スパイ嫌疑(1)
美紗が統合情報局第1部に戻ると、「直轄ジマ」には、佐伯3等海佐と富澤3等陸佐の二人しかいなかった。
いつも丁寧な物腰の佐伯が、にこやかに声をかけてきた。
「鈴置さん、お疲れさま。特に問題なかったでしょう?」
美紗は、しどろもどろになりながら、担当セッションの記録内容を議事録にする作業が全くできていないことを伝えた。
「今からで全然問題ないですよ。比留川2佐は、急遽、外に出ることになって、今日戻ってきても、たぶんかなり遅いから」
「しばらくはうるさい奴が全員席空けだから、仕事はかどるぞ」
富澤が、太い眉を寄せて、パソコン画面を見つめたままぼそりと呟く。彼の発言が誰を念頭に置いているのかは定かでなかったが、普段から口数の多い二人の机の上はこぎれいに片付いていた。
佐伯が、内局部員の宮崎は内局側の会合に、片桐1等空尉は指揮幕僚課程の部内勉強会にそれぞれ出ていて、二人とも五時半までは戻ってこないだろう、と美紗に教えた。そして、
「ミリミリ細かい『保護者』も、今、最後のセッションに出てるし」
と、付け足して、先任の松永3等陸佐の席を指さした。
佐伯の言葉にニヤリと笑い返す富澤の横で、美紗は返事に困りながら、ぎこちなく席に座った。
「直轄ジマ」に残る二人は、どちらかと言えば静かなタイプだったが、その分、言葉少なに他人を観察しているような感じもする。
美紗が、机の上のノートパソコンを開くと、佐伯が「そういえば……」と再び口を開いた。
「さっき日垣1佐から電話があって、今日中に鈴置さんの議事録を見たいと言ってたけど、できそう?」
日垣の名を聞いた美紗は、つい怯えたような目を佐伯のほうに向けた。しかし、佐伯は壁の時計に視線を移していた。
「日垣1佐のほうも、今は何かの会合に出てるらしいし、夜はさっきの会議の『お客さん』の接待があるから、見るっていっても、かなり遅い時間になるんじゃないかな。慌てる必要ないから、のんびりやって」
日垣の会合の相手は、おそらく対テロ連絡準備室長とその配下の者たちだ。秘密会合の内容を警察庁の側にどこまで伝えるか、今頃こそこそと協議しているのだろう。
佐伯には、そのあたりのことは、やはり伏せているのだろうか。
「私と富澤君で作業を見てやってくれって頼まれたから、分からないところがあったら、ご遠慮なく」
「でも、鈴置さんのだけ『今日中』っていうのは、何ででしょうね。議事録なんて、そんなに急ぎでもないでしょうに」
富澤の何気ない言葉に、美紗は凍りついた。日垣のあからさまな意図を感じた。
美紗が担当したセッションで本来の仕事に集中していれば、手で記録した内容を議事録のフォーマットに作り替える作業など、さほど時間も手間も必要としない。
出来上がりまでに不自然な挙動がないか、日垣はそれを確かめようとしているに違いない。しかも、美紗の監視を、さりげなく陸と海の二人の幹部に頼んでいる。
『身の潔白を主張するつもりなら、今後の行動にはせいぜい気を付けろ』
地下通路に追い出された時に聞いた日垣のセリフが、頭の中にこだまする。
美紗は深呼吸するように大きく息をついた。胸の上に握りしめていた書類を机の上に置くと、午前中、片桐が揃えてくれた参考資料がないことに気が付いた。それが入った書類ケースごと、日垣に取り上げられてしまっていた。
仕方なく、美紗は、佐伯と富澤の様子をちらりと見やりつつ、情報局のデータベースにアクセスしようとした。データを検索すれば、日垣に取られたものと同じ資料を閲覧することはできるはずだ。
しかし、美紗のIDはログイン不可になっていた。数回試しても、やはり、はじかれる。
原因はすぐに想像できた。第1部のすべての権限を握る日垣が、先に手を回して、美紗のIDを無効にしたのに違いなかった。
美紗は、すばやくログイン画面を閉じると、セッション中に取った記録内容だけを見て議事録を作り始めた。
片桐に持たされた参考資料の中身はだいたい覚えている。議事録作成にさほどの支障は感じない。それよりも、当該資料が手元にないという事実のほうが問題だった。誰かにそのことを指摘されたら、どうごまかせばいいのか……。
「鈴置さん、どうかした?」
突然、富澤が右隣から声をかけてきた。
「いいえ! な、何で、ですか?」
思わず声が上ずった。美紗は、富澤と視線を合わせないようにしながら、彼の様子を窺い見た。
角ばった顔が、キーボードの上に置かれた美紗の手をじっと見ていた。
「いや、音が何か変な感じしたんだけど。悪い、気のせいだ」
キーを叩く音がおかしいというのだろうか。美紗は十文字程度を打ってみた。左指がキーに触れるたびに、左腕にわずかに痺れるような感覚が走る。それを無意識に厭うせいか、左手の動きがかなり遅くなっていた。
珍しく静かな「直轄ジマ」で、リズムの乱れたキータッチが、隣に座る富澤には妙に耳についたのだろうか。それとも、やはり彼の観察眼は相当鋭いのか。
「さっき階段で、ちょっと、転んで……」
取りあえず適当な言い訳をしようとして、美紗は途中で口を閉じた。
会議場があった建物の、階段踊り場での光景が、にわかに頭の中に浮かび上がった。日垣の恐ろしく冷たい視線が、身体を調べられた時の彼の手の感触が、鮮烈に蘇る。
キーボードの上の手が震えた。それを富澤に見られないよう、ぎゅっと握りしめた。
「少しだけ、休んできて……いいですか」
「大丈夫? 捻挫でもしたんじゃない? 医務室に行って診てもらったら……」
富澤が言い終わる前に、美紗は席を立ち、第1部の部屋から走り出た。
出入り口からさほど遠くない場所にある化粧室に飛び込むと、個室に入って吐いた。昼食を取ってからすでに三時間以上経っていたせいか、ほとんど出るものはなかった。それでも、吐き気は治まらなかった。
早く戻らないと「直轄ジマ」にいる二人に怪しまれる。胸に残る不快感をこらえながら、美紗は個室のドアを開けた。
いつの間に入ってきたのか、スラリと背の高い女が、洗面所の大きな鏡の前で化粧直しをしていた。決して若くはないが、洗練された都会的な雰囲気に満ちている。美紗の記憶では、確か総務課の所属だ。
ベージュ基調のスーツの上着に「吉谷綾子」と書かれた名札を付けた彼女は、自分の背後を歩く新入りの女性職員が口元を押さえている様子を見逃さなかった。
「鈴置さん? どうしたの?」
顔を隠そうと下を向く美紗に、吉谷は、ブランドものの色鮮やかなハンカチを差し出した。
「私もう終わったから。ここ、ゆっくり使って」
柔らかな笑みを浮かべた吉谷は、美紗が何か言うより早く、化粧室を出て行った。独りになった美紗がふと鏡を見ると、こわばった蒼白な顔が今にも気を失いそうに震えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます