第29話 バーナー
「う……」
腹と胸を畳に圧迫された彼が、呻き声をあげた。
うつ伏せた彼の尻に、俺は腰をおろす。こちらを振り返ろうとする横顔は、髪の毛に隠れてしまっている。
Tシャツの裾をめくって、背骨に沿ったへこみを指でなぞると、くすぐったそうに彼は身を捩った。口に咥えたたばこを、右手でつまみ、まっすぐに頭に向かうその線に、とんと火種を押し付けた。
「あ゛…っづ…」
線に沿って、ゆっくりと点を置いていく。
熱く燃える種が、背中に着地するたびに、彼の身体がびくりとし、僅かに身体が仰け反る。
「ひっ…うう……」
彼の両手が、自らの頭を抱えている。髪の毛に埋もれる指先が、頭皮に爪を立てている。
肩甲骨の下まで、十程の点を連ねると、その右側にまた、同じように点を置いていった。下へ下へと降りていく。
「あ゛ーー…。おまわりさん…あ゛っ…!」
腰骨のおうとつまで点を降ろす。彼の胸骨が息を吸って膨らみ、ひくついている。白い灰が、はらはらと彼の背中に落ちた。
俺は、たばこを口に咥え、煙を吸った。
二列並んだ焦げ跡に三列目を加えようかと思いながら、じきにフィルタへと火種が届くことに気づく。
短くなったたばこを、きゅっと彼の背中に押し付ける。
「ゔ…ぁぁぁ……」
親指でたばこをぐりぐりと押し付け、焼けた肌を紙とフィルタ越しに潰す。彼は畳に爪を立てて引っ掻いた。
がりがりと音がして、切れた畳が毛羽立つ。
「畳が悪くなるよ」
俺がそう言ったのと、殆ど同時に、少し伸びていた彼の左手の爪が、人差し指から離れてぱっくりと開いた。
「あ゛ぁぁぁぁぁ……」
じわりと浮き出した赤い血が、ぽたぽたと畳に落ちる。じきに染み込んでしまって、取れなくなるだろう。
「ごめんなさい…ごめんなさい……」
ほたほたと落ちる血をどうしたらいいのかわからないらしい。右手で傷を押し包もうとして、痛みに怯えてしまい、どうすることもできないでいる。
俺は座る位置をずらして、彼の腕を頭の後ろに回させる。
彼の指を口に含んだ途端、生臭いような鉄錆の味が一気に舌に広がった。
ぶら下がった爪と柔らかな肉の境目に舌を差し込み、ざりざりと味蕾でこそげる。彼が痛みに喘ぐ声が聞こえた。
しばらくそうして、溢れ出る血液を吸い、唾液と混ぜて飲んだ。
出血が薄くなり、味がしなくなって、漸く俺は彼の指を口から出した。
彼の腕がちから無く、畳の上に落ちて、ぱたんと音を立てた。
彼の背中に視線を戻す。
放置している間に、並んだ火傷はリンパ液を染み出させ、ゆっくりと身体を元通りにしようとしている。
彼の治癒力では、この丸い傷痕は、保って十日程度だろう。腕や腹についた痕も、数日経った頃には、白く円が並び、薄くなって跡形も無く消えていく。
俺は少しそれを寂しく思って、未だに彼の足の小指だけは、頻繁に焼き続けている。それでも、変形した爪は、きっと手をつけずに置いたら、いつの間にか元に戻り、なかったことになってしまうのだろう。
俺は、新しいたばこに火をつけながら、彼の身体になるべく長く傷を残す方法を考えていた。
指先で傷口を叩くと、彼が俺の下で身じろぎした。俺は新しい火種を、彼のうなじに押し付ける。
ふらふらとホームセンターを歩く彼のパーカーの帽子部分をつかみながら、買い物をしていた。引っ張られたせいで、彼の首筋が露出されて、だいぶん薄くなってしまった小さな火傷痕が見える。
あれから数日、過去の経験も踏まえて、俺は幾つか手段を試していた。
刃物を使って肌を切るのは、比較的癒着が早く、それに伴って治癒も早い。
体内に針等の金属片を埋め込んでも、翌日には皮膚がそれらを押し出し始めてしまう。但し、体内で新しく傷をつけ直される痛みは、悪くない。
殴打した痣は、せいぜい保って五日だ。すぐに紫色になり、翌々日には黄色くなって、消えていく準備が終わる。
