1等空尉の不満(1)
急に欠勤した人間の仕事を第1部長にやらせる、と言い出した直轄班長の比留川2等海佐に、1等空尉の片桐は、大笑いしながらも「それはいくらなんでも」と異を唱えた。
「議事録作るくらいなら、僕やりますよ。たまには活躍して点数稼ぎたいですから」
若い尉官の冗談交じりの提案を、しかし、比留川は渋い表情のまま断った。
「今日のやつはちょっとな……。ああ、それに、相手は海外の『お客さん』だから、ブリーフィングから質疑応答まで全部英語。お前、やれるか?」
「あっ、駄目です」
海外の「お客」と聞いて、片桐はあっさり引き下がった。
出世の登竜門となる教育課程である指揮
頼りなげな面長の顔を見て、比留川はまたもやため息をつくと、机の引き出しから官用携帯を取り出した。そして、「調整に行ってくる」と言って第1部の部屋を出て行った。
出入り口のドアが閉まり、自動ロックがかかる音が聞こえた途端、片桐は口を尖らして文句を言い始めた。
「比留川2佐、いつもそうだけど、ホント嫌味。僕の語学検定のスコア知ってて、ああいうこと言うんだから。でも、英語の会議なら、やっぱ日垣1佐に押し付けるのが一番ですよ。僕と違って英語ペラペラだし」
「そうなんですか?」
彼のはす向かいに座る美紗は、相槌代わりに尋ねた。
直轄チームに来た当初は、仕事を覚えるのに精一杯で、一日中ほとんど誰とも話すことなく過ごしていたが、最近になってようやく、おしゃべりな片桐の話し相手をするくらいには、チームに馴染み始めていた。
片桐のほうも、童顔の新米を見るとリラックスするのか、美紗とは好んで雑談した。
「日垣1佐は、確か
「頭良し、見栄え良し、人格良し。三拍子そろって、ホント完璧な上司よねえ」
光沢感のある高そうな背広を着た三十すぎの男が、銀縁のスクエアフレームの眼鏡を手で触りながら、妙な言葉遣いで二人の会話に入ってきた。
「宮崎さん、オネエ言葉やると、また比留川2佐に怒られますよ。あの人、そのテのネタ大嫌いだから」
片桐に「宮崎さん」と呼ばれた男は、「彼がいなくなったからやってんのよ」と言いながら、わざとらしく手を頬にあてる仕草をした。
以前、片桐が「ものすごく面白い」内局(内部部局)部員、と美紗に紹介したその彼は、いわゆる七三分けの銀行マンのようなヘアスタイルで、未来の高級官僚に相応しい、隙のない風貌をしていた。しかし、口を開けば、シニカルながら機知に富むトークを披露し、常に直轄チームの面々を笑わせていた。
「キミも完璧な『片桐1佐』を目指しなよ。男女問わず、絶対モテるわよ」
美紗は、毎日のように繰り広げられる二人の滑稽なやり取りに、ついクスリと笑った。
しかし、隣にいる富澤3等陸佐は、もうすっかり慣れているのか、彼らを全く無視して自分の仕事に専念していた。
「僕が日垣1佐を目指すなんて言っても、比留川2佐にバカにされるだけですよ。それに、僕はもう彼女いるからいいんです」
片桐は、指揮幕僚課程の選抜試験に向けた「受験勉強」でストレスをためているのか、急に真顔になると、ぶつぶつと愚痴りだし、それが止まらなくなった。
「でも、いいですよね、海外経験ある人って。努力しなくても普通に読んで聞けて話せるんだから。だいたい、語学力なんて、『現地経験有り』の人じゃないと、結局、仕事では使いモノにならないと思いません?」
片桐の最後の言葉に、美紗はかすかに暗い表情を浮かべて下を向いた。仕事もそっちのけで喋ってばかりの若い彼の思いは、そのまま、自分が心のどこかに常に抱えているわだかまりだった。
「そりゃあ、僕だって、機会があれば留学とかしたかったですよ。でも、防大で留学生に選ばれるのは、元から語学できる奴らでしょ。それに、あそこは私費留学認めてないから、僕みたいにこれから勉強しようって人間には、初めっから全然チャンスないんですよ。なんか、不平等じゃないすか。自分の部屋でちまちま勉強してるより、先に海外に出してもらえれば、僕だってすぐに……」
「務まらなくて、速攻、帰国だね」
それまで黙っていた富澤が、手にしていた書類に視線を落としたまま、不機嫌そうに片桐を遮った。
「ぐだぐだ文句ばかり言ってるようじゃ、肝心の試験を受ける前に、日垣1佐の推薦すらもらえないぞ。無駄口きいてる暇があったら、勉強すればいいだろ」
富澤の声は珍しく怒気を含んでいた。普段、隣にいる新入りの美紗に仕事のアドバイスをする時の口調とは、明らかに違っていた。
しかし、片桐はそれに全く気付かず、さらに不満を口にした。
「勉強時間がたくさん取れる人はいいですけどね。ここ残業多いから、九時五時勤務の同期に比べたら、僕はかなり不利ですよ。だいたい、尉官の僕がここに来る羽目になったのは、日垣1佐と喧嘩したっていう前任者のせいでしょ。ほんと、ツイてないんだから」
「ツイてるだろ。そのアホのおかげで、未来の
険悪なやり取りが始まり、美紗は困った顔で富澤の向こう側にいる宮崎を見た。お洒落にスーツを着こなす部員は、キャスター付きの椅子に座ったまま、その椅子ごと美紗のほうに近寄ってきた。
「うちもさ、今でこそこんなガヤガヤやってるけど、去年の春あたりは、その『アホ』ってのがいたせいで、大変だったらしいよ。僕も、片桐1尉とだいたい同じ時期にここに来たから、直接修羅場を見たわけじゃないんだけどね」
宮崎は、銀縁眼鏡を光らせると、さらに美紗のほうに顔を寄せて、ひそひそと話した。
「ホントは、『直轄ジマ』の空自ポストは3佐相当で、片桐1尉の前任者も3佐だったんだ。だけど、そいつは中身が階級と合っていない、いわゆる問題児だったらしくて」
「何が問題だったんですか?」
美紗は思わず心配顔になった。自分もその「問題児」に当てはまる言動をしていないかと不安になった。何しろ、業務支援隊に所属していた二か月前は、第1部長の日垣に『噂のカウンターパート』と、良くない意味で記憶されていた経緯がある。
美紗の疑問に答えたのは、片桐との険のある会話を中断した富澤だった。
「宮崎さん風に言うなら、無能、無責任、おまけに階級主義。三拍子そろって、ホント最悪だった」
富澤は、当時のことは思い出したくもないという様子で吐き捨てるように言うと、ますます仏頂面になった。
代わりに、再び宮崎が事の顛末を美紗に解説した。
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