時の境界線(2)

(本話と次話は間接的表現ながら性描写が入るR15相当バージョンです。当該箇所は次話のみですが、ストーリーの都合上、本話も全年齢版とR15版に分かれます。R15版がお好みでない方は、「全年齢版」→https://kakuyomu.jp/shared_drafts/nNnnHG0l5tFy0vlVDbJwBzfdrZWziGwB

にお移り下さい)

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 ひと月ぶりに顔を見せた長身の客を、マスターは申し訳なさそうに出迎えた。


「あいにく、ただいま『いつものお席』がふさがっておりまして……」

「取りあえずカウンターでいいよ」


 日垣は、付き合いの長いバーテンダーに「いつものを」と言うと、カウンター席に座る美紗の傍に歩み寄った。


「かえって迷惑じゃなかったかな。こんな時間になってしまって」


 久しぶりに聞く、耳に心地よい低い声。美紗は、頬がわずかに紅潮するのを感じながら、頭を横に振った。話したいことがたくさんあるのに、言葉が出てこない。


「今日は、珍しい色のお酒を飲んでいるんだね」


 美紗の前に置いてある背の高いコリンズグラスは、ピンクとオレンジが交じり合ったような淡い色をしていた。わずかに見える小さな泡が、グラスの中で震えるように光っている。


「マスターが、『今日は甘いもののほうが』って、これを……」

「何ていうカクテル?」


「即興で作ったオリジナルなんですよ」


 かすかに照れくさげな表情を浮かべたマスターは、年の離れた二人連れに愛おしそうな眼差しを向けた。


「深く澄んだ青も美しいですが、こういう温かみのある色合いも、鈴置さんにはお似合いかと思いまして」

「何だか、幸せそうな色だね。でも、見かけによらず強いのかな」

「ソーダで割っておりますので、ビール並みというところでしょうか」

「ビール?」


 日垣はクスリと笑うと、美紗を覗き込むように見た。


「いつもマティーニの君が『ビール並み』を勧められるとは、ちょっと心配だね。少しお疲れ気味?」

「いえ、あの……」


 すでにそのマティーニを飲んだ後だとは、何となく言いづらい。美紗は、ちらりとマスターのほうをうかがい見ると、縮こまるように下を向いた。

 ベテランのバーテンダーは、ひとり面白そうに目を細めると、「お待たせいたしました」とだけ言って、美しいカットが施された水割りのグラスを日垣の前に置いた。


 日垣は、美紗に向かってわずかにグラスを掲げる仕草をすると、琥珀色の液体をゆっくりと飲んだ。柔らかな灯りの下で、腕が触れそうなほど近くにある大柄な身体が静かに息をついた。


「日垣さん、お食事は……」

「仕事の合間に済ませてきた。君は?」

「私も事務所で」

「そうか。週末なのに、そっちも相変わらず忙しいな」


 美紗は「はい」と小さく応え、日垣から目をそらした。実のところ、主だった仕事は七時前には終えてしまい、その後は自席で軽食をとりながら全く緊急性のない雑用を片付けていただけだった。

 夜遅くまで待ってからこの隠れ家に来れば彼に会えるかもしれないと思ったから……。



「西野は問題児になってないか? あいつはいるだけでうるさいから、直轄チームの面々には早々に嫌がられているんじゃないかと気になるよ」

「最近はみんな慣れたみたいです。西野1佐もよく『シマ』にいらっしゃるんですけど、いつも小坂3佐と冗談を言い合ったりして、にぎやかにやってます」

「ああ、小坂はいかにも西野と気が合いそうだな。彼は防大ぼうだい(防衛大学校)時代のあいつとそっくりだから」


 日垣は、陽気でやや落ち着きに欠ける3等海佐の姿を思い出したのか、グラスを手にしたまま声を立てて笑った。


「武内はどうしてる?」

「今は通常通りの勤務に戻っています。お家のほうもだいたい落ち着いたらしくて」

「それは良かった」


 直轄チームに転入直後こそろくに出勤できない状態だった武内は、四月半ばに入る頃には仕事を休むこともほとんどなくなり、立場にふさわしい担当を与えられ、一人黙々と自身の業務に専念するようになった。

 美紗がそんな話をすると、日垣は「彼らしいね」と苦笑いを浮かべた。


「武内はあまり話し上手なほうじゃないが、謙虚で優しい人間だ。コツコツやるタイプだから、本当は地域担当部か技術情報専門の9部に配置されたほうが本人には合っていたんだろうが……」

「武内3佐は、1部の、特に直轄チームを希望されていたそうです。日垣さんの下で勤務したかった、って言ってられました。すれ違いになってしまって、一週間だけご一緒できるはずがその機会も逃してしまって、って言って、とても残念がっていましたよ」

「そうか……。そんなふうに思ってもらえていたとは、なんだか嬉しいね」


 大きな手が前髪をかき上げる。その仕草を見つめながら、美紗は胸の内がじわりと熱くなるのを感じた。ピンクとオレンジが混ざり合うオリジナルカクテルを口に含むと、甘酸っぱい柑橘系の味が、焦燥にも似たその熱をますます強くした。


「武内とは過去二回、一緒になったことがあるんだ。彼も要撃管制から情報畑に転向したクチで」

「では、情報関係は経験豊富な方なんですね」

「どうだろうな。彼がこれまで扱ってきたのは部隊レベルの戦術情報ばかりだから。同じ情報業務でも、国際情勢や政治マターの話が多い統合情報局の仕事はかなり勝手が違うと感じているんじゃないかな。情報の提供先も格段に幅広くなるから、ニーズもそれだけ多様になる。そういう意味では、彼は『初心者』と言えなくもない」


 日垣は、再び水割りを口にすると、大きくため息をついた。


「私も今は、そんな『初心者』の心境だよ。勝手が分からない上に、気安く頼れる人間も近くにいない。上にも下にも知り合いがいる環境で仕事をするのがいかに楽だったか、改めて痛感している」

「いろいろ、大変なんですね」

「まだ愚痴をこぼすほど働いていないはずなんだけどね。……久しぶりに君の顔を見て、ほっとしたのかな」


 美紗の胸元で、インペリアル・トパーズが小さく跳ねる。日垣は、わずかに気恥ずかしそうな笑みを浮かべると、大きな窓の外に広がる夜景へと視線を移した。




 二杯目のタンブラーが空になり、氷だけが中でカラリと音を立てる。それをコースターに戻した日垣は、腕時計を見、振り返って暗い店内の奥に目をやった。

 衝立がある「いつもの席」にドリンクを運ぶバーテンダーの姿が見えた。


「今日は、いつもの席は無理そうだね。もう少し飲む?」

「いえ……」

「じゃあ、……行こうか」


 やがて、長身のシルエットはゆっくりと立ち上がった。

 小柄な影がそれに続く。


 マホガニー色のカウンターに残された二つのグラスは、しっとりとしたピアノ曲に包まれながら、儚げな色に光っていた。



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