遠すぎる人(1)
世間がゴールデンウィークに突入した日以来、直轄チームでは連休どころか土日すらなくなった。班長の松永と内局部員の宮崎は頻繁に事務所に泊まり込み、他の幹部たちも連日終電まで業務に追われた。
本来の仕事に加えて武内3等空佐の補佐業務も担うことになった美紗は、週末にいつもの店に行くこともできなくなった。
慌ただしい日々を送りながら、美紗は永田町にいる日垣貴仁のことを想った。
あの夜から、彼からのメッセージはほとんど来ない。たまに送られてきても、着信時間はたいてい午前三時を回っていた。
帰宅がそんなに遅いのか、それとも、職場から徒歩十五分ほどの距離にあるという専用官舎にすら帰れずに、職場で夜を明かしているのか……。そう思うと、自分から一方的にメッセージを入れるのもはばかられた。
このまま疎遠になっていくのだろうか、という思いが、胸をよぎる。さよならもない別れは嫌だと思っていたが、結ばれないことが初めから決まっていた恋には、自然消滅という終わり方が一番理想的なのかもしれない。
少なくとも、あの人にとっては――。
*******
「美紗ちゃん、大丈夫?」
地域担当各部の分析セクションが入るフロアの廊下で、書類ホルダーを抱えたままぼんやりと立ち尽くしていた美紗は、ひよこ色の何かに声をかけられ、はっと我に返った。
目の前に、淡黄色のスーツを着た大須賀恵の豊満な胸があった。
「めっちゃお疲れじゃない? 小坂ちゃんが言ってたよお。美紗ちゃん、ここ一か月くらい土日いつも来てるみたいだって」
「午後から少し出てるだけです。週明けにバタバタしたくないので」
「美紗ちゃんは幹部でも専門官でもないんだから、そこまでやることないんだよお。いよいよの時は勤務命令が出るんだから。自発的に休みの日に来たって、手当も代休もつかないよ。自分で自分の職場をブラックにしてどーする」
大須賀は、ふざけ半分にローズピンクの唇を尖らすと、人差し指を立てて左右に振るジェスチャーをした。
美紗がつられて微かに笑顔を浮かべた時、エレベーターホールのほうから四、五人の話し声が聞こえてきた。
その中に、耳障りな女の声が混じっている。美紗は反射的に壁際に寄った。
「ああ、鈴置さん。いい所に」
談笑する一団と別れて大股で歩み寄ってきたのは、やや頭髪の心もとない年配の2等空佐だった。N国を担当所掌に含む第2部の先任を務めている彼は、気難しそうな顔を一層歪め、美紗の前に仁王立ちになった。
「一昨日の官邸報告で使った資料、
「その件は武内3佐が受けています。複数国の電波情報を含むので、そのまま開示できるかどうか確認する必要があると……」
「確認?」
第2部の先任は非難がましく眉根を寄せた。
彼の背後で数人の幹部たちとN国絡みの話をしていた地味なワンピース姿が、美紗のほうにちらちらと目線を向けてくる。
「そんなの、ただ関連の各担当部に問い合わせてまとめりゃいいだけの話だろ? 空幕が報告資料の件をそっちに頼んだの、官邸報告があった当日の夜だって聞いたけど、違う?」
「……確か、そうです」
「
「え、そうなんですか……?」
美紗は困惑の表情で相手を見上げた。険のある目が苛立ちを露わにした。
「空幕情報課の担当者がたまたま同期で、そいつが今日の昼前に俺のほうに問い合わせてきたんだよ。向こうは『二日経っても情報局からはナシのつぶてだ』って文句言ってたけど、こっちは初耳だよ。全く、武内の奴に、仕事止めるなって言っといてくれ」
「すみません」
「取りあえず、関係しそうな部にはもう俺のほうから話入れといたから、今日中にそっちに回答あるはずだ。ちなみに、
一人でまくし立てるように喋った2等空佐は、たまった疲れを吐き出すように大仰な溜息をつくと、しかめっ面のまま歩き去っていった。
彼が事務所の中に消えるのを見届けた大須賀は、アイメイクのばっちり入った目をキッと細め、不快そうに鼻から息を吐いた。
「何あの言い方。別に美紗ちゃんが悪いわけじゃないでしょー。超ムカつくわ、あんの薄らハゲっ」
「薄らハゲとは、大須賀女史もきっついねー」
低い忍び笑いと共に、背後からやせ型の背広が顔を突き出して来た。大須賀はたわわな胸を豪快に揺らして飛び上がった。