致死させれば、早ければ数時間、一晩ないし一日放置すれば、彼が帰ってくるのは知っていた。そして、そうすると、細かな傷は尽く癒えてしまっていて、それこそ小指の爪程に執拗につけ続けたもの以外は、まるでなかったことになってしまう。
火傷は、存外に治癒の遅い怪我だったようだ。ならば、やるならこっぴどく火傷をさせるのが一番手っ取り早く労力も少ない。しかし、彼をショック死させないレベルで、だ。
俺は彼を半ば引きずりながら、縫い針を二ケースほど買い物かごの中に放り込んだ。またいつか、ゆっくりと使う日がくるだろう。
「おまわりさん…!わかりました…!ちゃんと横を歩きますから…!」
首を絞められた彼が、ひぃひぃ言いながら俺を呼ぶ。
「あっちこっち行かないでよ。迷子になって帰ってこられなくなったら困るでしょ」
「こまる…パトカーさん…。うっ…大丈夫、ちゃんと隣を歩きますから…!」
言葉の通り、彼は俺の横を歩き、ずらりと商品の並んだ棚を興味深そうに眺めていく。
「あっ…せんざい…!お風呂の洗剤が、あんまりなかったですよ…!」
「ん。そうか、ありがとう」
「ふふん…」
そもそも風呂掃除は、彼に割り当てた仕事だ。洗剤の残量を把握しているのは当然といえば当然なのだが、彼がくるまさん以外のことをきちんと覚えて俺に伝えてくれたことは、評価してやるべきだと思う。
風呂用洗剤をかごに入れ、他にも必要なものを買い足した。
「あ…!お肉焼くやつだ…!」
彼が俺の隣を離れて、キャンプ用品の特設場に走り寄った。離れないと言ったそばからこれだ。後を追う。
夏が近づくに連れ、外で行うバーベキューだとかキャンプ用品が売り場で勢力を増している。
以前炭火で肉を焼いてやってから、彼はその味を覚えたらしく、たびたび七輪で肉を焼いてやっている。彼の中で、炭火イコールおいしい肉となっているらしく、唇を舐めながら特設場を興味深そうに見ている。
「あっ、これかっこいい…!」
彼が手に取ったのは、火おこしに使うトーチバーナーだった。
「これを使えば…すぐにお肉が焼けますよ…!」
成る程、炭火を起こすのに使えば、随分時間を短縮できるだろう。
それに、彼を焼くのにも、きっと使える。
俺は彼が手に持ったバーナーを受け取って、箱に書かれた説明を読んだ。
連続燃焼で一時間半。
「買おうか」
俺がそう言って、バーナーの箱をかごに入れたのを見て、彼は嬉しそうに笑った。俺は、ガスの予備も一本かごに入れた。
「おいしいお肉がすぐに食べられる…!」
「赤身肉以外にも使えるみたいだよ。…あー、そう言えばブリュレかなんかに焦げ目つけてるのテレビで見たな…」
「ぶりゅ…?」
「焼きプリンみたいな。またそのうち作ってあげるよ」
彼は目を輝かせる。プリンだとかゼリーの類は、彼の好物のひとつだ。
「食品も買いに行かなきゃいけないし、会計行くよ」
「お菓子…!お菓子買ってもらわなきゃ…!はぐれません…!」
彼はそう言って、親鴨について歩く雛鳥よろしく、俺の後ろに回った。
会計を済ませ、食品売り場の棟に向かう。
カートを押させていると、割合彼はきちんとその業務をこなしてくれて、ふらふらと歩かなくなる。
但し、真っ直ぐに押すのは随分苦手のようだ。彼の斜め前を歩いていると、たびたび俺の尻にカートがぶつかってくる。
「もう少し…人身事故を防ぐ努力をしたほうがいいよ…」
「うっ…人死に…が…でてしまう…」
カートに轢かれて死んだひとがいるのかは知らないが、尻にがつんがつんとやられる回数が減るなら、そう思い込んでいてくれてもいい。
彼の好む赤身肉、彼の嫌いな野菜。ぽんぽんとカートに入れていく。
途中、彼が菓子売り場に行きたいとせがむので連れて行くと、一週間ぶんの間食物をカートに乗せられてしまった。
「おまわりさんとはんぶんこするから…!しますので…!」
「うん…。一人で食べておなか壊さないでよ…」
「大丈夫ですよ…!」
こういう時の彼は、至極自信に満ちて言い切る。そして、近いうちに我慢できずに食べ過ぎて、おなかが…と言って寝込むのだ。そろそろ学習もして欲しくある。
