揺らぐ夜景(1)
七月に入ってすぐの土曜日の夜、美紗は二ヶ月ぶりに「いつもの店」を訪れた。
マホガニー調に統一されたオーセンティックバーは、以前と変わらず、懐かしい隠れ家のような温もりに満ちていた。
窓の外に広がる大都会の街灯りとは対照的な、薄暗くも心地よい空間。
ロマンスグレーの髪をオールバックにまとめたマスターに促されて中に入ると、店内を静かに流れるピアノ曲の優しい旋律が、梅雨寒の雨に濡れた美紗の身体を優しく包み込んだ。
談笑する人影は、金曜の夜に比べるとやや少ないように感じられる。
時折聞こえる、シェイカーを振るリズミカルな音。
客席に置かれたキャンドルの柔らかな光……。
それらの奥に、衝立のある「いつもの席」が見えた。ソファタイプの椅子の背に深く身を預けた男は、テーブルの上にぽつんと置かれた琥珀色のグラスを見るともなしに眺めていた。
「日垣さん……」
高まる想いを抑えた小さな声に、日垣貴仁ははっと顔を上げた。丈の長いワンピースに薄手のパーカーを羽織った美紗の姿を認めた切れ長の目が、微かに安堵の色を浮かべた。
「お待たせして、すみません」
「いや、こちらこそ、せっかくの休みの日に申し訳ない」
前髪に手をやる日垣は、ネクタイこそしていなかったがブルーグレーのスーツ姿だった。
「今日もお仕事だったんですか?」
「午後からだけどね」
「
「これでも最近はだいぶマシになった。先月の半ばまでは、毎日『気付いたら朝だった』という状態だったから……」
この店にいる時にしか見せない穏やかな笑みが、アンティークな照明の仄かな光のせいか、妙に青白く見える。
「日垣さん、お体、大丈夫ですか。ずっと夜遅くて、お休みもなくて」
「こういう生活は
言いかけて、日垣は口を閉じた。暗がりの中からひとつの人影が現れ、ほとんど足音も立てずに歩み寄ってきた。
「失礼いたします」
優雅に一礼したマスターは、冷水の入ったタンブラーを美紗と日垣の前にそれぞれ置いた。そして、美紗に渋みのある笑みを向けた。
「いつものマティーニでございますか?」
「はい」
迷うことなく強いカクテルを注文する童顔の女に、日垣は思わずクスリと笑った。
「先に食べたほうがいいんじゃないか。何がいい?」
美紗は困惑の表情を浮かべた。
日垣から突然電話がかかってきたのは、八時半を過ぎた頃だった。すでに質素な夕食を済ませて独りの週末をぼんやりと過ごしていた美紗は、耳に心地よい低い声に「今から会えないか」と遠慮がちに問われ、息が止まるほど驚いた。にわかに熱い何かが身体中を駆け巡る。それに抗い、声を絞り出すようにして応えた。
そして、ようやく彼に会えるという喜びに浸る間も無く、ワンルームマンションの小さな部屋を飛び出して来たのだった。
「すみません。もう食べてしまって……」
「そうか。まあ、あの時間ではね。もう少し早く連絡できれば良かったな」
日垣はすまなそうに笑った。落ち着いた優しげな眼差しが、なぜか、薄暗い空間の中に消えていってしまいそうに見えた。
「日垣さんは、お食事は」
「私だけならいいよ。正直なところ、最近、夜はあまり食べたくなくてね」
「でも……」
美紗は、助けを求めるようにマスターを見上げた。ベテランのバーテンダーは、ちらりと日垣を見やると、わずかに美紗のほうへ背をかがめた。
「このビルの一階に先月『おむすびカフェ』というお店がオープンいたしましてね。おむすびとお味噌汁程度の軽食を出しているのですが、飲んだ帰りのサラリーマンの方々に結構人気だそうですよ」
「あ、それを、一人分お願いします。日垣さん、おむすびの具でお嫌いなもの何かありますか?」
「えっ、ああ、特には……」
日垣は珍しく狼狽を露わにした。面白そうに眼を細めたマスターは、「では、カフェで一番人気のものをご用意することにいたしましょう」と美紗にささやくと、素早く暗がりの中へと消えていった。
「すみません、勝手に。でも、お疲れの時こそちゃんとお食べにならないと」
「……そうだね。ありがとう」
決まり悪そうに髪をかき上げた日垣は、心配げに見つめる美紗に力ない笑みを返すと、目を伏せて深くため息をついた。
「このところ、くだらない揉めごとが多くてね……」
気のせいか少し痩せたようにも見える骨ばった大きな手が、水割りのグラスを無造作に掴む。
「我が国が危機管理に弱いのは今に始まったことじゃないが、敵性国家の潜水艦がわざわざ日本の排他的経済水域ギリギリの所までやって来て無通告で『ミサイルの発射実験』をやるという事態になっても、永田町の連中はまるで人ごとなんだ。いかにして自分が貧乏クジを引かないようにするかということにしか関心がない」
「貧乏クジ?」
「議論をリードする役を、誰も引き受けたくないのさ」
日垣は琥珀色の液体を流し込むように飲んだ。グラスの中の氷が耳障りな音を立て、美紗はビクリと黒髪を揺らした。
「領海の外にいる
「あくまで『相手が撃ってから反撃』でなければならないのですか」
「文字通り厳密に解釈すれば、そうなるな。現実には、再三の警告を無視する相手には警告射撃、それでも従わないか攻撃の意思を示した場合には、船体射撃、危害射撃(相手を殺傷すること)、と段階的な手段を講じることになっている。しかし、最初の一撃でこちらに致命的なダメージを与えられる火力を持つ艦が相手となると、そんな悠長な対応をしている時間はない」
「反撃の機会そのものが、なくなってしまうと……」
「そうだ。日本近海の安保環境が大きく変わった今、新たな状況に対応するためには、敵と遭遇した時、いや、敵の存在を察知した時点で武力に訴えなければならない可能性がある。そういう前提で、部隊行動基準を大きく変えなければならない」
「部隊行動基準?」
「いわゆる交戦規定だ」
「交戦……。戦争になることを想定するのですか?」
不安に揺れる瞳を、切れ長の目が鋭く見つめ返した。
「交戦規定そのものは、部隊レベルの行動の指針となるものに過ぎない。それに、交戦規定は武力行使のゴーサインになると同時に、現場部隊の行動を制限するものでもあるんだ。偶発的な小競り合い程度でも、双方の現場が混乱して統制が取れなくなると、不必要に戦闘が拡大してしまう可能性がある。そうなると、外交的に処理できるはずのものもできなくなってしまう」
「互いに望んでいないのに、戦争になってしまうのですか?」
「それも全くあり得ない話じゃない。戦争に至らなくても衝突がエスカレートすることで、不法侵入者に対処した日本のほうが国際的に不利な立場に置かれることも考えられる。そういう事態にならないよう、事前に『いつ、どこで、どんな武器を、どのように使うか』を明確に定めて事態をコントロールしようというのが、交戦規定の考え方だ。言い方は悪いが、戦闘行為も本来は国家戦略のひとつだからね。ただし」
日垣は、アルコールを楽しむ人々のさざめきとレトロな雰囲気のジャス音楽が混じり合う薄暗い店内を素早く見回し、声を低めた。
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