不安な雨(1)
「直轄ジマ」の面々が週一ペースで休日を確保できるようになったのは、それからさらに一か月ほどが経ってからのことだった。すでに梅雨の時期に入り、東京ではどんよりとした日々が続いていた。
統合情報局第1部のドアを勢いよく開けた西野は、「松永ぁ! ちょっといいかあ!」としわがれ声で喚いた。
窓を背に座る直轄班長が、仏頂面のまま立ち上がる。
「いい、いい、俺がそっち行くから」
縦横に大きな1等陸佐は、上機嫌で「直轄ジマ」のほうにのしのしと歩いてきた。
「お疲れさん。お? 今日、鈴ちゃん休みか」
「あーっ、ダメですよ西野1佐!」
上官が美紗の椅子の背に手をかけるのを見た小坂は、3等海佐らしからぬ素っ頓狂な声を上げた。
「何だよ、急にでけー声出しやがって」
「女の人の席に勝手に座ったりしたら、セクハラって言われますよっ」
「セクハラ? 何でだよ。別に本人の上に座るわけじゃなし」
「そういう発言がもうセクハラですから!」
無遠慮に騒ぐ丸顔の部下に、西野は面食らったようにギョロ目をしばたたかせた。
「……お前、意外と神経質だな」
「西野1佐が無神経すぎるんですっ。今はいろいろと難しいんですから、気を付けないと。『ちゃん付け』もやめたほうがいいですよ」
「うるせーなあ。ミリミリ
ガサツな笑い声に、フロア中の視線が「直轄ジマ」に集まる。
「鈴置は今、N国関連の連絡会議に出ているんですよ。座るならこっちの席にしてください」
松永はにこりともせず、自席の左斜め前の空席を指し示した。途端に険しい目つきになった第1部長は、怯えるように背を丸める銀縁眼鏡の後ろを通り、武内3等空佐の席にどっかりと座った。
「
「そうです」
「奴の担当正面、N国だろ? こんな調子でよく仕事が回るな。……まあ、やっと一息つけそうな状況にはなったが」
「では、官邸報告は」
「日々のブリーフィング的なやつは今朝の回でひとまず終わりってことに決まった。今後は、大きな動きがない限り、そういうのは週一ペースくらいになるだろ。補室(内閣官房危機管理担当副長官補室)には日報みたいなの入れることになるだろうが」
「そうですか。それは……」
松永は珍しく顔をほころばせた。「直轄ジマ」に安堵の空気が流れる。しかし、西野は厳しい表情のまま鼻から息を吐いた。
「N国マターが賑やかなのはこれからも変わりないんだぞ。このまま武内にやらせてていいのか」
「武内の不在時は、鈴置がカバーしますので」
「鈴ちゃんが?」
小坂の忠告を早くも忘れたらしい第1部長は、露骨に顔をしかめた。
「鈴ちゃんくらいの事務官てえのは、俺らの階級でいうとどのあたりになるんか」
「3尉になっているかどうか、というところですかね」
「そういう立場の者に3佐の仕事をさせて、大丈夫なんか」
松永は、配下の部下たちをちらりと見やると、ひそひそと答えた。
「初めは佐官クラスで手分けして武内の仕事を処理していたんですよ。しかし武内自身がそれを把握し切れないようで、かえって地域担当部との連絡調整に混乱が生じまして。それでやむなく、彼の代理を鈴置一人に固定したんです」
「ふうむ……。調整能力に難アリの人間が調整してナンボのトコに来ちまった、ってことなんかなあ」
西野は熊が唸るような声でぼやいた。統合情報局の人事権を握る第1部長が言わんとするところを察した「直轄ジマ」の面々は、一様に表情を強張らせた。
「鈴置も四大は出ていますし、情報職としての素質もなかなかありますので、武内の代理は十分務まると考えます。武内のほうも、……N国のドタバタがなければ、スムーズに
「でも奴は、家の中にも何か問題抱えてそうなんだろ? この調子じゃ、そのうち補佐役の鈴ちゃんのほうが主担当になっちまうぞ」
「状況によっては、一時的にそうなるのもやむを得ないかと……」
