第22話 内臓毛布
しゃわしゃわしゃわしゃわ。
蝉の声が近づいたり遠くなったりする。陽炎がゆらゆらと立ち昇って、もっと遠近感がおかしくなる。道路の向こう側まで、ふわふわゆらゆらして、目に映る世界そのものが、とろけていくようだ。
アスファルトがかんかんに熱くなって、ぼくの足の下で笑っている。
手のひらをくっつけると、じんと熱が伝わって、やけどしそうな気持ち良さが広がっていく。パトカーさんも、大きな入道雲をフロントガラスに映して楽しそうにしている。
ぼくはあまり夏は得意ではないけれど、そんなパトカーさんを見ていると、こころがふわふわとしあわせになっていく。
おまわりさんは、制服の袖を折り曲げて、半袖にしている。手先だけは手袋をしているから、きっとあれは変な日焼けになるはずだ。ぼくは、いつものジャージに、Tシャツを着ている。素敵な車さんがプリントされたそれは、ぼくのお気に入りの一枚だった。腕が焼けてしまっても、おまわりさんみたいに変な日焼けにはならないだろう。
「暑いなぁ…」
おまわりさんは、そう言うけれど、もう警邏にいく時間なのはわかっていて、パトカーさんに向かってだるそうに歩いていく。制帽が暑そうだけど、あれを被っているおまわりさんは、すごくおまわりさんで、ぼくは大好きだ。
防刃ベストも、いつも着ている。あれもとても暑そうだ。でも、警邏の時には着ていかなければいけないらしい。おまわりさんは警邏に限らず、いつも着ているけれど、脱ぎ着が面倒くさいのかおしれない。
暑くてもきちんと着てしまうあたり、おまわりさんは真面目なのかもしれない。
「警邏にいくんでしょう…?連れてってください…!」
ぼくがそう言うと、おまわりさんはいいよ、と言った。
最近はおまわりさんがよく警邏に連れて行ってくれて、ぼくとしては本当に嬉しくてしあわせなことだ。
おまわりさんをほめてあげたい。
助手席のドアをあけると、むわっと暑い空気が溢れてきた。黒い革のシートが日光を集めてしまったのだ。これなら、パトカーさんの中で蒸し焼きを作ってごはんを食べられるかもしれない。
ぼくはごくんと喉を鳴らした。
「あっつ…エアコン…、ガソリン食うんだよなぁ…」
パトカーさんの窓を全開にして、おまわりさんはつぶやいた。水のボトルを一本、ドリンクホルダーに突っ込んで、暑そうにため息を吐いた。
早くエアコンをつけないと、ぼくだって茹だってしまう。お尻の下のシートが、ジャージ越しにじりじりと熱攻撃してくる。
これがパトカーさんの体温かもしれないと思ったら、途端にしあわせになって、ぼくはエアコンを強くするようにおまわりさんに言うのをやめた。
おまわりさんが制帽を脱いで、額の汗を手袋で拭う。前髪をかき上げて、またかぶり直した。
パトカーさんが、冷たい風をぼくの顔に吹き付けた。おでこに浮いていた汗が、氷みたく冷たくなって気持ちがいい。
窓が閉まって、おまわりさんがパトカーさんを動かす。ぼくは足元のマットを、とんとんとビーチサンダルの踵で叩いて、パトカーさんに合図を送る。
エンジンの回転数が一瞬上がって、返事をしてくれた。
おまわりさんが、少し怪訝な顔をしたけれど、察しの悪いひとだからしかたない。あのひとはいつも、ちょっと鈍いのだ。
滑り出すようにパトカーさんが動く。
閉じられた車内は、少しずつ冷えていくけれど、外からの熱攻撃に勝てるかはまた別の問題だ。
おまわりさんがハンドルを片手で回して、運転をする。運転をするおまわりさんの横顔はかっこよくてぼくは大好きだ。車間距離を取るのに、逐一ブレーキを踏まずに、ギアをセカンドに入れる左手の動きだとか。すごくすき。
冷たいエアコンの風を手のひらで受けていたり、その手をすっと動かして、ウインカーを指先で触ったり。
行き交う車さんを見るのも楽しいけれど、おまわりさんの動きを観察するのも、すごく楽しい。
「流石にひとがいないな」
四時を少し過ぎた時間は、まだ日が高くて畑や田んぼに出るひとは、まずいない。
まばらに行き交う車さんたちは、みんな窓を閉めていて、中にたまる冷気を逃さないようにしている。パトカーさんの姿を見ると、ほんの少し速度を落としていくから、パトカーさんの強さを感じる。
やっぱりパトカーさんは最高だ。
二十分ほど商店街や駅前を回って、おまわりさんは山の方へパトカーさんを走らせた。
いわゆる走り屋、というひとたちが来るらしくて、それを警戒するために、山の中を走る警邏コースだ。緑色のブロッコリーみたいな山に近づいてその中を走り抜ける頃、ぼくはおまわりさんの異変に気付いた。
「あー…」
おまわりさんが、何度も額の汗を拭っている。顔が火照って赤くなっている。
「おまわりさん…?」
「ん…うん」
おまわりさんは、少しぼんやりとした声で、パトカーさんのエアコンを強くした。ごうっと音がして、冷たい風がぼくの前髪を吹き飛ばす。
「ちょっと…とめる…」
葉っぱが屋根を作っている日陰を選んで、おまわりさんはパトカーさんを駐車した。
「どうしたんですか…?」
「暑くて…」
エンジンをつけっぱなしで、おまわりさんはシートを倒した。
殆ど真上にあった太陽が斜めになっていたから、強い西日がおまわりさんを炙っていたのだろう。おなかの中に熱いものがたまってしまったのかもしれない。
おまわりさんは、ドリンクホルダーに突っ込んであったお水をごくごく飲んで、目を閉じていた。
「……」
ごうごう言うパトカーさんのエアコンの音の他には、なんにも聞こえない。ぼくは少し不安になる。パトカーさんは、じっとしてアイドリングを続けている。
おまわりさんの手を握ると、手袋越しでも熱くてびっくりした。
「ちょっと…おとなしくしてて…」
おまわりさんがそう言うので、ぼくは緑色の外の風景を眺めることにした。じきに車内はきんきんに冷えていく。
おまわりさんが身震いした。鳥肌が立っている。ぼくはエアコンを弱くした。ぼくも少し寒かった。
三十分くらい、おまわりさんは目を閉じていただろうか。ふっと目を開けて起き上がると、またお水を飲んだ。
「ちょっとたばこ吸ってくる…」
ふらふらしながら、パトカーさんを降りていく。ぼくも、おまわりさんを追いかけた。
パトカーさんのボンネットにもたれかかりながら、おまわりさんがたばこを取り出して、口に咥える。
ジッポライターを開いて、火打石を擦る。ところまでいかなかった。
おまわりさんの口から、ぽろっとたばこが落ちて、おまわりさんの身体がパトカーさんのボンネットの上に倒れる。
ジッポライターがボンネットに当たって、音を立てた。
「おまわりさん…!」
ぼくは、おまわりさんに近づいた。
顔の方まで届かない。背の高いおまわりさんの腰から上は、すっかりパトカーさんに乗ってしまっている。
おまわりさんは、うごかない。
「どうしよう…パトカーさん…おまわりさんが…おまわりさんが…」
パトカーさんは、アイドリングしたまま、どうしたらいいのか困っている様子だった。ぼくはおろおろすることしかできずにいた。十分くらいしても、おまわりさんは気を失ってしまったのか、動いてくれない。
お水かガソリンを飲ませたら動くようになるかもしれないと思ったけど、やっぱり届かない。
パトカーさんのトランクの中に、なにか入っているかもしれない。そう思って、ぼくは急いでパトカーさんのトランクを開けた。
毛布、三角表示板、旗やパイロン、さすまたに発煙筒、防弾ベスト。どれも踏み台にはなりそうにもない。
ようやく見つけた工具箱は、プラスチック製で、ぼくが乗ったら割れてしまう。
「う…うぅ…。おまわりさん…おまわりさん…」
半透明のプラスチック越しに、工具箱の中身が見えた。掛け金を外して中身を改めると、レンチやスパナ、ドライバーに混じって、大ぶりのカッターナイフが入っていた。
「なおるかもしれない…」
ぼくは、カッターナイフを持って、トランクを閉める。
長く時間がかかって、ガス欠になってしまうといけないので、パトカーさんのエンジンを切った。
おまわりさんの防刃ベストのジッパーをつかもうと、思い切り背伸びする。パトカーさんのボンネットに片手をついて、腕を伸ばす。
指先がジッパーにひっかかった。じぃっと音を立てて、ジッパーが降りる。
ぼくはボタンがこわい。開いたベストの下で並ぶボタンを思って、背筋が寒くなった。見たくないし触りたくない。どっかに行ってほしい。
でも、おまわりさんをなおしてあげるには、どうにかしないといけない。
目を伏せて、シャツのボタンを見ないようにしながら、思い切り左右に引っ張った。ちぎれたボタンが飛んで、草の中に逃げていった。
息をするたびに動くおまわりさんのおなかが弱々しい。その上、まだ熱い。
ぼくは、おまわりさんのおなかに、できる限りの体重を乗せて、カッターナイフを突き立てた。
おまわりさんの身体が、びくんと跳ねたけれど、ぼくに対して声を出したりしてくれなかった。ぼくは切ないような気持ちになった。早くしないと、おまわりさんがどんどん苦しんで弱ってしまう。
突き立てたカッターナイフを、思いきり手前に引く。かたい。
生きている肉は、すごく固くて、その上、どぷどぷと吹いてくるおまわりさんの血で、手が滑りそうになる。Tシャツの裾で手とカッターナイフの持ち手を拭って、また挑戦する。
みぢみぢみぢみぢっ…!
鳩尾からおへその下まで、縦に線が入った。ぼくの顔に、おまわりさんの血が吹きかかる。唇を舐めると、すごくおいしくて、ぼくはおまわりさんを助けたいのに、おなかはそれに関係なくぐうぐう鳴っている。
どろどろと溢れてきたおまわりさんの内臓は、きれいな色をしていて、これも血まみれだった。
「おまわりさん…起きて…起きて…」
ぼくは、ねこがするように、おまわりさんの内臓をぺろぺろと舐めた。血の味がおいしくて、夢中になりそうだ。
おまわりさんの内臓に誘われて、虫がこないかと不安になったのだけど、パトカーさんが小さくハザードを光らせてくれた。
きっと、こないようにするから、任せておけと、ぼくにいったのだ。
「ああ…あ…パトカーさん、ごめん、ごめんね…」
ぼくはそう言ってから、パトカーさんのボンネットに足をかけた。もちろん、ビーチサンダルは脱いでからだ。
白いボンネットに手を突くと、ぼくの手形が赤く残った。
顔を寄せて、あったかいおまわりさんの内臓を舐める。おまわりさんの身体に入っていた長い腸がほとんど出てしまっていて、けれどそれは全部、広いパトカーさんのボンネットが受け止めていてくれる。
弾力のある筋肉のようなものから、やわやわとした脆そうなもの。
順繰りに舌で触って、早く傷が癒えないかと思う。おまわりさんは、もう息をしていないから、きっと次に目が覚めた時は、もう苦しくなくて、いつものおまわりさんにもどっているはずだ。
「おまわりさん…おまわりさん…寂しくないですよ…。ちゃんとぼくが…ここにいますからね…」
血がなくなって、真っ白になったおまわりさんの顔を舐めて、ぼくはおまわりさんの内臓の上に横たわる。
高い湿度と気温のおかげか、日が殆ど暮れてしまっていても、ほんのりとあたたかいまま、おまわりさんはぼくを包み込んでくれた。
おまわりさんの内臓を舐めながら、しだいにぼくは眠たくなっていく。
おなかも満たされて、ここは湿っていてとてもあたたかい。おまわりさんとパトカーさんが、ぼくをくるんでくれる。毛布みたいに。