「鶏肉も買ったし…。ドレッシングも買い置きあったよなぁ。そろそろ帰ろうか?」
「あ…はい…。のみものほしいな…」
俺も喉の渇きを感じていた。彼の言葉を承諾して、連れ立ってドリンク売り場へと向かう。
余談だが、俺はドリンク売り場が好きだ。
ボトルに詰められた色とりどりの飲み物は、自分が好きか嫌いか問わず、なんだか見ていてわくわくする。
中身が合成着色料をたっぷり使った紫色やオレンジの、果汁なんて入っていない砂糖水でも、なんだか面白い薬品に見えるのだ。
「これ…!これにします…!」
「俺はコーラにしようかな…」
彼が選んだのは、オレンジジュースだった。濃縮還元の味の濃さでどれだけ喉の渇きが癒えるのだろうと思いながら、俺はコーラを手に持った。
「たくさん買いましたねぇ…」
「お菓子でかさばってるんだよ?」
「へへ…」
買い物袋を、パトカーの後部座席に乗せると、彼が言われる前にカートを置き場に戻しにいった。
戻ってきた彼に、オレンジジュースのボトルを渡す。
パトカーに乗り込み、こくこくと喉を鳴らしてジュースを飲む彼を横目に見ながら、俺もコーラの蓋を捻った。
ぷしっ、と、音がする。
よく冷えたコーラは、口当たりがよく、けれど喉を通過する時に粘膜で弾けてちりちりする。
喉から戻ってきた気体の小さな塊が、鼻の奥に抜けてつんとした。
「っぷ…」
「ん…あ、ぼくは…出ない…」
「炭酸じゃないからな…。出そうとして吐かないでよ」
「しませんよ…!」
エンジンをかけ、アクセルを踏む。
初夏の日光がじわりじわりと気温をあげていく。眩暈を覚えるような青空だった。
俺は、帰って間も無く、彼に背中の傷の経過を見せるように言った。
彼は素直に俺の前で上半身の服を脱ぎ、白く変わった火傷痕を見せてくれた。畳に座り、俺に背中を向けた彼の首を掴み、ぐっと引き下げる。
最初は驚いたようだが、俺がうつ伏せになるようにしたいのだと気付くと、すんなりと畳に向かって伏せた。
以前のように彼の上に座る。
パッケージから取り出したノズル部分とガスボンベを接続し、元栓を開く。
ガスの流れ出る音と共に、あの独特のにおいが広がってきた。
点火スイッチを押し込む。
ごうっという音と共に、青色の炎が吹き出した。
その音に怯えてか、彼が俺の下で身体を強張らせた。
澄んでいた新品のノズルは、煤けていく。俺は金属が熱せられて炎が安定するのを待ちながら、彼の頭を撫でた。
「う…うぅ…」
「暴れると危ないよ。やらないでね」
彼は泣きそうな声で頷いて、ぎゅっと自分の頭を抱いた。
炎を小さくして、まだ火傷しない程度に、彼の裸の上半身を青い先端で撫でた。産毛が焼け、黒く焦げて丸まって落ちる。
けれどまだ耐えられない熱を受けてはいないようで、彼の背中は大きく跳ねることはなかった。
髪を焦がしたりしないように、上の方は手をつけないことにする。彼の肩甲骨を左手でさすり、反射で身体が跳ねないよう、床に押し付けた。
「ひ…い゛ぃぃっ…!!」
彼の肌を、尖った炎がゆっくりと焦がしていく。一箇所に当て続ければ、炎の届く限りを一切焼いて、黒く炭化した穴をあけるだろう。
彼は喉を引き絞ったような悲鳴を漏らし、自分の頭に爪を立てている。
畳を傷ませたことを、きちんと覚えているのかもしれない。いい子だと思う。
背骨に沿って真っ直ぐに、まだ白く残った根性焼きの痕を、ひとつずつ丁寧に焼き直していく。炎の当たる肌が黒くへこみ、弾けて内側から真っ赤な肉が覗く。
バーナーの火を離すたび、彼の身体は、はぁっと息を吐いて脱力する。
ボンベが空になるまで、彼の体力は持つだろうか。
見ると、彼はぼろぼろと泣いていて、涙と鼻水を手のひらでこすっている。
また頭を撫でて、俺は続きに取り掛かった。
黒く丸い点を繋げ、彼の背骨に沿った真っ黒い線を引いていく。
「い゛ぃぃぃぁ゛ぁ゛ぁ゛…」
