スパイ嫌疑(2)


 次の日、美紗は自席でぼんやりと座っていた。周囲は、頻繁に鳴る電話の呼出音や人の話し声で、ひどく騒々しかった。


 いつもの「直轄ジマ」の光景が、なぜか異様に感じられた。慌ただしい時間の流れから、自分ひとりだけが切り離されたように感じる。

 シマの誰かが何か言っているが、早すぎて聞き取れない。



「聞いてるのか、鈴置!」


 大声で名前を呼ばれ、美紗はやっと声のするほうへ振り向いた。背後に先任の松永が立っていた。


「5部がよこしてきたペーパーは、チェック終わったのか!」


 キーボードの上に置かれた美紗の手は、しばらく前から完全に止まっていた。昼過ぎに頼まれた単純な作業が、二時間経っても半分ほどしか終わっていない。


「すみません、まだ……」


 美紗は生気のない顔で呟くように答えた。


 前日に統合情報局のデータベースからロックアウトされていた美紗のIDは、朝から使えるようになっていた。

 しかし、それでスパイ嫌疑が晴れたことになるのかは分からなかった。第1部長の日垣が、別の思惑でアクセスを許したということも考えられる。


 当の日垣からは、まだ何の話もなかった。自分はやはり信用されていないのだろうか。上官に疑われたまま、これからずっと勤務することになるのだろうか。


 美紗の頭の中はそんな思いに占領され、とてもパソコン画面に表示される文書を読むどころではなかった。



「何やってんだ。内容が情報要求に合ってるか見て、表記を統一するだけだろ。9部の報告書と合わせて、今日中に海幕かいばく(海上幕僚ばくりょう監部)に出さなきゃならないんだぞ。すり合わせする時間がなくなるだろうが」


 松永は苛立ちも露わに声を荒げた。美紗は何か言いかけて、下を向いた。

 口は荒いが面倒見のいい松永は、きっと自分の話を親身に聞いてくれるだろう。しかし、他言無用を命じた第1部長の鋭い目を思い出すと、声が出ない。


「回答期限は『今日中』なんだから、日付の変わる一分前に持ってきゃ文句言われんよ。海幕の奴らはどうせ二十四時間営業なんだし。そんなカリカリしなくていいだろ」


 同じ案件で、技術情報を扱う第9部との調整を担当していた比留川2等海佐は、珍しくのん気な口調で二人の間に割って入った。普段、毒舌の多い直轄班長は、ナンバー2である松永の機嫌が悪い時だけは、なだめ役に回るのが常だった。


 松永は、「全く」と悪態をつくと、書類が挟まったバインダーを二つ、美紗の机の上に放り投げるように置いた。


「日垣1佐のとこに入れとけ。急ぎじゃないから、未決箱に投げておけばいい。ついでに、顔洗って来い!」


 美紗は、ろくに返事もせずにふらりと立ち上がると、バインダーを手に取り、よろめくように第1部長室へと歩いて行った。

 それを、「直轄ジマ」の一同が怪訝な顔で見送った。


「あいつ、今日は朝からずっとあの調子だな。使い走りにもならない」

「昨日、うまくいかなかったんすかね?」


 とげとげしい言葉を吐く松永をちらりと見ながら、片桐が、斜め左に座る宮崎に小声で話しかけた。

 宮崎が顔を上げる前に、比留川が即座にその疑問を否定した。


「そんなことなかったぞ。鈴置の議事録見たが、かなりいい出来だった。まあ、俺は会議そのものには出てないが……。日垣1佐も特に直しなしでOK出したそうだ」

「じゃあ、昨日の疲れだっていうんですかね? でも鈴置の奴、昨日は定時ジャストで帰ったそうじゃないですか。自分に何の報告もなく」


 松永は不愉快そうに自分の席に戻った。

 前日、米国との情報交換会議の最後のセッションに出た松永は、五時すぎまで長引いた会議の後、建物一階のエントランス付近で顔を合わせた同期につかまり、くだらない人事の噂話に付き合わされた。さほど長話をしたわけでもなかったが、彼が「直轄ジマ」に戻ってきた時には、すでに美紗は帰宅してしまっていた。



