遠すぎる人(2)
「官房副長官補室の日垣です。今、松永2佐と話せますか?」
「あ……」
穏やかな笑顔が、ひと月ほども前の夜の光景が、強烈に思い出される。ずっと胸の内に押し込んでいた焦がれる想いが、耐え切れずあふれ出す――。
「日垣さん」
震える唇から無防備にこぼれ出た言葉に、向かいの席で騒々しくキーボードを叩いていた3等海佐が愛嬌のある丸顔を上げた。
「何?」
「あ、あの、電話が」
「俺?」
「いえ、松永2佐に……」
美紗は入省したての新人のようにうろたえた。不思議そうに首をかしげる小坂の視線から逃れるように窓のほうを向くと、三人の部下と話し込んでいたはずの松永が美紗をじっと見据えていた。
「俺に電話? どこから?」
美紗は、ますますしどろもどろになりながら、電話の主が日垣であることを上官に伝えた。
「じゃ、早くこっちにつないで」
寝不足が続いているらしい松永は、苛立った口調で自席の上の電話機を指さした。彼の周囲にいる幹部たちがにわかに緊張の面持ちになる。
「電話代わりました、松永です。……いえ、
仏頂面でメモを取りつつ話すイガグリ頭を見ながら、美紗は握りしめていた受話器をゆっくりと戻した。
次に日垣貴仁の声を聞けるのはいつになるのだろう。胸の奥に小さな痛みが走る。
「……了解です。では、急ぎの二件は分かり次第コールバック、他は取りまとめて内局経由でそちらに送るということでよろしいですか。……はい。ああ、今は通常どおりにやってもらっていますよ。本人に代わりますか」
ひととおり要件を聞き終えたらしい松永は、脇にいる武内3等空佐に受話器を渡した。武内は突然ピシリと背筋を伸ばし、上ずった声を出した。
「ご、ご苦労さまです。……その節はご迷惑をおかけしまして……、いえ、日垣1佐のご支援につながることができるのでしたら、本当に光栄です」
目の前にいない相手に何度も頭を下げる航空自衛官を、美紗は羨ましげに見やった。
永田町で勤務することになった日垣貴仁に少しでも近い場所にいたくて直轄チームに残留することを選んだが、幹部の地位にない美紗が彼の業務に直接関わることは、基本的にはない。せいぜい、彼のカウンターパートとなる佐官たちの下で補佐的な役回りをする程度だ。
『ああ、鈴置さん。久しぶりだね』
内閣官房で要職に就く者が実務者レベルにない若い職員にかける言葉としては、ごく自然な、短い文言。今更ながら、日垣貴仁との間に存在する隔たりが年の差だけではないことを実感する。
私にもっと経験があったら、
それなりの肩書きがあったら、
あの人に当てにされるほどの実力があったら……
かつて統合情報局の主と呼ばれていた吉谷綾子の凛とした立ち姿が思い浮かぶ。
防衛駐在官として赴任する前に半年ほど吉谷と同じ部署で勤務したことがあると語っていた日垣は、周囲から「女史」という称号付きで呼ばれていた彼女を、同僚として深く信頼していたようだった。
私が吉谷さんと同じくらい仕事ができたら、
あの人のカウンターパートになれたかもしれないのに――
「あら、切っちゃったの? アタクシも日垣1佐とお話ししたかったわ」
裏返った男の声に、美紗はビクリと顔を上げた。制服たちが一様に嫌そうな顔をする中、銀縁眼鏡が手を頬に添えて唇を尖らせていた。
「宮崎さん。……それ、本人の前でやったら思いっきり嫌われるからな」
「分かってますわ。あのお方は超がつく生真面目ですものね」
妙な口調でふくみ笑いをする宮崎に、松永は大きく咳払いした。そして、困惑の表情で一歩後ずさった武内に渋面を向けた。
「宮崎さんは単に日垣1佐の『信者』だから、気にしないでくれ」
「はあ……」
「いーえ、『信者』ではございません。アタクシは日垣1佐のファンですの」
「あっそ。じゃ、日垣1佐の案件はすべて宮崎さんに丸投げさせてもらう」
「まあ、喜んで承りましてよ」
宮崎は背広姿で品を作る素振りをし、松永の顔を一層しかめさせた。
個性的すぎる内局部員にすっかり圧倒されたらしい3等空佐は、松永のほうにそろりと顔を寄せ、蚊の鳴くような声で質問した。
「……あの、自分は、何をすればよろしいですか」
「武内3佐はさっきの
「日垣1佐の件のほうは……」
「あれは内局(内部部局)も巻き込んだ話になるから、真面目な話、部員の宮崎さんに集約するほうが何かとやりやすいんだ」
「そうですか……」
武内は松永に軽く一礼すると、自席に戻った。美紗の隣で黙々と己の仕事を始めた彼は、小さくためいきをついたようにも見えた。
その武内の向こうで、イガグリ頭と内局部員が、さきほどのふざけた会話など忘れたかのように真顔で打ち合わせを始める。
美紗は彼らの様子を目の端でうかがいつつ、気弱そうな航空自衛官に小声で話しかけた。
「武内3佐、空幕情報課から官邸報告資料の……」
「そうだった! 忘れてた!」
途端に、武内は血相を変えて腰を浮かせた。パソコンのモニターを凝視していた小坂が、美紗と武内のほうをちらりと見やり、再びモニター画面に視線を戻す。
「空幕から電話か何かあった?」
「いえ、2部の先任からついさっきそんなお話を聞いて」
「そっちに問い合わせされたのか。しまったなあ」
武内はますます顔色を悪くすると、散らかった机の下の方からカラーで印刷された書類を引っ張り出した。
その時、美紗の机の電話が再び鳴った。
また日垣さん……?
美紗が手を伸ばす前に、向かいの席の小坂が受話器を取り上げた。
「……はい、いますよ。今、代わりますんで、つないでください」
怪訝そうに応じた小坂は、ずんぐり体形を精一杯斜めに伸ばし、武内のほうに受話器を突き出した。
「ご自宅からだそうです」
「家から?」
統合情報局の全職員は、官用以外の携帯端末を事務所内に持ち込むことを禁止されている。また、情報業務に携わる部署の内線番号はすべて部外には非公開とされていた。
したがって、勤務中の職員に家族が直に連絡を取るには、総務課経由で所属部署に回線を回してもらうしか手段がなかった。
武内は気まずそうに小坂に礼を言うと、電話の相手に小声で応答した。
「どうしたんだ。……分かったよ。こっちからすぐかけ直すから……」
普段は大人しい話し方をする武内が、不快そうに声を押し殺す。妻かららしい電話を早々に切った彼は、「ちょっと悪いけど」と言って立ち上がった。
「武内3佐。空幕の件、私で差し支えなければやっておきます。電波情報関連の開示範囲を担当課に確認すればいいですか?」
「そうなんだけど……。頼んでいい?」
武内は、遠慮がちに美紗に簡単な指示をすると、そそくさと部屋の外へ出ていった。
ドアの自動ロックがかかるのを確認した宮崎は、銀縁眼鏡を直しながら呟いた。
「彼こそ、日垣1佐の『信者』じゃないですかね」
「そんな感じだな」
松永が片方の眉だけを釣り上げる。
「どうも嫌な予感がする」
「何でですか? 『信者』なら喜んでめっちゃ働くのと違います?」
丸い目をさらに丸くする小坂に、松永は何か言いかけ、急に美紗へ鋭い視線を向けた。
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