揺らぐ夜景(2)

「交戦規定を運用するには法的な根拠が要る。交戦規定を改定するとなると、法的根拠のほうも新たに作らざるを得ないだろう」


「法的根拠を、作る……?」


「我が国に危害を加えようとしている艦艇を新たな交戦規定にのっとって先に攻撃したら相手側に死者が出て殺人罪に問われた、というのでは自衛官はたまったもんじゃない。前例のない事態に立ち向かう者たちの法的立場を守るためには、敵と遭遇した部隊が取り得る新たな法的根拠を、政府として作り、明示する必要があるんだ」


「……専守防衛のあり方を法的に変えなければならない、ということなのですね」


「そうだ。政府も与党内もその認識ではほぼ一致している。だが……」


 美紗は、常に冷静沈着だった男の顔が怒りと焦りに歪むのを見た。


「政治家連中の一番の関心事は、現政権の支持率を維持することと自分の利益を守ることにあるようでね。皆、下手に突っ込んだ発言をして悪目立ちすることを恐れているのか、危機管理関連の会合に出てきても世間話に毛が生えたような話をするばかりで、誰も何も具体的な提案をしない。おかげで、この二ヶ月ほどの間、交戦規定の話はろくに議論が進んでいないんだ」


「でも、何も決まらないうちにもしあの潜水艦がまた来たら……」


「全くだ。からずっと先方が大人しくしていてくれたから良かったようなものの……。せっかく対応策を講じる時間を与えられたというのに、我が国の有様はお粗末な限りだ。最近聞いた話では、与党の影の大物が私的な会合の場で『武力行使は個々の現場の判断に任せればいい』というようなことを言ったらしくてね。それからというもの、頼みの防衛大臣も内閣官房うちの上層部もその大物の顔色を伺ってばかりだ」


「そうなんですか……」


「交戦規定は国の安保政策に基づいて作られる。そして、その政策を決めるのは、自衛隊ではなく政府であり政治家だ。今の政治家たちは、本来やるべき仕事から逃げて、国の存亡に関わる戦略的判断を、現場に展開する部隊の指揮官個人に押し付けようとしているんだ。『シビリアン・コントロール』が聞いて呆れる」


 忌々しげなため息と共に、空になったグラスが荒々しくコースターの上に置かれた。テーブルの隅のキャンドルホルダーから溢れる光が、その音に驚いたかのようにゆらりと揺れた。


「強力な火力を持つ相手と対峙している時に、政治的な判断をする余裕はない。一瞬でも躊躇すれば、殺られる」


 ドキリとする言葉に、美紗は怯えた表情で日垣を見た。遠い昔に要撃管制官として防空の最前線を支える日々を経験した彼の目は、わずかに潤んでいるようにも見えた。


「現場の部隊指揮官は佐官クラスだ。彼らの中には私より若い人間もたくさんいる。その下にいる者たちは、もっと若い。君より若い隊員もいる」


「はい……」


「交戦規定の改定は、政治家にとっては政治生命を左右するセンシティブな問題に違いない。だが、現場で任務を遂行する若者たちは、文字通り命をかけてやっているんだ。そんな彼らを、私は法的に守ってやらなければならない。そのために永田町に来ているというのに……」


 耳に心地よいはずの低い声が、深い憂いに満ち、沈黙の中に沈む。

 美紗は返す言葉もなくうつむいた。ふいに胸の内に痛みを覚えた。会えない日々の中で常に感じていたそれとは違う、心臓が押しつぶされるような痛み――。



「失礼いたします」


 衝立の向こう側から、物腰柔らかな男の声が聞こえた。


「お待たせいたしました」


 オーセンティックバーのテーブル席に、握り飯を載せた平皿が置かれた。続いて、味噌汁の椀、新香の入った小鉢、淡い色合いの長湯呑……と和風の器が並べられていく。

 最後に銀のピックに貫かれたオリーブを抱く透明なカクテルを美紗の前に置いたマスターは、「お茶は当店でもご用意できますのでご遠慮なく」と言って一礼すると、足早にカウンターのほうへ戻っていった。