ぢりぢりと焦げる熱さに、彼が声を上げて泣き始めた。己の頭にがりがりと爪を立てるものだから、裂けた頭皮から出血して、髪の毛の色を変えている。
指先を濡らして、彼はただ、灼熱の痛みに耐えていた。
いつだったか、彼は自分が随分と痛みに鈍感だと言っていた。確かに、彼は痛みに強い。大抵の激痛に対して、意識を失う事なく、悲鳴を上げている。けれど、刹那的でなく、今のような、継続的な熱さを伴う痛みともなると、彼のその頑強さは、かえって苦痛を増すのかもしれない。
「いい子だ。暴れないでいてくれる」
「うぁ……が、がんばります、から…」
俺がそう言って、彼の頭を撫でると、堪えた声の中に、喜びを混ぜながらそう答えた。
俺は少し嬉しくなって、彼の血で濡れた髪を指先で掻き回す。乱れた髪が指に張り付き、血で線を描いた。
割れいでた骨の形を視認しながら、目眩ひとつ起こさずに直視できることに、驚きを覚えた。彼と出会う前なら、それこそ初めの肉が焦げる悪臭に耐えることもできなかっただろう。
そういう意味での残酷さは、怪異の子たる彼を差し置いて、俺は深みに嵌ってしまっているのかもしれない。
自分がこんなにも、猟奇的な趣味を楽しめる男だとは思っていなかった。
じくじくとリンパ液だか血液だかわからないものを滲ませる傷口を指で触ると、炭になった彼の肌が指先を汚した。
黒く汚れた自分の指を舐めると、鉄錆と苦いにおいが鼻の奥に広がった。
室内はきっとガスといきものの焼けるにおいでひどい悪臭になっているだろう。俺はそれを吸い込んで、酔ったように彼の背骨を焼く。
傷は広がり、先日は並んでつけた二列の点が、太い線へと変わっていた。
へこみとして認識していたものが、周りとの落差を減らし、赤黒く横たわっている。その境目を更に減らすように、盛り上がった肉を溶かしていく。
「ぎぃ…ぐぅぅぅ…あ゛…お゛まわりざっ…う…すきぃ…」
痛みと熱さに苛まれ、彼がうわ言のように俺のことを呼んだ。愛しさが腹の奥にこみ上げ、俺は彼の望むだろう言葉を口にした。
「ああ、俺もだ」
ひひっ、と、引きつったように彼は笑う。まだ背中を炎に炙られているというのに、彼は俺の言葉に喜んでいる。
鎖のように並んだ椎弓を炭化させながら、もしかしたら、このまま骨を焼き続けたら、脊髄を焼き潰して、彼が動けなくなってしまうのではないかと心配になった。
俺はバーナーの火を消し、畳の上に立てて置いた。
熱く焼けた金属は煤けて、使い込んだ体をしている。
「もう火は消したから。でも暴れないでね」
俺はそう言って、彼の背中に跨り直し胸板を彼の尻にくっつけた。
彼がびくりとして、こちらを覗き見る。俺は構わず、彼の傷口に舌を下ろした。
でこぼこに並ぶ椎弓を舌で舐め、吸いつく。
ひどい味が口の中に充満して、鼻を抜けて吐き気を覚える。
彼は呻いて、傷口を触られる痛みに耐えていた。悍ましい傷口を丹念に味わう。脊髄に近い骨を触られると、どんな感覚を受けるのだろうか。
刺すような苦味と、形容しがたい体液の味を飲み下し、時折えずきながら、彼の背中を、頭に向かって上がっていく。背骨を階段にしているような気分だった。
「おま、わりさん…」
「うん」
ぬらりと、焼かれていないうなじを舌と唇で愛撫する。血の匂いを孕んだ彼の頭に顔を埋めながら、何度も手の甲で彼の頬を触った。
涙と鼻水でべたべたになった彼の頬は冷えていた。彼の傍らに置いた左手を、彼が血まみれの指先で握る。
握り返してやると、彼は嬉しそうな笑いを零した。愚直な彼は、俺が満足したのを知って、一切を咎めずに畳に頬を押し付けた。
俺は立ち上がり、窓を開ける。
ぬるまゆい初夏の風が、ゆっくりと部屋の中の悪臭を攫っていく。
俺はたばこに火をつけて、幼い寝顔を見ながら、彼の背中の傷が、なるべく長く残るように、そんな倫理観の欠けたことを祈った。
了
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