第10話どこからがひとか
照りつける太陽は、恐ろしく熱く、真下を向けば、自分の影が底なしの暗闇のように地面に張り付いている。
じわじわと、煮立った油のような声で蝉が鳴きじゃくり、視覚聴覚を併せて、立ち昇る入道雲の季節であると主張している。
俺は、かんかん照りの下から日陰へと、小さなプランターを移動させた。
車庫の横の日陰は、じきに真上に至る太陽によって、ゆっくりと狭められていく。
プランターの中に生えたトマトの木は、この灼熱の下でも生き生きとしており、まだ黄色い実を少しずつ赤へと近づけていた。
少し湿った土の中に、小さく散らばる白い欠片を見ながら、俺は収穫を楽しみに待っていた。
動物の世話は勿論、植物の世話もまともにしたことがない俺が、わざわざプランターにものを植えようと思ったのは、梅雨の終わり頃のことだ。
何日も続いた霧雨に、交番の中までがじっとりと湿り、結露した窓からしずくが垂れ下がっていた灰色の日だ。
奥の部屋に置いた大きなゴミバケツが、がたがたと動いている。
先日、ぐずぐずになるまで、パトカーのタイヤで轢き、すり潰した彼の肉が、腐る前に元来のものへと戻ったようだ。
俺は、ゴミバケツの側面をノックして尋ねた。
「もう全部戻ったのか?」
さすがに、あそこまで細切れてしまった彼を、中途半端に蘇生した姿では見たくないのだ。
「あ…えっと…あ…うで…腕がまだだけど…他は…」
おずおずと聞こえるこもった声は、間違いなく彼のものだった。
窺うように、ゆっくりとゴミバケツの蓋を開けると、彼は下を向いたまま、恐らく微笑んでいるだろう声で言う。
「おなかがすきました…!」
「あぁ、ラーメンでも作ろうか」
「出してください…」
すっぽりとゴミバケツにはまり込み、彼は自力では動くことができないらしい。
その頭の上に、てんてんとたばこの灰を落としても、彼は気付くことなく、どうにか立ち上がろうと身動ぎしていた。
俺は、ゴミバケツを横に倒し、逆さまにして振る。
転がり出てきた彼は、べちゃりと顔面を畳に押し付け、小さく悲鳴をあげた。
「あぁ…まだ手が使えないんですから…乱暴にしないで…」
彼の腕を見ると、中途半端に癒着した手首が垂れ下がり、もう片方は、肘のあたりからゆっくりと肉が盛り上がって育つ途中だった。
「それじゃラーメン食べられないね」
「えっ…!あっ…あぁっ…!」
彼はぶら下がった手首をどうにかくっつけようと、畳を使ってもがいている。
それはどうにも不恰好で、どうせ治るなら、足よりも手を先に治すべきだろうと思うのだけど、彼の意思でどうにかなるものではないのかもしれない。
「じゃあ、俺は先に頂くから」
「ずるいですよぉ…」
湯を注いだカップ麺を待ちながら、まだごそごそやっている彼を見る。
一瞬目を離した隙に、手首の癒着部分が増えているようだ。だのに、じっと見つめていても、その動きを認識することはできなかった。
彼の化け物じみた再生力、というと、まるで彼が人間のように思えるが、俺としては、彼をひとのかたちをしたなにかと捉え切ることは未だにできない。
それはあまりに、彼が人間臭く、逐一苦しんで、喜んで、天気ひとつに感想を漏らす感性の持ち主だからだ。
いっそのこと、良心の呵責なく人を殺すのを楽しむようなものであってくれれば、こちらも何も思わず、彼を処分する術を模索できるだろう。実際の彼は、蚊を一匹叩くことさえ、躊躇するのだ。
割り箸でカップ麺を混ぜていると、彼は畳をいざってこちらに寄ってくる。余程腹が減っていると見えて、上下する俺の箸に視線を合わせ、口に運ぶたびに、あぁだとかいいにおいだとか言っている。
「ごはんを食べないと、ごはんが食べられなくなっちゃうんですよ…!」
「そしたら、もう食べないほうが食費が浮くね」
そう返すと、彼は項垂れて、畳に転がったまま、また手首をいじり始めた。
