スパイ嫌疑(3)
美紗は、自分が雑談のネタにされているのも気付かず、第1部長室の入り口に立ち尽くしていた。
ドアが半開きになっているのは、部屋の主が在室していることを意味している。しかし、松永に持たされた書類を届けるだけのことが、理由もなく怖くて、ドアをノックできない。
「ああ、鈴置さん。何?」
美紗の姿に気付いた日垣が、先に声をかけた。聞きなれた物静かな口調だった。美紗が、「入ります」と挨拶して部屋の中を覗くと、大きな執務机の向こうに、見慣れた優しげな顔があった。
前日の彼とはあまりにも違う姿が、美紗をひどく動揺させた。
「あの、……故意じゃ、ないんです」
無意識のうちに、そんな言葉を漏らしていた。
「本当に、出そびれただけなんです」
「何の話?」
日垣は静かな笑顔のまま応じた。それが、白々しくも、空恐ろしくも感じる。
「落としたものを探していたら、人が入ってきたのに気が付かなくて……」
「昨日、私が言ったことを覚えてるか」
上官の声が急に低くなる。しかし美紗は、自分が何をしに来たのかも忘れて話し続けた。
「すぐ出ようと思ったんですけど、日垣1佐のお話が始まってしまって、キリがつくのを待っていたら、相手国側の出席者の中にCI……」
「鈴置さん!」
日垣は席を立ち、大股で美紗に歩み寄った。柔らかだった眼差しが、いつのまにか射貫くような鋭い目に変わっていた。
美紗は息を飲み、悲痛な声を出した。
「……知らなかったんです。あんな話をすることになっていたなんて」
「その件は……」
「内容はほとんど聞いていません。プロジェクト・オフィス(準備室)の方々の顔も、全然見ていないんです」
「それより、松永に何か頼まれて来たんじゃないのか。そっちの話をしてくれ。何か持ってきただけなら、置いていってくれればいい」
「本当に何も知らないんです。私は何もしてな……」
「昨日のことは指示があるまで口にするなと言ったはずだ!」
涙目で訴え続ける美紗を大声で遮った日垣は、彼女が持っていた二つのバインダーを奪い取り、中を一瞥した後、両方とも未決箱に放り込んだ。そして、机の上に置いてあった別の書類を手に取ると、険しい顔で美紗のほうに向きなおった。
「鈴置さん。体調が良くなさそうだね。医務室で少し休んできなさい。比留川と松永には私から話しておくから」
まだ何か言おうとする美紗を無視して、日垣は部長室のドアを大きく開けた。
直轄チームの全員が、珍しく不機嫌そうな第1部長に一斉に視線を向けた。「直轄ジマ」の騒々しい会話が部長室に筒抜けなのは毎日のことだったが、部長室でのやり取りも、大きな声になれば部屋の外にかなり聞こえてしまっていた。
日垣は、苦虫を噛み潰したような顔で「直轄ジマ」に歩み寄ると、手にしていた書類の中身を比留川のほうに示した。
「比留川2佐、この件でちょっと話がある。それから、鈴置事務官は具合が悪くて勤務できないそうだ。今、医務室に行かせたが、業務に支障ないか」
「問題ありません。今やらせている内容は他の人間でも対応できますので」
比留川は立ち上がって即答すると、「だろ?」と松永に同意を求めた。それに松永が応答するより早く、日垣は、部長室の前で立ち止まったままの美紗に、早く行けと手を振った。
松永は、小さな人影がとぼとぼと部屋の出入り口に向かうのをしばらく見ていたが、やがて、佐伯とともに、第1部長と直轄班長の会話に耳を傾けた。
若手三人は、機嫌の悪い第1部長のほうをちらりと窺い見た後、お互いを見回した。
奇妙な沈黙を破ったのは、普段は口数の少ない富澤だった。
「そういえば昨日、階段で転んだって言ってたな」
「鈴置さんが?」
富澤は、前日の夕方に席を空けていた宮崎と片桐に、その時の美紗の様子をかいつまんで話した。
「男のこと考えて、ぼーっとしてたのかなあ。それとも、階段で別れ話でも始まって、言い争ってもみ合いになって……」
片桐は、女性職員の「恋の悩み」というネタが頭から離れないようだった。富澤がひそひそ声で彼の見解を否定した。
「それはないな。階段で転んだって言ってたのは昨日の夕方。その前に彼氏に会うってのは、物理的に有り得ないだろ?」
「いや、相手が部内なら、十分有り得る」
宮崎の銀縁眼鏡が自信ありげに光った。
「彼女も入省三年目なんだから、部内にお相手がいたって全然おかしくない。そりゃあ、
「彼女、振られる側? 宮崎さんもひどいこと言うなあ」
「情勢分析に情けは無用なの。どう見たって、あの感じじゃ、振るより振られるほうが似合ってるでしょ」
「そっかあ……。彼氏に冷たくされて、追いすがったら振り払われて階段から落ちた、ってわけですか。なるほどねえ」
片桐は勝手に納得すると、一人二役で恋愛ドラマの修羅場を演じて見せた。宮崎がクスクス笑うと、調子に乗った若い1等空尉の声は、つい大きくなった。
「いい加減にしろよ。みんな見てるぞ」
生真面目な富澤に制されて、片桐はやっと黙ると、慌てて周囲を見回した。幸い、第1部長と比留川は、面倒事らしい案件の書類をめくりながら話し込んでいたが、その傍らで、松永と佐伯が片桐を睨んでいた。
「直轄ジマ」に近い総務課と、その向こうの人事課の中にも、片桐のほうに注目している顔がちらほら見える。
片桐は、ヘラヘラと笑いながら、冷ややかな空気をごまかすように視線を泳がせ、そして、ある一点を凝視したまま固まった。
「す、鈴置さん……。まだ、そこにいたんだ……」
ひどく狼狽した声に、「直轄ジマ」にいた一同も、片桐が見る方向に一斉に目を向けた。
彼の席から五、六メートルほど離れたところにある部屋の出入り口で、美紗がドアに張り付くようにして立っていた。蒼白な顔で、何も言わず、ただ「シマ」のほうをじっと見つめている。
「今の、聞こえてたな」
「俺たち、セクハラ?」
「かもな」
小声でささやき合う三人は、美紗と同じくらい血の気の引いた顔色になっていた。
しかし松永は、美紗の目が彼らを見ていないことに気付いた。
「鈴置……、大丈夫か?」
松永は立ちあがると、「ちょっと医務室まで付き添ってきます」と比留川に声をかけ、席を離れた。
それとほとんど同時に、彼の背後から大声が飛んだ。
「そこで何してる! 早く行きなさい!」
普段はまず大声など出すことのない日垣の怒鳴り声に、広い第1部の部屋全体がしんと静まり返った。
びくっと身を震わせた美紗は、やがて、身を翻してドアの裏側へと消えた。自動ロックのかかる音だけが、部屋の中に無機質に響いた。
「こっわあ……。何で?」
ぽかんと口を開けて日垣のほうを見た片桐は、1等空佐の階級を付けた彼に鋭く睨みつけられ、慌てて目を伏せた。
一方、松永は憮然とした顔で振り返ると、険しい顔をした上官の前に歩み寄った。日垣より十センチほど背の低い松永は、しかし、がっちりした体格にイガグリ頭という風貌のせいか、妙に荒々しい雰囲気に満ちていた。
「日垣1佐、鈴置が何かやらかしましたか」
「松永。今、急ぎの話してんだ」
危うい気配を察した比留川が止めに入っても、松永はそれを無視して続けた。
「問題があれば、まず自分に話を入れてください。鈴置の指導役は自分ですから」
丁寧な言葉遣いの中に、遠慮のない怒気が含まれる。
日垣は「分かった」と吐き捨てるように言うと、松永の前に立ちはだかる比留川に何か一言二言指示した後、足早に部長室に消えた。
普段うるさい「直轄ジマ」は、その後は夕方まで静かだった。
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