第26話 箱の中の箱

ガレージで、彼が死んでいた。

俺は、眼前にある、真っ白い彼の顔を見て、思わずくるりと後ろを向き、シャッターを両手で引き下ろした。ガレージの中は、乾ききらない血臭が停滞している。

彼の首が、変な方向にへし曲がって、パトカーの後輪に引っかかり、ぶら下がっている。

腹から引きちぎられた下半身は、車体の下に転がっていた。

ボンネットに跳ね上げ、そこからずり落ちた彼を、左前輪から、後輪にかけて、巻き込み、裁断し、引きずりながら加速したのだろう。側面には彼の血痕がこびりつき、前輪のタイヤハウスの内側には、肉の切れ端が貼りついていた。

後輪に近づくにつれ、塗り伸ばされたように血痕が這い、所々に彼の黒髪がへばりついていた。

車二台分と少々のガレージにおいて、物理的に可能でないそれは、なにか特異な出来事があったとしか思えず、俺はその特異な出来事が起こりうることに薄々気づいていた。

俺は、ごくりと唾を飲み、物言わぬパトカーに言った。

「あんたが…やったのか?」

無論、パトカーから返る言葉はなく、ただの自動車よろしく、沈黙している。

その車体から突き出る、息絶えた彼が、異常な程の安らかな死に顔を晒していた。

俺は、彼の頭部を後輪から引き剥がす。挟み込まれた肉がぶちぶちとちぎれ、中に残っていた、凝固しかけ、ゆるいゲル状となった血液がぼたりぼたりとコンクリートに落ちていった。

内臓はいくつか失われ、ひどく軽い。

彼の胸の中に手を差し込むと、まだほんのりとあたたかいことに、ぞくぞくした。

指の先が、彼の血潮でぬるぬるし、彼の身体を取り落としそうになる。

俺がガレージに向かう直前まで、彼は生きていたのだろうか。

物音一切を立てずに、彼をこんなにも破壊し尽くすことが、眼前のパトカーに可能なのだろうか。俺の気づかない間に、彼の怪異はひたひたと、無機物にすら影響を与えているのだろうか。

俺もパトカーも、ようやっと気づいた時には、すっかりと彼のものに浸食されきっているのだろうか。

パトカーの車体の下を覗き込む。

彼の下半身が倒れ、はらわたをコンクリートの上に広げていた。

とぷとぷと、内臓の敷布を広げ、彼の下半身は、伏せていた。

手を伸ばそうとしても、うまく届かない。なにか棒のようなもので引っ掛けて、引きずり出さなければならないだろう。

そのためのものを探そうと、俺は制帽を持ち上げ、視界を広くしながら、身体を起こした。

「あ…」

パトカーの側面に張り付く、彼の毛髪が、目に入った。

刮ぎ取られた彼の皮膚。血のにおい。

鼻のすぐ近くにあったそれは、俺の目を釘付けにした。

俺は、彼の頭部を抱いたまま、ゆっくりとパトカーの車体に唇を近づける。

固まった血液のざらりとした感触。

パトカーの車体は、彼が言う通りつるつるで滑らかだった。冷ややかな車体は、沈黙し、俺の舌の体温を受けて、ゆっくりと生きた温度へと近づいていく。

彼の血痕を舐めとるたびに、彼の血臭が俺の舌と唾液で味に変わる。彼の肉片を剥がして、前歯で噛んだ。

噛み切れない。指の皮を噛む時と似ている。生皮なのだ、当然だろう。

パトカーに張り付いた毛髪に舌を伸ばす。腕に抱いた彼が、俺を見ていないか不安だった。

窺うように、恐る恐る視線を下げると、上半身しかない彼の目は伏せられていて、俺を咎めなかった。

薄く開いた唇は、たっぷりと吐血したのだろう、口内が赤黒く見える。

俺がそれを覗き込もうとしたはずみに、彼の首が傾いで、口の端から、どろりと、凝固しかけた血液が流れ落ちた。

俺は彼の毛髪を飲み込むと、死骸である彼の唇を吸った。

弛緩した舌は、俺の舌を拒絶することもなく、口内を嬲られるに任せている。

蹂躙し、啜り、舐るたびに、彼の体内にあった血液の味が、俺の中に雪崩れ込んでくる。

生臭く、苦みすら伴った、不快な味を、俺は夢中で飲み込んだ。

もし、黄泉竈食ひなるものがあるとしたら、俺は彼になってしまうのだろうか、と、今更であろうことは考えた。

俺は、随分と彼に近いものになってしまっているのだろう。

そして、それに違和感を持つことも無くなっている。死んで蘇生することに恐怖することもない。痛みだけは、以前と変わらず彼が俺に攻撃するたびに、気の遠くなるような苦痛を与えるし、死ぬ瞬間だけは、どうにも慣れることなどできないが。