「おなかがすいた…パトカーさん…おなかがすきましたよ…。パトカーさん…あぁ…おいしそうだな…パトカーさんは…おいしそう…。あっ…ううっ…」
ぶつぶつと呟いていた彼は、急に呻いて、身体を丸めた。
「どうした?」
「お、おなか…おなかが…」
きゅうと体をくの字に曲げ、未だ歪な腕で腹を抑えている。
俺はカップ麺のスープを飲みながら、思い当たる節を考えていた。
彼がすり潰されたどろどろの肉になっていた時だ。
ゴミバケツに入れられた彼を見ながら、俺は一本のモンキーレンチを、その中に落とし込んでいた。
それは、彼を轢き潰す前に、何度か彼の頭部を殴打したものだ。
べったりと張り付いた血を落とすのが面倒くさくて、まとめていれておけば、彼の中に血液は吸収され、綺麗になったモンキーレンチが出てくるのではないかと思ってやったことだ。
成る程、さっきバケツを逆さまにした時に転がり出てきたのは彼だけで、入れた工具など影も形もなかった。
丸まった彼の身体の下に腕を差し込み、腹の辺りをぎゅっと押すと、柔らかな肉の中に、確かに固いものを触ることができた。
「あー…あれだよ。モンキーレンチ。あれが中に入ってる」
「え、えぇ…?なんでそんなのが…」
「よくわかんないけど、混ざって入れちゃってたみたい。ごめんね」
さて、どうしようか、と、彼に言った時には、俺はもうどうするか決めていた。
「取り出してあげるから、おなか出してて」
不自由な腕で、服の裾をめくりあげる彼を横目に見ながら、俺は立ち上がり、台所から包丁を持って戻った。
「畳が汚れるかな…」
「ま、待って…おまわりさん…なにするんですか…?」
畳が汚れることよりも、この体勢は、作業がしづらいだろう。
俺は、彼を座卓の上に仰向けに転がし、そのままでいるように言う。
「おなかに穴開けて、引っ張り出せるかなって…」
「ええええ……そんな…」
心底嫌そうな彼の胸に腰を下ろすと、二人分の体重を受けて座卓が少し軋んだ。
「グェッ…」
「仕方ないだろう。ここに乗るのが一番安定するんだから」
彼のへその少し上辺りだ。
固いもの目掛けて、よく研がれた包丁を突き入れる。
「イ゛ッ…!」
「腹に力入れるなよ。血が出るだろう」
手のひらがひとつ入る大きさに、腹に穴をあける。
彼が力を入れるので、鉄臭い液体がぬるぬると小さく吹き出すように溢れてくる。
「イ゛ダイ……!おまわりざっ…、あ゛ァ…あ゛ぁ ァ…うぅ゛ぅ゛っ…」
生温かい穴に、ゆっくりと手を差し込む。
濃い湿気の中で、血液が臭いたち、部屋に満ちていく。
ぐにゅぐにゅとしたものが隙間なく詰め込まれ、時折痙攣したように動いている。
好き勝手に手を動かしていると。目当てのモンキーレンチには、すぐに触ることができた。
しかし、俺の右手は、モンキーレンチよりも彼の内側にある、様々なかたちの肉の塊を確かめることを優先した。
細長くて、手に絡みつきそうなのは、腸のどれかだろうか。
少し上に手を伸ばせば、触ることができるのは胃かもしれないし、違う臓器かもしれない。
人間の内臓まで、記憶していないのが惜しまれる。
俺は、手近な内臓をひとつ、ぐっと握りこんだ。
「ア゛ァァッ…!?」
俺の後ろで彼が引き絞った声をあげる。
唸るようだった声から、途端に変化するのを面白く思い、俺はつかめる内臓を片っ端から握り込んで、彼の苦しむ声を楽しんだ。
幾つか握り潰し、爪で裂いていくと、彼の腹の中は少しずつどろどろしたものへと変わっていく。
「おっ…おばわ゛りだんっ…!」
背中をぱこぱこ叩かれ、振り返ると、彼は口から溢れてきた血液で溺れているらしい。ごぽごぽと口から溢れる血液が行き場を無くし、彼の呼吸を阻害している。
切り株のような腕では、満足に抵抗することもできず、湧き上がる血反吐を吐き捨てることも叶わず、背中を叩く力も、少しずつ弱くなっていく。
じきに、彼は悲鳴をあげることはなくなった。
そこで漸く、モンキーレンチをつかみ出し、代わりに包丁を持って腹の中に潜り込ませた。