「うお部長! いきなり現れないでくださいよおっ」
「さっきからそこにいたんだけど」
大須賀の上司は、脇で立ち話をしている二人の佐官とワンピース姿の女性職員のほうを指さし、そして、己の広すぎる額をパチリと叩いた。
「僕ももうすぐ『薄らハゲ』って呼ばれちゃうのかなー」
「いえいえいえっ、部長はあと二十年は大丈夫ですからあ」
「気休めにもなんないお気遣い、ありがとうねー」
所属部長と掛け合い漫才を演じる大須賀は、前年の秋に統合情報局を去った吉谷綾子の姿を彷彿とさせた。軽々しいやり取りの中に、上司との深い信頼関係が垣間見える。
美紗が羨望にも似た眼差しで二人を見つめていると、視線に気付いたのか、陽気な性格らしい第8部長は、照明の下でテカる額を美紗のほうに向けた。
「2部の先任、普段はああいう人じゃないんだけどねー。気にしないでやってくれる?」
「はい」
「彼、N国事案でこの一か月間ろくろく家に帰れてないみたいだし、何ちゅーか、殺気立ってる感じ? ストレス溜めると毛に良くないのにねー」
リアクションに困るセリフを口にした第8部長は、「そんじゃお疲れ様ねー」と間延びした挨拶をして去っていった。
大須賀が美紗に小さく手を振り、上司の後に続く。国際情勢を語り合っていた制服たちも、それに合わせたかのように散っていった。
静かになった廊下に、美紗と八嶋香織だけが残った。
「調整作業もいろいろ大変なのね」
八嶋は、各地域担当部宛ての秘文書類が入ったホルダーと美紗の顔とを交互に見やり、横柄な笑みを浮かべた。
「直轄チームっていろんな人とつながる機会があっていいなと思ってたけど、それって、嫌な人と出会う可能性も増えるってことだもんね」
「そんなことは……」
「そういえば、直轄チームの5部担当って、鈴置さんなんだって?」
「はい」
「専門官の基礎教育が終わったら、私も何か担当もらって分析レポート書いたりするようになるらしいんだけど、そういうのを部外に提供する時は鈴置さんが私の調整窓口になるのかな」
「たぶん……」
「ふうん。その時はよろしくね」
美紗は唇を引き結び、辛うじて頷き返した。
第5部の専門官となるチャンスを自ら断ったことに後悔はないが、そのポストに八嶋香織が入りこんだことは少なからずショックだった。いずれ八嶋と仕事面で関わることになるのは承知していたが、それでも、いいようのない嫌悪感が胸の内に沸き起こる。
一方の八嶋は、さらに何か言おうと口を開きかけ、ふいに美紗の背後へ視線を移した。
美紗がつられて振り返ると、第5部に属する男性職員数人が事務所から出てくるのが見えた。年末の納会で海外駐在時の体験談や専門官業務のあれこれを美紗に聞かせてくれたベテランの専門官たちだった。
彼らの一人が美紗をちらりと見やり、「八嶋君」と手招きする。
八嶋は、美紗の存在など瞬時で忘れたかのように、早足で彼らのところへと歩いて行った。ワンピースの裾を揺らしながら固い靴音を立てる彼女は、妙に活き活きして見えた。
『日垣1佐も、相当顔が広いでしょ? ……そういう人の近くにいると、お得な話もたくさん来るんだろうな、と思って』
より旨味のある仕事と人脈を貪欲に追い求める女と、キャリアアップの機会を捨て少しでも家族持ちの男の近くにいることを願う女。
醜いのは、どちらのほうなのだろう――。
美紗が直轄チームに戻ると、窓際にある班長席のところで、陸海空の三色の制服と灰色の背広が顔を突き合わせて何か話し合っていた。皆の険しい表情から、懸案ごとが発生したのであろうことは容易に想像がつく。
美紗は自席に座り、彼らの議論が一段落つくのを待ちながら思案した。
第2部先任からの「苦情」を、目上の3等空佐に伝えなければならない。どうすれば角を立てずに話を入れられるか……。
美紗が武内の様子をうかがい見た時、机の上の内線電話が鳴った。
「統合情報局第1部直轄チーム、鈴置事務官です」
「ああ、鈴置さん。久しぶりだね」
耳に心地よい低い声。美紗は息をのみ、受話器を強く耳に押し当てた。
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