巣立ちゆく者
美紗が胸元に秘める喜びに、直轄チームの面々は誰も気付かなかった。美紗の誕生日から幾日も経たないうちに、大ニュースが飛び込んで来たからだ。
相変わらず午前中から騒がしい「直轄ジマ」のところへ歩いてくる第1部長の意図にいち早く気付いたのは、班長の松永だった。人事の噂話を仕入れてきたらしい小坂3等海佐とひそひそ話に興じている1等空尉に手ぶりで合図したが、間に合わなかった。
「片桐1尉」
背後から突然声をかけられた片桐は、「ふぁぃっ?」と変な声で返答し、相手が日垣だと気付くと、慌てて席を立った。
「合格だ。おめでとう」
「は?」
面長の顔を傾げる片桐の代わりに、小坂がずんぐりした身体を弾ませるようにして立ち上がった。
「こいつ、
「ああ。つい先ほど、連絡が来た」
日垣の答えに、小坂は第1部の部屋中に響くような歓喜の声を上げた。他の課の面々が、驚いた顔で一斉に「直轄ジマ」に注目する。やがて、状況を察した者たちから拍手が湧き起こった。
しかし、当の片桐は無言で立ち尽くしたままだった。その彼の肩を、日垣が叩いた。
「CS受験にはまるで適さない勤務状況の中で、よく頑張った。人より苦労した分、片桐はこれから必ず伸びる。自信を持って入校しろ」
「……ありがとうございます」
男泣きする人間の姿を、美紗は初めて見た。一年前は愚痴ばかりこぼしていた片桐も、やはり、影では孤独に研鑽していたのだろう。苛立ちと不安を抱えながら地道に努力を重ねた者が報われる瞬間を目の当たりにすると、見ている側も胸が熱くなる。
「ほら、泣くなよっ」
威勢のいい声に振り向くと、小坂がパソコンのモニターの裏に常備してあるトイレットペーパーを手にしていた。美紗のほうに飛んでくるかと思われたそれは、片桐の机の上に放り投げられた。
「これで拭けってのか」
片桐の代わりに、彼の隣に座る高峰3等陸佐が、眉を寄せてトイレットペーパーを掴んだ。
「海自の奴は、本当にデリカシーがないな」
「前にも言ったような気がしますが、あいつは海自始まって以来の変わり者です。一緒くたにせんでください」
小坂と同じ色の制服を着る先任の佐伯が嫌そうな顔をしたが、当の小坂は全く意に介せず、ガキ大将のような顔で声を張り上げた。
「今日は部をあげて祝い酒だ! 松永2佐のおごりで!」
「何だそれはっ」
松永がすかさず荒々しい声を上げると、周囲から大きな笑い声が起こった。
「あれっ、松永2佐。『CS受かったら好きなだけ飲める』って話になってるって聞きましたけど?」
「それは片桐だけだ!」
小坂を怒鳴りつけたイガグリ頭は、当の片桐のほうに視線を移すと、途端に破顔一笑した。「直轄ジマ」の面々が、次々と祝いの言葉を送る。片桐は、一人一人に頭を下げて、それに応えた。
ようやく顔をほころばせた1等空尉を、日垣はその傍らで、にこやかに眺めていた。
美紗は、二人の航空自衛官を見つめながら、胸の中で温かな喜びと奇妙な寂しさが交じり合うのを感じた。
新たなステージへ飛び立つことになった片桐の姿は、学費の工面に苦労しながら大学を卒業した三年半ほど前の自分自身を思い出させた。
あの時、実社会に旅立つ娘を見送る父親はいなかった。母親は、門出を祝う言葉の代わりに、出どころの知れない金と己のパートナーをののしる醜い言葉を寄こしてきた。自分がずっと欲しかったのは、巣立ちゆく子供を見守る父親のような眼差しだったのだと、今更ながら気付いた。
美紗が望むものを、日垣貴仁は出会ったその日から惜しみなくくれた。しかし、彼の父性的な優しさは、己の配下にある若者すべてに向けられているものだ。当の自分も、そうと分かっていて上官の厚意をありがたく受けていたはずだった。
それがいつから、彼に父性とは違う何かを求めるようになっていたのだろう……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます