遠すぎる人(3)
「鈴置。さっきの空幕と2部の先任が何とかって話、どういうことなんだ」
美紗は内心、縮み上がった。
以前に日垣が「勘が鋭い」と評していた松永は、部下の一人と込み入った話をしながら、同時に周囲の動きを逐一キャッチする能力があるらしい。
日垣の名前が出るたびにドキリとせずにはいられない自分の顔色を、日垣が第1部長として在任中だった頃の自分と彼とのやり取りを、松永がすべて見ていたとしたら……。
不愛想なイガグリ頭は何をどこまで察しているのだろう。
美紗は恐る恐る一つ下の階での出来事を伝えた。観察力のある上官の目つきはますます険しくなった。
「空幕が官邸報告の資料をくれって言ってきたの、一昨日じゃなかったか? で、その話、武内が受けたんだよな」
「はい」
「事務処理的な話だからと思って、その後までいちいちチェックしてなかったが……。マズったかな」
「彼、こういうの、やや多い感じがしますな」
直轄チーム最年長の高峰が、口ひげに手をやりながら、松永を探るように見やる。
「着任早々にこのドタバタで、彼も気の毒といえば気の毒ですが」
「しかし、幹部ですからね、武内3佐は。部隊長なら着任したその日から部隊を指揮できて当然という立場です。小坂だって、去年の某大国の事案では局内調整全般を一人で立派にこなしましたよ」
同じ「色」の制服を着る佐伯に珍しく褒められた小坂は、照れ笑いを浮かべ、子供のようにペコリと頭を下げた。
「まあ、それが正論だが、この非常事態にそうも言ってられないしな……」
「あ、取りあえず、さっきの日垣1佐の件、急ぎの話だけ担当課に流してきます」
ぼやく松永の斜め向かいで、宮崎は自衛官のように姿勢よく席を立った。
「内閣官房への回答はどうします? 担当課から直接してもらいますか?」
「そうだな。専用回線を使わんでいい範囲の内容なら、そのほうが……」
松永からいくつかの指示を受けた宮崎は、「了解です」と威勢よく挙手の敬礼の真似をすると、キビキビした足取りで廊下へと消えた。
「宮崎さん、テンション高っ。さすが『信者』は違いますわ」
「自称『ファン』らしいけどねえ」
小坂と高峰がひそひそと笑い合ったが、松永は渋面のままだった。
「信者でも何でも仕事が回るなら大歓迎だが……。武内はどうも気になるな。さっきの電話、家族からだったんだろ?」
「そうです」
「年度が変わってからそこそこ調子良さそうに見えたが……。この一か月ほとんど終電帰りで、家族の方が先に参っちまったのかなあ」
「状況はみんな同じですよ。ってか、2部なんてもっとヒドイ状態でしょう? だいたい、N国担当で土日両方休んでるヒト、武内3佐だけじゃないですか。仕事が捌けなくなるのも当たり前だと思うんですけど」
小坂は丸顔をムっと膨らませた。口ひげをいじっていた高峰が、ふとその手を止めた。
「武内3佐のところは、子供がまだ小さいんでしたかな」
「二人目がもうすぐ一歳になると言っていたかと思いますが」
年上の部下の問いかけに、松永は無意識に敬語で応えながら、怪訝そうに眉をひそめた。
「そうですか。……もしかすると、武内3佐は昔の日垣1佐と似たような状況にあるのかもしれませんなあ」
「日垣1佐と?」
他の制服三人が一斉に高峰に注目する。
「日垣1佐のカミさんも初めて東京に出て来て具合を悪くしたことがあるって、前に聞いたことがありましてね。お子さんが幼稚園くらいの頃らしいですが」
「知らない土地に来て、育児ノイローゼか何かに?」
「細かいことはよう知りませんが……。その当時、日垣1佐は海外派遣で家を長期間空けていたそうなんですよ。
高峰は周囲を見回し、声を落とした。つられるように、佐伯もひょろ長い上半身をすぼめる。
「それ、……PKOの名前だけ付いてて、実情は相当危なかったヤツですよね」
「らしいな。俺の同期にも現地に派遣されてたのがいるが、『戦闘状態』が日常茶飯事だった、って言ってた」
松永は、「大きな声じゃ言えんけど」と付け加え、口に人差し指を当てるジェスチャーをした。
「日垣1佐は現地司令部の勤務でしたからまだマシだったでしょうが、家族はやはりたまらんでしょう。現地の情報もろくに入りませんし」
「小さい子供を抱えて、実家は遠く、旦那は長期不在で危険そうな仕事に関わっている、となると……。自衛官のカミさんなんて大抵そういう境遇だと思いますが、よくよく考えると、我々の仕事ってのは家族に大変な生活を強いているもんですね」
三自衛隊の中でも最も転勤が多いと言われる海上自衛隊に属する佐伯は、己の妻の姿を思い浮かべたのか、しんみりと目を伏せた。
「それで、その後、日垣1佐のカミさんは……?」
「お子さんを連れて実家に戻って、以来ずっと市ヶ谷勤務になるたびに旦那だけが単身赴任なんだそうです。武内3佐もそんなことにならんかと、少々気になります」
「まあ、日垣1佐の話に比べると、武内のところはちょっと甘い感じもしますが……」
松永は腕を組み、凝り固まった肩をほぐすように首を回した。そして、頭を大きく横に傾けたところでふと動きを止めた。
「転勤先でカミさんが病んで単身赴任、って最近多いんかな。ちょっと前にも似たような話をどっかで聞いたような気が……」
洞察力に富む視線が、直轄ジマの末席に座る美紗に一瞬止まり、天井へと流れる。
「しかし、武内のこと、どうするかな。今の状況でやらせるのが無理そうなら、早めに担当替えなり配置換えなり検討しなきゃならん」
「着任してまだ二か月ですよ」
「この非常時に悠長に様子見してるわけにもいかないだろ? なるべく穏便に対処する方法を考える」
疲れた顔をした直轄ジマの制服たちは、揃って憂鬱そうに溜息をついた。
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