違った呻きが、彼の唇からこぼれ出て、俺はたまらない恍惚に身を震わせた。
彼の味とにおい。
今の彼は、こうも芳しく、甘く舌触りがよいものかと、俺のこころは満たされていく。
「俺、今、すごくしあわせなんだけど、きみは?」
俺がそう問うと、彼は少し口籠り、けれど、穏やかな声で、
「おまわりさんがそうなら…ぼくもしあわせです…」
そう、答えてくれた。
俺の好奇心を、肯定してもらえた気がした。
ひどくしあわせで、それはまさに法悦の喜びと呼べるもので、俺は安堵していた。
血塗れの彼を抱き寄せて、膝に乗せる。
向かい合った彼は、俺の抱擁に、手を回して答えてくれた。ちからが入らないのだろう、ずしりと、彼の体重が俺にかかるが、些細なものだった。
そのまま、背中を触ると、その度、彼が辛そうに呻き声を漏らし、けれど、少しだけ笑ってくれる。
俺は、たばこに火をつけて、彼を抱いたまま、ゆっくりとその苦い味を楽しんだ。
彼は、へたりと俺に身体を委ね、浅く呼吸をしていた。
彼の頭を撫で、今日はこのくらいにしておこうと、彼に伝えた。
彼も、小さく頷いて、「少し疲れたから…」と、眠たそうな声で囁いた。
彼の左足の小指を見ながら、このたばこがもう少し短くなるまでらこうして抱いていようと思う。
彼の小指で、火を消して、そうしたら、彼になにか喜ぶ食事を作ってやろうと。
あやすように、彼の髪を撫で、彼のにおいに包まれて、俺はとてもとてもしあわせだった。
了
2016/08/29
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