けれど、終わりとして存在する死への恐怖は、幾らか薄れてしまっていて、俺が彼の怪異の一部になっていくことを感じている。

こうして、死体を嬲り、パトカーに口づけ、血糊を貪るのも、彼のせいなのだろうか。彼のせいであって欲しいと、俺の中のものが、無駄な口をきこうとする。

「はは…」

かぶりを振って、出てきたのは、自嘲だった。

俺は彼の死骸を抱きながら勃起していた。

俺はもう既にまともでないのかもしれない。いや、まともであるはずだ。

相変わらず、近隣住民からは、勤勉で親切な駐在さんと慕われている。それがまともでないとしたら、なにをもってしてまともだというのか。

そもそも、元来のまともな基準とはなんだ。

だが、今はそんなことはどうでもいい。

俺は、彼の唇から血を吸いだしながら、熱り立った陰茎を手のひらで扱いた。彼の身体は固くなっていく。

左手を彼の体内に入れ、惜しむかのように、中に入っている臓物を揉み潰した。

ぬちぬちと音がする。

彼のはらわたの音なのかもしれないし、俺の陰茎が立てる音なのかもしれない。

彼の内臓で性交をしているような錯覚。

俺は、引き抜いた左手にまとわりつく、鉄臭い肉の塊を舐めながら、コンクリートの上に昂りを吐き捨てた。

身体が重く、彼の遺骸を片付けてしまおうという気になれなくなっていた。

制服には彼の血がついてしまっている。染みになる前に取ってしまいたい。

立ち上がり、制帽を被り直すと、彼の上半身をパトカーの脇に置いた。

制服を洗い、着替えてからまたきちんと片付けてやろうと思い、俺はガレージを出た。

閉じられたシャッターの向こう側が、血臭と精液のにおいにまみれていると、誰が知るだろうか。


「ん…」

目を開けると、すぐ近くにパトカーさんがいた。ぼくは、ぼんやりとした夢を思い出す。パトカーさんは、ぼくを跳ね飛ばして倒し、その大きな車体の下に引き込んで、思い切り加速し、ぼくをタイヤで轢いた。

それは、挽いたと字をあててもおかしくないほど激しいものであって、ぼくの身体は二つに分かれてしまった。

ぼくはしあわせで、何度もパトカーさんのことを呼んだ。

「パトカーさん…」

パトカーさんは、なにも言わなかった。

ぼくの身体は、きちんとくっついていた。

けれど、パトカーさんの身体には、ぼくのものなのだろう、血や髪の毛、骨の破片がくっついてしまっていた。

ぼくは夢でなく、パトカーさんに轢かれて、パトカーさんと限りなくくっついていたのだ。

「あ…ぁぁ…パトカーさん…!」

それを思うと、声が裏返りそうになる。

ぼくを跳ね上げたボンネットは、へこんではいなかったけれど、ぼくの吐いた血をその広いところに受けていた。

側面にも、ぼくの血痕がずるずるとつながっている。

タイヤの溝には、ぼくの血と、肉の破片が巻き込まれ、指で引っ掻くとぽろぽろと剥がれ落ちてきた。

「パトカーさん…」

ぼくは、パトカーさんについたぼくの痕跡を余すところなく見ようとした。

そして、コンクリートに落ちた、白い粘液を見つけた。

それは青臭い、嗅いだことのあるもので、ぼくは少し考えた。

おまわりさんが、ここでなにかしたのかもしれない。それなら、これはおまわりさんのもので、おまわりさんは、パトカーさんとぼくを汚さないように、ここに落としていったのだろう。