夕暮れも過ぎて、あとは夜になるだけだ。虫の声がよく聞こえる。
涼やかな声がぼくの耳にとどくのだ。
ぬるい風がぼくの頬を撫でる。おまわりさん。おまわりさんはおいしくてあったかい。ぼくは、おまわりさんの内臓毛布にくるまって、うとうとと微睡んでいた。
とてもしあわせなゆめをみる。
俺がパトカーのボンネットで目を覚ました時は、実にひどい気分だった。だいたい彼が俺の腹の上に身体を丸めて眠っているし、寝ることを想定されていないだろうかたいボンネット、しかも足だけはだらんと下に垂らしたままだ。
夕方、熱中症に苛まれて意識を失って、そのまますっかり朝になってしまったのだろうか。
俺はまず、上に乗った彼をずらしてボンネットの上に乗せた。彼はまだ眠っている。
ボンネットはへこんだりもしていなくて、俺はほっとした。へこみの修理は、存外に高くつくし、経費で落とすのに、ボンネットがへこんだなんて、どんな理由を書けばいいのかと頭を悩ませることになっただろう。
不思議と、蚊に食われたりもしていなかった。防刃ベストの前があいて、シャツのボタンがちぎられている。
もしかしたら俺が少しでも楽になるように、彼が頑張ってくれたのかもしれない。ボタンが苦手なくせに。それを見せないように、俺がいつもベストを着たままなのを知ってか知らずか。彼は彼なりに、俺の為に、恐ろしいものと戦ってくれたのだ。
そう思うと、すぐに起こすのは偲びなく思って、なるべくパトカーを揺らさないように地面に降りた。革靴の底が、かたいものを踏む。拾い上げて見ると、刃を長く出したカッターナイフで、先端も持ち手も、血がこびりついている。その横には、彼のビーチサンダルが揃えて置いてあった。草葉の中に、俺のジッポライターも転がっていた。
改めてボンネットを見ると、ひとつだけ、恐らく彼のものだろう小さめの手形が、赤茶色でつけられていた。
「まさかな…」
開きっぱなしのシャツを見ると、俺の鳩尾からへそにかけて縦断する傷跡が見えた。それはすっかり古傷よろしく白く癒着している。
なんとなく、俺が意識を失った後のことを察した。やはり、彼は彼なりに俺を助けようと奮闘したのだろう。方法が、とんでもなく荒っぽくて暴力的だった、というだけで。
「まったく…」
俺はボトルの水でシャツの袖を濡らして、ボンネットの手形を拭き取った。袖をまた折ってしまえば、血痕は隠れるだろう。血まみれのカッターナイフは、拾い上げて刃をしまうと、ポケットに入れた。
腕時計を見ると、早朝だった。あと一時間もしたら、街が起き出してひとが動く。
俺は彼をボンネットから抱き上げる。
目を覚ます気配もなく、彼はよく眠っている。
後部座席に寝かせ、なにかで固まった髪の毛を解してやる。きっとこれも、俺の血だとかそういうものなんだろう。ざりざりした赤黒い粉末が指についた。口元についていた血痕を指ですると、彼の唇が開いて、俺の指を舐めた。
てちてちと控えめに舐めるそれは、ねこがこねこを慈しむ時のような動きだった。
「お疲れさん」
俺はそう言って、運転席に乗り込んだ。
人通りが増える前に、交番に戻ってしまいたい。ガス欠を心配したが、杞憂に終わった。きっとパトカーのエンジンを切ってくれたのも彼だろう。
フロントガラスに、びっしりと朝露の珠が乗っている。俺と彼は、ちっとも濡れていない。
ワイパーを動かすと、並んでいた露珠が、ほろほろと崩れて流れていった。
サイドブレーキを下ろしながら、パトカーへのお礼のつもりで、二回、ハンドルを指で叩いた。
了
初出20160318
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