不安な雨(2)

「日垣が何だって? 詳しく聞かせろ!」

「あ、いえ、ただのくだらん噂で……」

「俺に隠し事するとタダじゃおかねーぞお!」


 第1部長は半分立ち上がり、本気とも悪ふざけともつかぬ形相でがなり立てた。

 フロア中が凍りついたように静まり返る。


 居心地悪そうに周囲を見回した松永は、巨漢の上司に座るよう促すと、苦虫を噛み潰したような顔でため息をついた。


「年度が明けてから5部の先任に聞いた話なんですが、5部では確かに、夏に退職予定の専門官の後任として、うちの鈴置を考えていたそうなんです。ところが、三月になって内々に人事調整を始めた矢先に、人事課が急に八嶋さんの名前を挙げてきたそうで」

「ヤシマ? 例の、渉外班にいたっていう事務官か」

「そうです。で、結局、調整の余地も全くなく、その彼女が四月一日いっぴに5部分析課に着任したということでして……」

「そいつ女なんか」

「はい。そのせいか、局内でちょっと、……変な話が出回りましてね」

「変な話?」


 ゲジ眉をひそめる強面の上官を、松永は上目遣いに見た。


「……局内人事は1部長の専決事項ですし、それで、当時1部長だった日垣1佐が八嶋さんを、なんと言いますか……」


したんじゃないかって、つまらんこと言う人間も出てくるわけですなあ」


 口にしづらい言葉を、松永の代わりに、高峰が吐き出すように言った。西野は呆れ顔で鼻を鳴らした。


「ひでえ言われようだな。日垣とは防大以来の付き合いだが、あいつは昔っからそういうの毛嫌いするタイプだぞ」

「そう、ですよね」

「若手の人事ひとつでいちいち中傷めいた噂を立てられるとは、幕長ばくちょう(幕僚長)候補も大変だ。統合情報局ここって、実は讒言とか陰謀とか結構渦巻くトコなんか?」

「どうでしょう。内局ほどではないと思いますが」


 内局部員の宮崎が、銀縁眼鏡を手で直しながらニヤリと口角を上げる。


「そういえば去年の夏頃にも、日垣1佐と八嶋さんがどうのこうのって噂、流れましたね」

「ほー。どっかで逢い引きでもしとったっちゅうんか」

「そこの廊下で二人、熱い接吻を交わしていたそうですよ」


 宮崎がドアのほうを指差すと、西野は雄叫びを上げる獣のように大口を開けて笑い出した。あまりの音量に、「直轄ジマ」の面々が一様にのけぞって顔を歪める。


「アホか。あのクソ真面目な奴がそんな不始末やらかすかっての。それに、奴は用心深いからな。仮に相手が超ナイスバディのそそる美女でも、職場でなんて絶対にあり得ねーよ。で、その噂の事務官ってのは、いいオンナなんかっ?」


「すっごく地味な人ですよ」


 いつの間にか佐伯と高峰の間に割り込むようにして立っていた小坂が、下世話な好奇心丸出しの第1部長にヒソヒソと応えた。


「間違っても、タイプじゃないです。顔も地味だし服も地味だし、たまに喋っても地味だし、胸も思いっきり地味だし……」

「お前さ、人にセクハラだ何だと説教かましといて、よくそういうこと言うよな」


 西野は再びゲラゲラと笑った。その時、第1部の出入り口で自動ロックが解除される物音が聞こえた。

 開いたドアの陰から美紗が顔を覗かせると、「直轄ジマ」はピタリと静かになった。


 松永がわざとらしく咳払いをする。


「あーっと、鈴置……。お疲れ様。特に揉めゴトなかったか」

「はい。あ、N国関係の官邸報告ですが」

「日々ベースのはとりあえず終了なんだってな。さっき西野1佐から聞いた」


 松永の視線の先を追った美紗は、武内の席にヒグマのような陸上自衛官が座っているのに気付き、ぎこちなく会釈をした。


「班長に報告あるんならしてくれ。俺は退くから」


 西野はのっそりと立ち上がった。ギョロ目の視線を感じつつ、美紗は連絡会議の状況をかいつまんで松永に説明した。


「……了解。業務支援延長の件と横田(在日米軍司令部)への情報提供の話は、俺のほうで調整して2部に回答しとく。今後の補室向けの報告は……」

「そちらのほうは、僕が(内局)調査課と早急に詰めてきます。鈴置さん、2部から出た要望、後で詳しく教えて」


 松永に呼ばれるより早く内局部員が反応する。三人の間で手際よく進むやりとりを、西野はしばし満足そうに眺めた。


「さっきのは、余計な節介ってやつだったかな」

「何がです?」


 松永の問いに、西野は、綺麗に片付いた武内の机の端を指でトントンと叩いた。


「修羅場の時こそ、こういうチームワークが大事だもんな。ま、いよいよヤバくなりそうな気配がしたら、早めに俺に教えてくれ」


 ギョロ目を細める第1部長に、美紗を除く全員がホッとした表情で頷く。


「そういえば、前に日垣が言ってた。直轄ジマは四六時中ガチャガチャうるせーが、喋ってるわりに仕事は早い、ってな」

「それは、良い意味に解釈してよろしいんですかね」


 苦笑するイガグリ頭に、西野は「さあな」と返すと、おもむろに窓際に歩み寄った。窓ガラスに映った大柄な1等陸佐の顔から、すっと笑みが消えた。


「あいつ、今頃どうしてっかな」


 松永も立ち上がり、上官と並んで永田町がある方向を何となしに眺める。

 市ヶ谷に建つ庁舎の十三階からは内閣府の建物は見えず、眼下には降りしきる雨に濡れる灰色の街並みが広がっているばかりだった。


「内閣官房こそ、まさに修羅場でしょうね」

「……先週、局長の代理で安保関連の実務者会議に出たんだが、そこに日垣も来ててな」

「何か愚痴っておられましたか」

「いや、直接は話せなかった。会議場でちらっと姿を見かけただけなんだが、日垣の奴、何つうか、ずいぶんやつれた感じだった」




 その日の晩、自宅に戻った美紗は、久しぶりに日垣の携帯端末にメッセージを送った。激務の日々を送る彼を煩わせることに躊躇いを感じなくはなかったが、西野がぽつりと漏らした一言が頭から離れず、居ても立ってもいられなかった。

 溢れる想いを抑え込み、彼の体調を気遣う内容だけを短く書いた。


 彼からの返信が来たのは、明け方の四時過ぎだった。ただ「会いたい」とだけ書かれていた。



 

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