暑い街の夜


 電話の呼び出し音が、暗く淀んだ美紗の思考をかき消した。「直轄ジマ」の若手三人の机の境目に置いてある内線電話を取るのは、普段は美紗の仕事だったが、この時は雑念に邪魔されて、一歩遅れた。

 指揮幕僚ばくりょう課程の二次試験を控えて気合の入る1等空尉が、素早く受話器を取り上げた。


「統合情報局第1部直轄チーム、片桐1尉です」


 爽やかに応答した彼は、「日垣1佐ですか?」と言って、机の上に散乱した回覧物の中から、統合情報局幹部の行動予定表を引っ張りだした。


「あいにく、今日から休暇に入っていまして、戻るのは来週の金曜日です」


 受話器の向こうで、「なにい! 要職を放り出して長期休暇とは……」とふざけ半分に叫んでいる声が漏れ聞こえた。それが窓際に座る直轄班長の席にまで聞こえたのか、松永が眉をひそめて片桐のほうを見る。

 大声の相手は一方的に喋っているらしく、片桐はほとんど言葉を発することなく、数分後に「了解しました」と言って電話を切った。


「誰?」

の西野1佐という方でした」

「ああ、俺が前の前の任地にいた時の上官だ。日垣1佐の防大ぼうだい(防衛大学校)の時の同期らしいが、レンジャー出身だから、無意味に声がデカイんだ。何の話だった?」

「私用だそうで、直通の内線も携帯もつながらないから、こっちにかけたって言ってました」


 松永は壁時計に目をやった。


「きっとまだ飛行機に乗ってるとこだな。八時過ぎに羽田発って言ってたから、向こうに着くのは……」


 松永の言葉につられて、在席していた他のメンバーも一斉に時計がある方向を見る。美紗だけが一人、片桐の机の上に無造作に置かれた一枚の紙を凝視していた。

 統合情報局幹部の一日の行動予定が記されたその紙は、第1部長が終日不在であることを示していた。


 美紗は、総務課が毎週末に配信する次週の週間予定表をパソコン上でチェックした。第1部長の欄は、月曜日から木曜日まで真っ白で、「夏季休暇」の但し書きが小さく入っていた。


 そういえば、数日前に「直轄ジマ」で、日垣が自身と家族の誕生日に合わせて八月上旬に夏季休暇を取る、という話をしたばかりだった。美紗は、少し腰を浮かせて、事業企画課のほうを見た。

 八嶋香織はやはりパソコンに向かっていた。


 前日、日垣が八嶋に「明日、いつもの店に」と言っていたような気がしたが、聞き間違えだったのだろうか。あの時、日垣の声は低くこもり、階段の所に隠れていた美紗には聞き取りにくかった。その上、美紗自身も、落ち着いて彼らの話に耳を澄ますどころではなかった。

 二人の状況が分からないことに変わりはないが、今夜、日垣と八嶋が「いつもの店」で会う可能性がないことだけは、確かだ。




 課業時間の終了時刻を三十分も過ぎると、盆休みを控えた第1部はいよいよ閑散としてきた。


 その中で、「直轄ジマ」だけが異様に盛り上がっていた。他課の者まで「直轄ジマ」を取り巻き、人だかりを作っている。

 中心にいるのは片桐だった。彼は、一週間余り夏季休暇を取った後、そのまま指揮幕僚課程の二次試験に臨む予定になっていた。

 場にいた全員が、騒々しい「万歳三唱」で激励した。


「少し時代錯誤じゃないすか? それより、ビールなんかで気合い入れていただけるとありがたいんすけど」


 大勢に囲まれても相変わらずのお調子者に、松永は「何言ってやがる!」と怒鳴り返した。


「受かったら俺が好きなだけ飲ませてやる。だがな、『残念会』になったら、飲み代は全額お前に負担してもらうからな!」


 ゲラゲラと大きな笑い声が起きる。片桐はわざと慌てふためくフリをしてひとしきり笑いを取っていたが、やがて、かかとを合わせ「気を付け」の姿勢を取った。


「統合情報局第1部の名に恥じぬように、力戦奮闘いたします。行ってまいります!」


 普段の彼からは想像もつかない立派な挨拶に、盛大な拍手が湧きおこった。若い1等空尉は、十度の敬礼(脱帽時の敬礼の仕方)でそれに応えると、「回れ右」をして、颯爽と去っていった。