「定時で帰るなとは言いませんけど、定時で帰られちまうとは思わないでしょう、普通」

「帰っていいって、日垣1佐が言ったんだろ? 佐伯」

「そうです。『鈴置さん疲れてるだろうから、早く帰してやれ』って」


 松永が会議に出ている間に、日垣は、ちょうど美紗が議事録を作り終えた頃を見計らったかのごとく、二度目の連絡を入れてきた。彼は、美紗の仕事の進捗状況を確認すると、出来上がった議事録を部長室に入れるよう指示し、さらに彼女を即刻帰宅させろと命じた。

 電話を受けた佐伯は、それを新米職員への単なる気遣いと解釈した。



「それで鈴置が帰ったからって、お前が文句たれる筋合いないだろ。だいたいお前さ、あいつの仕事を自分が一番に見られなかったもんだから、それが面白くないんだよな」


 比留川にたしなめられ、松永はむすっと口を曲げた。比留川と同じ色の制服を着た佐伯は、困り顔で松永をなだめた。


「鈴置さんも、松永3佐が戻る前に事務所を出るのを気にしてたんですよ。でも確かに、昨日は鈴置さん、妙に疲れた顔してましたね。だから、こちらもせかすように帰してしまったんですが……」


 松永は、ふうん、とますますふてくされた返事をすると、佐伯から第1部長室のほうに視線を移した。


「鈴置が日垣1佐と一緒に出たセッション、議題はテロ問題だったな。何かあったんかな」

「でも、日垣1佐から特段の話もなかったんでしょう?」


 松永は、まだ納得がいかない様子で頷き、少し間をおいてから、眉をひそめた。


「現場で些細なお小言でももらったんかな。あいつ、どうもメンタルなとこ弱いから」


 比留川が、片方の眉をひくりと上げて、松永のほうを見る。


「鈴置、間違いなく、黙って溜めこむタイプだな。こういう時こそ、指導役のお前の真価が問われるんだぞ」

「せめて、片桐くらい口の軽い奴だったら、いろいろ話も聞いてやれるんですがね」


 松永はにわかに心配顔になった。



 松永に妙なところで引き合いに出された当の片桐は、面長の顔にいたずらっぽい表情を浮かべ、年の近い先輩二人にひそひそと話しかけていた。


「鈴置さん、きっと彼氏のことで、いろいろお悩み中だったんすよ」

「アホか。どういう根拠でそういう推論になるんだ。自分を基準に分析するなって、いつも言われてるだろ」


 富澤が呆れ顔で返す一方、宮崎はニヤリと口角を上げた。


「今回に関しては、僕は片桐1尉の推測に一票投じるね」

「ほらあ。宮崎さんが言うんだから間違いないでしょ。で、その根拠は?」 

「彼女、今日、腕時計をしてない」


 在席していた六人全員が、仕事の手を止め、一斉に宮崎を見た。


「あれ、みなさん、観察が甘いですねえ。彼女、いつもブレスレットみたいな時計してたでしょ。それが、今日は、ない」

「だから?」


 片桐が「シマ」全員の疑問を代弁した。宮崎は、銀縁眼鏡を光らせて、ドラマの探偵役よろしく得意げに顎を撫でながら、自分の推理を披露した。


「あの時計、彼氏からのプレゼントだったんだとみるね。それが、昨日の夜に別れ話になったんで、今日は外してきた。昨日、彼女は珍しく定時帰りだったんでしょ。それなら、仕事帰りに彼氏と会っていたっておかしくない。ま、会わないで電話だけだったって可能性もありますけど。会うか話すかして、別れ話になった可能性が大かな、と……」


 片桐はがぜん目を輝かせた。他人の浮いた話には目がないらしい。

 一方、先任の松永は渋い顔で腕を組み、天井を見上げた。仕事の面倒を見てやっているとはいえ、女性職員のプライベートな問題には、さすがに安易には立ち入れない。


「じゃあ近々、あいつの愚痴を聞く会でも開くか。暗い酒になりそうだが」


 比留川がふざけてしかめっ面をすると、松永を除く四人のメンバーは無遠慮な笑い声を上げた。

 悪ノリが過ぎる「直轄ジマ」の手綱を締めるのは、いつもはチーム最年長の高峰3等陸佐の役どころだったが、彼は前日に引き続き、今日も欠勤だった。



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