新たな女(2)
翌朝、盆休み直前の情報局内には、下世話な噂が流れていた。
美紗が、部屋に備え付けのコーヒーメーカーで朝の一杯を淹れていると、「直轄ジマ」のほうから女の大きな声がした。
「鈴置さん今日来てますう? あーっ、美紗ちゃん!」
1等空尉が指し示した方向を見た大須賀は、美紗の姿を認め、「良かった! 休みじゃなくて」とさらに大声を出した。美紗が挨拶をすると、迫力のある胸を強調するようなデザインの真っ青なスーツに身を固めた相手は、恐ろしい勢いで駆け寄ってきた。
「ねえ、聞いたあ? 昨日……」
大須賀はそこで慌てて声を低め、美紗の肩越しに、事業企画課がある方向を睨みつけた。
「へえ、しれっと来てるんだ。八嶋香織」
あまり耳にしたくない名前が呼び捨てにされるのを聞いて、美紗は、あからさまに驚いた顔を大須賀に向けてしまった。
「あ、やっぱ知ってた? あいつが日垣1佐に抱きついたって噂」
美紗は思わず息を飲んだ。前日、偶然二人を目撃した時は、八嶋の頭が軽く日垣の体に触れただけのように見えていたが……。誰もいないと思っていた廊下に、やはり人の目があったのだろうか。そちらのほうが気になる。
「さりげなくキスしてたとか言う人もいるし。信じらんないっ」
大須賀は、大声で喚き散らさない代わりに、握りしめた拳を震わせて怒りを表した。
「それは、ないと、思います。あの背の差じゃ、背伸びしても……」
八嶋は、美紗より五、六センチほど背が高かったが、それでも背丈のあるほうではない。彼女と長身の日垣が共に立ったままで唇を合わせるのはかなり難しいだろう、と美紗は思った。
「そっか。そうだよね。あいつが背伸びしても届かないか。美紗ちゃん、いい分析するう」
大須賀は、アイシャドウで大きく見える目をさらに見開き、感心したように頷いた。そして、急にほくそ笑むような顔を美紗のほうに寄せた。
「立ってキスできるかなんて、結構面白いこと考えてんだね。実は妄想するタイプ?」
「ち、ちが……」
「別にいいじゃん。あ、でも、日垣1佐とのキスシーンなんか妄想したら、アタシが許さないからね」
強烈な言葉を連発する大須賀に、美紗の顔は完全に紅潮した。それをどう解釈したのか、大須賀はますます目を細めて美紗を見据えた。
視線を惹きつける豊満な胸が、脅すように迫る。
「ねえ、美紗ちゃん、八嶋香織の見張り、頼んでもいい?」
「見張り?」
「あいつが日垣1佐に近づこうとしたら、妨害してよ」
そう言って、大須賀は再び、部屋の一角を見やった。美紗もわずかに身体を動かして、大須賀の視線の先を見た。
事業企画課渉外班の席に座る八嶋香織は、前日と同じような地味目のワンピースを着て、なにやらパソコンを操作していた。何事もなかったかのように仕事をしている彼女は、しかし、口を固く結び、ひどく不機嫌そうに見える。
自身が下世話な噂のネタにされていることを、知っているのだろうか。
「妨害なんて、どうすればいいんですか?」
「そうねえ。二人で話してるところ見つけたら、『お疲れさまでえーす』って声かけてやるとか。取りあえず、雰囲気ぶち壊すの」
そのようなことは、鼻息も荒く語る大須賀のほうがよほど適任に思えた。しかし不幸にして、彼女の勤務場所は第1部のひとつ下のフロアにある。
「頼むわね、美紗ちゃん。八嶋香織め、このまま好きにさせてたまるか!」
わざわざ八嶋の話をするためだけに美紗の所に来たらしい大須賀は、古めかしいセリフを残して去っていった。
大須賀から解放された美紗がコーヒーを持って「直轄ジマ」に戻ると、片桐が内局部員の宮崎とこそこそ喋っているところだった。
「それにしても彼女、大胆だねえ」
「僕はもうちょっと控え目なほうがいいっすけど」
「まあ、確かに、職場で目立つのはね……」
「あのテとはうかつに付き合えないっすよ。あっという間に部内で噂になりますから」
下品な笑いを堪えている二人に、美紗は、恐る恐る話しかけた。
「噂って、あの……」
「うわあ鈴置さん! 何でもないからっ!」
フロア中に響くような叫び声を上げた片桐は、椅子ごと後ろに飛びのいた。一方の宮崎は、銀縁眼鏡を直すフリをして表情を隠すと、ひとつ咳払いをした。
「いやいや、ちょっとね。目立つのも善し悪し、って話をしてたんだ」
「そ、そうそう。目立つと周りが迷惑なこともあるなー、って。あ、鈴置さんは全然目立たないから大丈……」
取り繕うつもりの片桐は、余計な事を口走って、左隣にいた高峰に小突かれた。
「迷惑? そう……ですよね」
美紗は小さく呟くと、力が抜けたように椅子に座り込んだ。相変わらず失言の多い1等空尉に高峰と宮崎が盛んに何か言っていたが、美紗の耳に彼らの会話は聞こえなかった。
『知ってた? あいつが日垣1佐に抱きついたって噂』
前日の八嶋香織と第1部長とのやり取りが、どうしたら、そんな「噂」にすり替わるのだろう。
発端は、遠目に二人を見た人間が第三者にその様子を面白おかしく語った、というだけのことなのかもしれない。しかし、話題にあがる人間の社会的地位が高ければ高いほど、無責任な噂話が誹謗中傷のきっかけとなる可能性も高くなる。
美紗は、せっかく淹れたコーヒーを机の端に置いたまま、パソコンの液晶画面をぼんやりと見つめた。画面には第5部が作成した情勢日報が表示されていたが、美紗の目は、全くその内容を追っていなかった。
今になって、八嶋香織に対する不快な感情が、じわじわと湧き起こってきた。
一か月ほど前、日垣貴仁の「奥様代理」として大使館のレセプションに向かう吉谷綾子を見送った時に胸の中に抱いたものとは、全く違う、漠然とした負の感覚。羨望でも、嫉妬でも、劣等感でもない何かが、美紗の思考を侵食する。
どうして、あんなことができるの?
想いを伝えれば、あの人を困らせてしまうだろう。真面目なあの人は、離れていってしまうだろう。だからこそ沈黙を選択した美紗に、八嶋香織の言動は全く理解できなかった。
八嶋は、自身の思うところを、相手に大胆に叩きつけていた。相手の立場も顧みず、職場であろうが人目があろうが、お構いなしだ。想う相手に対して、躊躇なく独りよがりの態度を取れることが、信じられない。
そんな八嶋に、日垣は囁くように言っていた。
『……明日、……いつもの……来てくれれば……』
明日、いつもの店に、来てくれれば――。彼はそう言ったのだろうか。
美紗は、奇妙な息苦しさを感じて、大きく息を吐いた。自分が何かを言う立場にないことは分かっている。それでも、理不尽なものを感じずにはいられなかった。
あんな人が、いつものお店に行くの?
あんな人が、いつもの席に座るの?
あんな人が、日垣さんと一緒に――
八嶋香織への憤りは、未来の航空
それとも、彼女のように想う相手に心の内を堂々と晒す度胸のない自分に向けられた腹立たしさから転じたものなのか。
それすら分からないことが、ますます、苛立たしい……。
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