温かい肉袋の中を、包丁で突き、搔き回す。
外側から見れば、腹に穴が開いているだけの死体も、内側は丹念に切り解されているだろう。
腕を抜くと、潰れた内臓が穴からごぷりと外に溢れ出した。
俺は、包丁をまた中に押し込み、彼の固い背骨を何個かこじるようにして折り取ることに成功した。ごろんとして収穫物は、いずこかで見た骨格標本のものに近く、けれど生肉のかけらと血液にまみれていた。
床に置いたままだった空のカップに、その幾つかの背骨と、溢れ出てしまった内臓を入れた。大きめのカップに満たされた骨肉を見ながら、俺はにんまりと笑った。
肉骨粉、という肥料を思い出したのだ。
彼の骨肉を肥料として与え、作物を作ったとしたら、それはどんな味か。
彼のような頑強さを持ち、一等素晴らしい作物が実るのではないか。
死んだ彼をそのままにして、俺は台所へ行くと、手と包丁を洗った。
肉骨粉の作り方をスマートフォンで調べると、驚くほどあっさりと目的の情報に辿り着いた。手間を惜しみ、このまま外に置いておいて、腐ってしまっては元も子もないから、何よりも先にこの作業をしたかった俺には、情報社会はありがたく思えた。書かれたとおりに、電子レンジで水分を飛ばし、ハンマーで細かく打ち砕く。
空になっていた茶筒に収めると、水分が飛んでなお、存外多くの量があった。
倉庫の中に入れっぱなしにされていた小さなプランターと土、そして今朝近所の農家がくれたトマトの苗のことは、よく覚えている。
土いじりは、あまりしたことがない。
農家の人が言っていた植え付け方法を思い出しながら、苗を植えた。
爪の中に入り込んでいた血は、黒く柔らかい土に塗りつぶされてわからなくなっていく。
俺は、土に馴染もうとする苗を見ながら、このトマトがどんな味の実をつけるのか、わくわくしていた。
彼の肉骨粉を少しだけ苗の周りに散らして、水を撒いて、一息ついた頃には、夕方に近くなっていた。
しとしとと降り続いていた雨が止み、薄暗いまま空はこちらを見下ろしている。
座卓の上では、死んだ彼の手首が、すっかり元通りになっていた。
それから、俺は、この真夏の日まで、丁寧にこのトマトの世話を続けた。
トマトは、彼の肉骨粉をうまく吸収したのか、単純に俺が適切な作業をしていたからなのかわからないが、赤く熟れた実をつけてくれた。
それはなかなかの豊作で、小さなボウルに幾つも摘み取っておける量だった。
俺がトマトをちぎっていると、車庫の方から彼がやってきた。
朝からパトカーに触り、ついた指紋を拭き取ってまた触る仕事をしてきたのだろう。
「あ、真っ赤だ…。パトカーさんの赤ですね…!」
「今日はこれをサラダにしようと思うんだけど」
「えぇ…ぼく、生のは…食べられない…。焼いたやつなら…好きです…」
「じゃあなにか君用に、火を通したやつを作るか…」
トマトの表面を指で撫でると、よく張っていて、きゅ、と音を立てた。
ひとつ掴んで、口に運ぶ。
そのトマトは、甘く、程良い硬さで歯触りを楽しませてくれる。
けれど、彼の骨肉を感じさせるものはなく、俺は少しがっかりしたような気分で、それをひとつ食べ終えた。
「わぁ…青臭くて、うえって…ならないんですか…」
「いや?おいしいよ」
「おいしいなら、ちゃんとおいしそうな顔してくださいよ…。なんでちょっと残念そうなんですか…」
気持ちが顔に出ていたか。
俺は口元を拭いながら、頬の肉を揉んで誤魔化すのに努める。
俺が仕事に戻ろうとするのを感じてか、彼はまたパトカーの前に向かっていった。
今夜の夕食に、彼は知らずに自分の骨肉を吸った実を食べるのだろうか。
黙っていてもいいが、事実を伝えて困惑する彼を見るのも面白そうだ。
一人でほくそ笑む俺は、あのトマトが秋の訪れまで実をつけ続けるのをまだ知らない。
了
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