遠いメンター(2)

「あの、吉谷さん。……空幕くうばく(航空幕僚監部)のほうは、どんな感じですか? 総務部に、いらっしゃるんですよね?」


 とってつけたような問いに、吉谷は楽しそうに答えた。


「うん、総務部総務課。思ってたより居心地いいかな。班長も課長も何かと気を遣ってくれるし、部長はお茶目で面白いし」

「部長さんって、白髪がもさもさの人ですか?」

「そう。あ、いつだっけ、うちの部長と一緒にいる時に美紗ちゃんと会ったことあったよね」


 美紗が空幕総務部長を間近に見たのは数か月ほど前のことだった。昼休みに敷地内の売店に買い物に行った後、事務所へ戻る途中で二人に会った。

 吉谷と共にエレベーターに乗ってきた空将補くうしょうほは「お茶目」とは程遠い強面だったが、人は見かけによらないという典型かもしれない。



「やっぱり、長がいい人だと職場環境も良いよね。ヘンな奴の下になったら、ホント大災害」

「空幕副長は、やっぱり大変な人なんですか?」


 美紗が声を低めると、吉谷は再び周囲を見回して、小さく頷いた。


「まあ、航空幕僚長トップの隣でやりたい放題やるわけにはいかないから、傍若無人ってほどじゃないけど。それでも、副長絡みの揉めゴトはいろいろあるみたい。うちの部長がよく愚痴こぼしてる」

「……そうなんですか」

「あの副長、いろんなコトに首を突っ込みたがってなんでも引っ掻き回すし、ちょっと持ち上げられると、相手がキャリア(キャリア官僚)だろうが部外だろうがペラペラしゃべっちゃうって。おまけに、結構根に持つタイプみたい。日垣1佐も面倒な奴と喧嘩したわよね」


 美紗は、日垣が憂鬱そうに空幕副長の話をしていたことを思い出した。日垣の部下であり副長の親族でもあった無能な3等空佐を巡り両者が激しく対立したのは、もう二年以上前のことだと聞いた。

 以前にコトの次第を詳しく説明してくれた内局部員の宮崎の話によれば、非があるのは間違いなく副長の側だと思われたが、桜星さくらぼしを肩に三つも付ける将官は、今でも日垣に対して憎悪の念を抱いているのだろうか。



「吉谷さんは大丈夫なんですか?」

「私? 私は別に被害ないわね。たまにお飾り秘書みたいな随行役を頼まれたりするけど、そういう話が来るときは必ず班長が間に入ってくれるし、定時帰りの条件もきっちり守ってもらえてるし」


 表情を曇らせる美紗とは対照的に、吉谷は狡猾な女スパイのようにほくそ笑んだ。


「安全な所から職場のグダグダを見てると面白いわよ。ひと騒ぎあるたびに周りの人間関係も把握できるし。誰とどういうコネを作ったら自分のキャリアパスに役立つか、じっくり観察させてもらってる」

「はあ……」

「あなたは? 美紗ちゃん。今後のキャリアちゃんと考えてる?」

「いえ、まだそんな……」

「日々の仕事をきちんとやるのも大切だけど、『三年後、五年後はどうしていたいか』を意識しておくのも大事。将来を見越して勉強したり、情報仕入れたり、人間関係作ったり」


 美紗は、胸元に隠れるインペリアル・トパーズを感じながら、気まずそうにうつむいた。


 将来に、興味はない。

 あの人と一緒にいられる「今」だけがすべてだから……。



「今も5部の所掌を担当してるの?」

「はい」

「5部の人たちとはうまくやってる?」

「うまくやれているかどうかは……。5部の専門官の方々には、いつもいろいろ教わってばかりです。駐在経験のある方に現地の生活のお話を聞かせてもらったり……」


 ためらいがちに答える美紗に、吉谷は「いい雰囲気でやってるじゃない」と言って顔をほころばせた。


「彼らが美紗ちゃんにうんちく垂れるのも、育ててあげたい気持ちがあるからよ。5部の専門官ポストに空きができたら、お声がかかるかもね」

「私なんて、とても」

「そういうのダメだって、前も言ったの覚えてる?」


 朗らかな笑顔はそのままに、形の良い眉が少しだけ上がる。


「やれるかどうか悩む前に、やりたいかどうかを考えて。興味あるオファーが来たら、遠慮なくさっと受ける。ポストが空く気配がないか、事前に探るのも大事。せっかく人間関係が出来てるなら、自分の意欲をさりげなく伝えていかなきゃ」