松永が歯切れ悪く応える。
「3尉相当の人間の下に3佐が付く格好になるんか。互いにやりにくそうだな」
「武内は、調整能力はともかく、気の優しい謙虚な人間です。細かいことを根に持つタイプではないですよ」
「鈴ちゃんのほうが根に持つかもしれんだろうが」
「鈴置が、ですか?」
松永が驚きを露わにすると、西野は面白そうに口を尖らせた。
「だってそーだろ。3佐と仕事を取っ替えっこしたって、3佐の給料はもらえないんだぜ。鈴ちゃんからしたら、損な話じゃねーか」
小坂と宮崎が顔を見合わせ、小さく頷き合う。その様子を不愉快そうに見やった松永は、片方の眉を吊り上げ、きっぱりと言い放った。
「その心配はありません」
「何でだよ」
「鈴置のほうから、武内の仕事をやらせてくれと言ってきたんですから」
「直轄班長の無言の圧力が、そう言わせたんと違うか?」
イガグリ頭が思わず口ごもる。さらに何か言おうとする西野を、口ひげの3等陸佐が遮った。
「もしかすると、鈴置さんはいずれ2部に異動したいと思っているのかもしれませんなあ」
「異動? 2部の専門官のイスでも狙ってんのか?」
「おそらく。統合情報局の専門官ポストは、鈴置さんのようなノンキャリの事務官さんたちには人気があるそうですから。彼女も数年後を見越して今から動き始めている可能性も、無きにしも非ずでしょう」
「へー。2部にカオを売るために武内の仕事を肩代わりするってか。鈴ちゃん、意外と策士なんだな」
西野は、美紗の席を見やり、粗野な笑みを浮かべた。その隣で、銀縁眼鏡がキラリと光った。
「今回の5部の人事が、彼女の意識を変えたのかもしれませんね」
「5部? 2部じゃなくてか?」
「5部に、専門官候補として事務官が一人、局内異動で入ったんですよ。西野1佐のご着任と同じ日付で」
「ああ、あの人事は確かに、ちょっと違和感ありましたね」
先任の佐伯が、声を低めて宮崎に相槌を打つ。西野は、ただでさえ大きなギョロ目をカッと見開くと、佐伯と宮崎を交互に見た。
「鈴ちゃん、5部と何かあるんか」
「鈴置さんは
「それで、5部の事務官の専門官ポストが空く時にはきっと『鈴置さんを後任者に』という流れになるだろうと思っていたんです。本人はともかく、我々としては」
「それが、この春に突然、1部の渉外班にいた人間が5部に異動になったんですよ。夏に退職予定の専門官の後任として、四月からダブル配置になって」
「その後任者が元から5部所掌の地域に詳しいという事情なり経歴なりがあるんでしたら、『一本釣り』で引き抜かれるのも分かるんですが、そういうことも特にないそうで……」
宮崎と佐伯が争うように喋る。それを聞きながらいちいち頷く高峰も、思うところは同じらしい。
「渉外班から5部に異動した奴ってのは、トシくったベテランなのか」
「いや、まだ若いですね。入省年次は鈴置さんとほとんど変わらないんじゃないかと」
「あらま。じゃ、鈴ちゃんとしてはまさに『アタシを差し置いて何でアイツが』ってトコなんか」
茶化すような物言いをした西野は、しばし思案顔になると、ふいにイガグリ頭を睨みつけた。
「まさか、お前が鈴ちゃんの異動話を潰したんじゃねえだろーな」
「ち、違いますよ!」
狼狽する松永に、佐伯以下四人の部下たちは一斉に疑惑の視線を向けた。
「松永2佐。『保護者』も度が過ぎると害悪ですよ」
「だから違うって! 5部の専門官の話なんて、俺だって三月末まで知らなかったんだから! だいたいあの人事は、日垣1佐が八嶋さんを専門官にしたくて無理やり決めちまったって……」
思わず声が大きくなった松永は、そこではっと口をつぐんだ。
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