暮れゆく日(2)

 美紗は第1部長室のほうを見やった。わずかに空いたドアから見える部屋の中は、やはり暗かった。

 日垣も、関係各所への挨拶回りを終えて、すでに帰宅したのだろう。もしかしたら、夜には九州行きの飛行機に乗るのかもしれない。



 彼が東京を離れてしまう

 遠い街へ、行ってしまう



 窒息しそうな違和感を覚えながら、美紗はゆっくりと椅子から立ち上がった。

 彼が不在となる一週間弱の期間が、信じられないほど長い時間のように感じる。誰かを恨んではいけないと思いながらたった一人で過ごす、その時が、苦しい。


 いないと分かっていて、日垣の個室を覗いた。

 薄暗い部屋のなかで、彼の執務机がますます重厚さを増して鎮座していた。大きな窓の外には、紫から紺色へと変わりゆく空が広がっていた。星はなく、満月だけが冷たい光を放っている。


 彼の温もりを感じられるような気がして、ふらりと中に入った。


 窓際まで寄り眼下を眺めると、街明かりがぽつぽつと点き始めていた。繁華街にある「いつもの店」の窓から見える景色に比べると、市ヶ谷の街は全体的に低く、華やかさに欠ける。


 夜遅くまでこの部屋にいる時の彼は、仕事をしながら、時折は外に目をやることもあるのだろうか。地味な夜の街を目にしながら、通い慣れたバーの窓に映る煌びやかな街並みを思うことはあるのだろうか。

 「いつもの席」に共に座る相手の姿を、ほんの一時でも想うことはあるのか……。




「そこで何をしている」


 威圧的な低い声に、美紗は弾かれたように振り返った。

 部屋の戸口に、長身の人影が立っていた。


「無断侵入とは感心しないな。探し物でもしていたのか」


 返答するより早く、人影は大股で歩み寄って来る。美紗は身じろぎもせず、その姿をただ見つめた。

 窓際に射し込む月明かりの下、濃紺の制服が、そして、突き刺すような光を帯びた切れ長の目が、露わになった。



 あの時と、同じ目……



 嘘をつき慣れた男の、偽りの視線。美紗がそれを初めて見たのは、一年前の初秋だった。人気ひとけのない階段の踊り場で美紗を追い詰めた男は、普段の優しげな顔からはひどくかけ離れた、恐ろしく冷たい目をしていた。

 その男に連れられて行った先は、薄暗いバーだった。店の一番奥のテーブル席に美紗を座らせた彼は、狡猾そうに笑い、誠実そうに詫びの言葉を口にした。


 一度で終わるはずだった二人の夜。


 しかし、図らずもそれは続いた。そして、彼は徐々に「本当の姿」を美紗の前に晒していった。


 抱えきれない不安に苛まれる心に寄り添う、安らぎの言葉。

 帰るところのない悲しみを受け止める、ぬくもりに満ちた眼差し。

 前髪をかき上げる仕草をする時の、照れくさそうな笑み。

 叶わずに終わった夢を語る時の、切ないほど穏やかな横顔。


 青いイルミネーションの海の中で、抑えきれない想いを受け止めた、逞しい腕――。



「どうして……」


 無秩序に入り乱れる記憶を振り払うように、美紗は目の前に立つ上官の顔を見上げた。こぼれ落ちる涙が、窓辺を照らす儚い月明かりの中で、瞬くように光った。


「どうして、あの日の夜、お店にいらしてたんですか」

「美紗……」


 威圧感を装っていた視線をゆっくりと当惑のそれに変えた日垣は、呟くように下の名前を口にした。耳に心地よい声が、息もできないほどに美紗の胸を締め付けた。


「クリスマスの日は、……ご家族のもとに帰ってあげたいと、思っていたんじゃないんですか。お家でずっと待っている人のことを、想っていたんじゃないんですか。私のことなんか、思い出さないはずじゃなかったんですか」


 美紗は、込み上げる何かに耐え切れず、嗚咽交じりの声を上げた。


「私は、日垣さんの家族には、なれないから……」


 目の前にいる彼は、いずれ、鈴置美紗の存在を嘘の中に沈め、居るべき場所へと帰っていく。その時には、苦しげに息を乱す華奢な身体を慈しみながら貫いたことさえ、あたかも一職員の保全事案をもみ消すかのごとく、いとも簡単に「なかったこと」にしてしまうのだろう。


 そうと分かっていて好きになった。

 すべてを承知の上で、身を委ねた。

 だから、何も期待してはいない、してはけないと、思っていた。



「……あの夜は日垣さんと一緒にいたいなんて思っちゃ駄目だって、傍にいてくださいって言っちゃ駄目だって、遠い所に帰らないでって言ったらいけないって、ずっと……」


 泣きじゃくる美紗の頭に、日垣は無言のまま、ゆっくりと右手を伸ばした。大きな手が、震える髪を撫で、涙がつたう頬に触れた。悲しいほど温かいその感触が、千々に乱れた心を包み込んだ。


「日垣さん……」


 濡れた瞳を見下ろす彼の目は、深い憂いの色に揺れていた。月の光に照らされているせいなのか、切れ長の目は微かに潤んでいるようにも見えた。


「すみません、変なことを……」

「君が謝る必要はない。私が」

「日垣さんを、困らせたくないのに」

「分かっている」

「でも」


 美紗は子供のように頭を振った。


「……やっぱり、迷惑ですよね。迷惑はかけないって、言ったのに、私は、いるだけで、日垣さんの」


 頬を撫でていた右手が首元を強く掴むのを感じた瞬間、美紗の言葉は唇に遮られた。


 びくりと揺れる身体を、大きな影が覆い被さるように閉じ込める。戸惑う小さな唇の間を、温かく柔らかい感触のものが、ゆっくりと撫でていく。


「……っ」


 耐え切れず、美紗は微かな声を漏らした。わずかに開いた唇を割って入ってきた舌が、美紗のそれを強引に絡めとる。互いの体温を感じながら触れ合う場所が熱を帯びてゆく。

 その熱がじわりと身体中に広がると、それまで美紗の胸の中を圧迫していた何かはとろりと融け落ち、別の衝動へと変質していった。


 途切れる息遣いと苦しい鼓動。

 それ以外の、すべての時間が、止まる。



 体が崩れ落ちるような感覚に、美紗ははっと我に返った。


 無意識のうちに、日垣の腕にすがりついていた。その腕が、力の抜けた身体を固く抱き寄せる。

 美紗はそれに抗うことなく、紅潮した頬を彼の胸に押し当てた。濃紺の制服の硬い生地が、ひんやりと感じられた。


「私は元旦の夜までは東京にいる。松永と交代で自宅待機することになっているから」


 骨ばった手が、浅い吐息をつく美紗の髪を梳いた。壊れ物に触れるように優しく動く指の感触が、身体の中で波打つものをゆっくりと静めていった。


「日垣さん……」


 美紗は、聞き取れないほど小さな声で、何かを尋ねた。


 髪を梳く手が止まる。


 日垣は、短くささやき返すと、己の肩ほどの背丈しかない女を、再び固く抱きしめた。

 すっかり暗くなった空を臨む窓ガラスに映る彼の顔は、優しく微笑んでいるようにも、悲痛な想いに歪んでいるようにも見えた。




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