「そう、……ですね」

「のんびりの姿勢でいたら、別の人間に出し抜かれちゃうよ。事業企画課の八嶋さんとか、いかにも虎視眈々と狙ってそうじゃない」


 言われて初めて、美紗はこの数か月ほど八嶋香織の存在をすっかり忘れていたことに気付いた。

 直轄チームと渉外班の事務官同士を入れ替える話が立ち消えになってから、八嶋とは言葉を交わしていない。日垣に涙の抗議をしていた八嶋にその後目立った言動は見られないが、彼女が密かにリベンジの機会をうかがっていることは容易に想像できる。



「そうだ美紗ちゃん。今せっかく直轄チームにいるんだから、日垣1佐にさりげなーく人事の希望を伝えてみたら? 彼は広い人脈を持ってるから、情報局に限らず、いろんな人事情報を持ってると思うのよね。美紗ちゃんの希望するポストに空きがでそうだったら、そこに押してくれるかもしれないし」

「そんなこと……」


 美紗は露骨に顔をしかめた。八嶋香織と同じことをして、あの人を煩わせたくはない。


「やることちゃんとやってきた人がちょっと自分の希望を言うくらい、別にいいんじゃない? そういうの、私はズルだとは思わないな。上司の側だって、自分が高く評価してる部下の希望は出来るだけ聞いてやりたいと思うものじゃないかしら」

「それだと、評価されてないのに希望なんか言ったら、……ものすごく気まずいことにならないですか?」

 

 気の弱い後輩の素朴な疑問に、吉谷は苦笑いして肩をすくめた。


「まあ、人によってはヤブヘビな展開になっちゃうこともあるかもね。でも、美紗ちゃんは大丈夫じゃない? 直轄チームでちゃんと生き残ってるんだから。日垣1佐は、優しそうに見えるけど仕事には厳しいし、結構ドライよ。ダメだと思ったら相手が誰でも関係なく飛ばしちゃうもん」


 さらりと恐ろしげなことを言った吉谷は、残り少なくなったコーヒーを一口飲んで、美紗の方に顔を寄せた。


「ここだけの話だけど、話を入れるなら今のうちよ。日垣1佐、たぶんこの春で異動だから」

「え……っ」


 パンを食べかけたまま、美紗は動きを止めた。


「まだ正式に決まったわけじゃないけど、総務にいると人事の話もいろいろ聞こえてきちゃうのよね。まあ、日垣1佐は今の職に就いてもう二年以上経つし、そろそろ異動の時期には違いないんだけど」


 美紗は「でも……」と言いかけて口をつぐんだ。


 日垣とは、この前の週末に会ったばかりだった。いつもの店で、いつもの水割りとマティーニを一杯ずつ飲み、青いイルミネーションの海を抜けて、いつもの夜を過ごした。

 翌日の昼前に別れるまで、異動の話など何ひとつ出なかった。



「どちらに、行かれるんですか?」

「さあ、そこまでは……。でも、未来の空幕長と目される人だから、ご栄転には間違いないよね。次のトコで任期を終える頃には、将補さまにおなり遊ばすんじゃない? そしたら『日垣閣下』ってお呼びすることになるのかしら」


 ふざけて笑う吉谷の声が歪んで聞こえた。彼女の姿も、冬の弱い日差しが差し込む店内も、古ぼけたフィルム映像を見ているかのようにくすんで見える。

 美紗は、さっぱり味が分からなくなったパンを、無理やり紅茶で流し込んだ。



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