その小さな気遣いが嬉しくて、ぼくはコンクリートに顔をくっつけて、おまわりさんの精液に唇をつけた。

べとべとの粘液は、砂が混じっていた。くちのなかがじゃりじゃりする。

パトカーさんの車体。こびりついたぼくの血。それを舐めとったようなあと。

おまわりさんは、ぼくが死んでいる間に、ここでぼくを使って気持ちよくなっていたのだろう。おまわりさんが楽しんでくれたと思うと、ぼくはたまらなく嬉しかった。

「パトカーさん…、おまわりさん、すごくやさしいひとですね…」

ボンネットに身体を預け、ぼくはパトカーさんに言った。

広い広いボンネットは、ぼくを抱きしめてくれる。

「あ…」

グリルに、ぼくの股間がこつんと当たり、そこからどんどんと、しあわせな気持ち良さが湧き上がってくる。

「パトカー、さん…」

グリルは、冷たくて、けれどぼくの血をくっつけて、まだねばねばしていた。

でこぼこのグリルにぼくは硬くなったものをすりつけて、パトカーさんのボンネットを舐めた。

血の味。鉄のにおい。もしかしたら、血の味はパトカーさんの味に近いのかもしれない。

「あ…ぅ…」

パトカーさんは、ぼくのことを、グリルで責め立ててくる。

くにくにといじられるだけで、ぼくはすぐにだめになってしまうのに、パトカーさんはその力加減をよく知っていて、ぼくが長くパトカーさんとの営みを続けられるようにしてくれるのだ。

「ゔぁ…」

パトカーさんが、ぎゅっと車体をぼくに押し付けてくる。

もう少し奥に行ったら、ガレージの壁とパトカーさんの隙間に挟まれてしまう。

「あ…ぁ…パトカーさん…。パトカーさん…」

パトカーさんが、ぼくの下腹部を押してくる。ぼくの背後はもう壁で、じわじわと骨にかかる圧力が増えている。

ぼくは、自分の身体の中で骨が割れる音を聞く。

昂ぶっていたものが解放されてしまう。穿いたままだったジャージの中で、あったかいものがしみていく。それは水量を増やして、ぼくの足を伝っていく。

パトカーさんに砕かれたぼくの腰の骨が、更に圧迫されて肉を内側から突き刺しているのだ。

破れた肉からは、どんどんぼくの体液が流れ出していく。

「う、げぇ…」

ぼくが口から吐き出したのは、血だった。次々にせり上がってくる鉄錆の液体を、ぼくはパトカーさんのボンネットに吐き出した。

「あ゛…ぉあ…げっ…げぇ…げっ…」

身体を起こしていられなくなって、ボンネットにおでこをひっつける。冷たくて気持ちいい。

「パトカーざ…イ゛ッダイ……ゔっ…パトカーさん…すき…。すき…」

パトカーさんが、ぼくにもっと身体をくっつけてくれる。僕の身体は、どんどん砕かれていく。

頭の中がふわふわして、このままとろけてパトカーさんとひとつになって、パトカーさんになれるような気持ちがして、すごくしあわせだ。

ぼくは、大きく息を吸って、身体の中から込み上げる、愛の言葉のようなものを、パトカーさんのボンネットに吐きこぼした。


「どこから手をつけりゃいいんだ」

俺は、戻ってくるなり、凄惨さを増したガレージの中で途方にくれた。

目を離した隙に、彼は蘇生し、また死んだのだ。俺が見た時と、全く同じ場所で、パトカーはそこにいた。

その前方で、彼はまるでパトカーに壁に押し付けられ、潰し殺されたようになって死んでいた。

俺は、腰からへし折られた彼の死骸を抱え上げ、交番の中に入った。

彼を布団の中に放り込み、なるべく血の汚れもろとも蘇生してくれよ、と声をかけた。

「洗うか…」

ブリキのバケツの中に、洗車用のスポンジと洗剤を突っ込んで、再びガレージに向かう。

濡れたスポンジで、パトカーの車体をこすりながら、俺は言う。

「なぁ、あんた。あいつをかわいがるのはいいけれど。頼むから、もう少し汚れない方法でやってくれよ」

伝わっているのかなんてどうでもいい。

もしこのパトカーが、本当に彼の怪異に侵食された何某かになっているのだとしたら、少しくらいは、話がわかる奴だろうと期待したのだ。

午後の警邏に行くまでにすっかりこの血糊を落とし切らなければいけないことを考えて、俺は些かうんざりしながら、自分もここでこれを使ったのだと己を叱咤した。




初出20160404



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