第8章 アイスブレーカーの行方

遠いメンター(1)


 食堂や売店が入る棟の休憩スペースで、美紗は独り、長椅子に座って人の往来を見るともなく眺めていた。出来合いの弁当を買いに来たものの、気分がすぐれず、何も食べる気になれない。


 一月下旬の厳しい寒さがその原因でないことは分かっていた。通販で買った避妊薬を四、五日前に飲み始めて以来、身体がひどく重く、常に嘔吐感がある。

 サイトに掲載されていた商品説明には、「服用を開始して一、二か月は軽い副作用が出ることがある」とあったが、症状がこれほど顕著だとは思わなかった。


 薬を飲むことに抵抗がないわけではなかった。しかし、万が一の事態を確実に避けるためには、他の選択肢はないように思われた。

 共通の未来はないと初めから分かっていて、あの人を求めた。身勝手な自分を受け入れてくれたあの人に、決して迷惑はかけられない。だからといって、身勝手な行為のために別の命を犠牲にするような真似は絶対にしたくなかった。

 存在を望まれない悲しみは、自分自身がよく知っているから……。




「あ、美紗ちゃん、お久しぶり」


 メンターと慕っていたはずの女の声に、美紗はギクリと身体を強張らせた。

 軽快な靴音を立てて近づいてきた吉谷綾子は、ブランド物の色鮮やかなスカーフで首元を飾っていた。以前と変わらない華やかな笑顔が、美紗には痛いほど眩しく感じた。


「これからご飯? 良かったら一緒に食べない?」

「はい。あ、でも、……今日は、早めに戻らないといけなくて……」


 とっさに嘘をついた美紗は、思わず吉谷から視線をそらした。日垣が「情報のプロ」と評する大先輩は、腰をかがめ、心配げに美紗を覗き込んだ。


「そっか。……少し、お疲れ気味じゃない? 具合悪いの?」

「最近、ちょっと食欲が無くて」

「オーバーワークになってない? あのイガグリ、そういうトコちゃんと管理してくれてんのかしらね」


 吉谷はふざけ半分に美紗の管理者の悪口を並べると、「軽いものならどう?」と食堂の近くにある喫茶店を指さした。


 セルフサービスの小さな喫茶店は軽食しか扱っていないせいか、客の大半は女性職員だった。

 隅の席を素早く確保した吉谷は、周囲をきょろきょろと見回した。


「中で食べるのって、何か落ち着かないよね。取りあえず近くにイガグリはいなさそうだけど」


 アボガドとサーモンが詰まったライ麦パンのサンドイッチを幸せそうにほおばる吉谷に、美紗もようやく顔をほころばせた。さっきまで感じていた微かな吐き気は、いつの間にか消えていた。食べられるか不安に思いながら買った小さなパンの香りが、急に香ばしく感じる。


「そういえば、『空の小僧』はCSシーエス(空自の指揮幕僚課程)受かったんだってね。得意の減らず口で面接を突破したのかなあ。でも、あんな調子で入校して、やっていけるのかしら」

「片桐1尉は、何だか変わりました。最近は政策論議が好きみたいで、よく松永2佐や宮崎部員と難しい話をしてます」

「へー。減らず口も進化したんだ。じゃあ今は、『海の小僧』がひとりでおバカやってんの?」


 直轄チームに所属する3等海佐と1等空尉を小僧呼ばわりした吉谷は、目を細めてコーヒーの香りを吸い込み、にわかに口角を上げた。


「この前、メグさん……、あ、8部にいる大須賀さんと会ったんだけどね。最近『海の小僧』の視線がアツくて気になるとか言っててさ。美紗ちゃん、どう思う? あの小僧、本気でメグさん狙ってるのかな」


 美紗は、大須賀恵とクリスマスを一緒に過ごしたいと嘆いていた小坂の様子を思い出し、思わずクスリと笑った。


「小坂3佐、よく大須賀さんの話してますよ。今日は目が合っちゃったとか、服が可愛いとか、楽しそうに……」

「ホントに小僧だね」

「ダイエットも始めたみたいです。お昼休みは毎日走りに行ってて」

「メグさんにモテたいから? 真面目に涙ぐましい努力してるんだ」


 吉谷は声を立てて笑い出した。


「でも今の状況じゃ、『小僧』に勝ち目ないわよね。メグさんの理想は日垣1佐だし、その理想の君が同じ職場にいるんじゃ……」


 ふいに出た名前に、心臓が嫌な鼓動を打つ。その音を吉谷に聞かれそうな気がして、美紗は思わず胸元に手をやった。微かに震える指に、ハイネックの白いニットの下に潜むペンダントヘッドの固い感触が伝わった。


 あの人からもらったインペリアル・トパーズ。

 職場に着けて来てはいけないと言われた、ピンクとオレンジの二色に輝く誕生石――。


 美紗は大きく息を吐き、まだ一人で笑っている吉谷をうかがい見た。洞察力に長けた先輩に気付かれる前に、別の話題を振らなければ……。


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