「……一人でつまらない話ばかりしてしまったね」

「いえ……」

「取り敢えず、乾杯しようか」


 日垣は水割りのグラスに手を伸ばしかけ、その中身が氷だけになっていることに気付いた。店員を呼ぼうと薄暗い店内を見やる。

 それを、美紗が止めた。


「今日はもう飲まないほうが」

「まだ一杯目だよ」

「でも……」


 思いつめたような目で見つめられた日垣は、苦笑しながらも素直に緑茶の入った長湯呑を掲げた。そして、具沢山の味噌汁の香りに顔を綻ばせた。


「こんなふうに食べるのは久しぶりだ」

「お食事はいつもどうしていらっしゃるんですか?」

「朝と昼は庁舎内のコンビニで適当に調達して事務所の中で食べているよ。昼はたまに食堂に行くこともあるんだが、大抵バタバタしているから、誰かと話をしながらゆっくり食べることはほとんどないな。夜は夜で会議だなんだとせわしなくて、食べそびれることが多いしね」

「ご自宅にお帰りになってから何かお食べにならないんですか?」

「職場を出るのがいつも夜中の三時ぐらいだから、それから何か食べるのは、どうも億劫で……」


 手を合わせて静かに食べ始めた日垣を、美紗はじっと見つめた。


 重責を担い連日深夜まで続く激務の中、まともな食事を摂ることもままならず、休息を得られるのは誰もいない自宅に戻って過ごすほんのわずかな時間だけ。そんな生活が、あと二年近くも続くのだろうか……。


 にわかに沸き起こる想いを口にすることにためらい、美紗は久しぶりのマティーニをひと口飲んだ。ジンの強烈な刺激が喉を焼き、目眩がした。

 青と藍色の合間のような色をした何かが脳裏をよぎる。それを、身体中に広がる火照りが一瞬で蒸発させていった。


「日垣さん、私が、官舎のほうに行ってもいいですか?」

「官舎? 永田町の?」


 日垣は左手に箸を持ったまま、驚いた表情で美紗を見つめた。


「そのほうが、ここで会うより日垣さん楽だと思うんです。やっぱりご自宅のほうがゆっくりできますし、私が休みの日は、その、お食事作りに行ったりとか、いろいろできるかと、思って……」


 だんだん小さくなった声が、店内を漂うスロージャズの穏やかな旋律の中に吸い込まれる。


 日垣は手にしていた椀と箸をゆっくりと置くと、目を伏せて首を横に振った。


「君にそういうことを言わせてしまうようでは、私もまだまだ至らないな」

「いえっ、あの」

「気持ちはとてもありがたいが、そこまでしてもらうわけにはいかない。無用な心配をかけて、すまなかった」


 美紗はいたたまれず、黙り込んでしまった日垣から目をそらした。雨に濡れる夜景が滲んで見えた。

 「会いたい」とメッセージをくれた彼のためにできることなど、他には何も思いつかない。自分が傍にいることで彼が少しでも救われるなら、傍にいたい――。


 その想いを上手く言葉にできないことにもどかしさを覚えながら、マティーニに口を付けた。再び、強いアルコールが胸の中に沁みる。


 美紗は深く息を吐き、それから急に小さな笑い声をもらした。


「やっぱり、先にお料理教室に行かないと、ダメかな……」

「えっ?」

「本当はお料理、得意じゃないから」

「いや、そういう意味では」


 慌てる日垣を遮るように、美紗はおどけた調子で喋り続けた。


「私、大学に入るまで、ご飯を作ったことほとんどなかったんです。母はそういうこと教えてくれる人じゃなかったし……。寮で友達にいろいろ教えてもらって、それでやっと最低限のことができるようになって。だから、よく考えたら、いま急に何か作ろうと思っても、日垣さんに美味しいって言ってもらえそうなものは、とても無理です。きっと」

「美紗……」


 日垣は思わず相好を崩し、前髪をかき上げた。


「初めてこの店に来たのは、もう二年以上前になるのか……。あの時と比べると、何というか、形勢逆転という感じだね」


 ほんのりと頬を染めた童顔が、困ったようにはにかむ。その微笑みを彼は愛おしそうに見つめた。


 己をどこまでも慕う二十歳も年下の女の気遣いを拒絶するには、日垣貴仁は疲れ過ぎていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カクテルの紡ぐ恋歌(うた) 弦巻耀 @TsurumakiYou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