「あらま。エラく格好いいですねえ」

「未来の『片桐1』を期待しましょうか」


 嬉しそうな顔で見送る宮崎と佐伯の横で、美紗も思わず笑みをこぼした。以前、日垣は「片桐の受験指導に苦労した」と語っていたが、もし彼が先ほどの片桐の姿を見たらさぞ驚いただろう、と思った。



 片桐の見送りが終わると、人だかりはすぐに散らばり、帰宅する者が目につき始めた。直轄チームの面々も、週明けから夏季休暇に入る佐伯を残して、それぞれ職場を後にした。




 六時前の空はまだ明るかった。日も暮れないうちに職場を出るのは、美紗が統合情報局に異動して以来、おそらく初めてだ。仕事帰りに買い物を楽しむには十分な時間がある。

 しかし、久しぶりの機会を楽しもうという気持ちにはなれなかった。


 むせ返るような暑さの中で、街が、空が、色褪せて見える。


 盆休み前で普段より人通りが少ないせいか。

 それとも、久々に強烈な西日に照りつけられるからなのか。


 美紗は、普段とは少し違う雰囲気の街を歩きながら、暑い空気やまばらな人通りだけがその理由ではないかもしれない、と思った。



 この街に、あの人が、いない……



 日垣の家族は、東京から飛行機と電車を乗り継いで四時間余りかかる遠い街に暮らしている。時間も交通費もかかるため、市ヶ谷勤務になると、家族に会えるのは数カ月に一度になってしまう。そんなことを、彼は「いつもの店」で話していた。


 盆正月や連休に彼が家族の元へ帰るのを、これまで特に意識したことはなかった。

 美紗が日垣と二人で会うのは、月に数回、金曜日の夜の数時間だけだ。それが当たり前のことだと思っていた。休みの日に彼の傍にいたいなどと願うことはなかった。


 今、日垣貴仁は、東京から九百キロほども離れた、見知らぬ場所にいる。



 無性に彼を感じたくなった。美紗は、久しぶりに、自宅とは違う駅に向かう地下鉄に乗った。


 車内に大きく響く走行音が、突然湧き起こった焦燥感にも似た感覚を、じわじわと増幅させていく。

 途中で一度乗り換え「いつもの駅」に着くと、「いつもの階段」を早足で上り、地上に出た頃には小走りになっていた。


 今夜、「いつもの店」に日垣貴仁は来ない。溢れそうになる想いを抑えられるかと、不安に思う必要もない。彼を慕う女性が姿を見せるのではないかと、怯える必要もない。

 今夜だけでも、彼のお気に入りの空間で、彼の気配に身を寄せていたい。



 空が夕方らしい色へと徐々に変化していく中、交通量の多い四車線の大通りを走り、すぐに細い路地へと入った。突き当りにある十五階建ての雑居ビルにたどり着くと、ちょうど一階に来ていたエレベーターに乗った。

 美紗は、階数ボタンを押して、大きく息をついた。日が傾いているとはいえ、真夏の街中を急いだせいで、目まいを感じるほど息が切れ、かなり汗ばんでいた。


 いつもの店がある十五階のフロアは、ほんのりと空調が効いていたエレベーターの中よりも、かなり涼しかった。生地の薄いフレアスカートのスーツの上から、人工的な冷気が、美紗の体をすうっと冷ましていく。


 頭がすっきりしてくると、急に些末なことが気になりだした。


 落ち着いた雰囲気のバーに汗だくで登場とは、なんとも可笑しな姿に違いない。

 マスターはどんな顔をするだろうか。このひと月ほど店に来なかった理由を、なんと説明したらいいだろうか。


 ついさっきまで小走り気味だった足が、徐々にゆっくりになり、店の入り口で完全に立ち止まった。



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