嘘と偽りの世界(1)
行き止まりにあったのは、落ち着いた雰囲気のバーだった。壁三面に大きな窓があり、夜の街が一望できる。
L字型の大きなカウンターでは、美しい夜景をバックに、六十代とおぼしきマスターが、カウンターに座る客をもてなしていた。オールバックスタイルの灰色の髪が、穏和そうな顔立ちにいささかの貫禄を与えている。
彼は、日垣を見ると、わずかに頭を下げ、無言で店の奥を指し示した。そして、長身の常連客の影から現れた美紗に、「いらっしゃいませ」と静かに声をかけた。
美紗は子供のように店内を見回した。本格的なバーは初めてだった。
マホガニー調に統一された空間はほどよく暗く、かすかに流れる音楽が訪れる者の心を解きほぐす。マスターのいるカウンターも、テーブル席も、七、八割ほど埋まっているが、客の側もオーセンティックバーの楽しみ方を心得ているのか、シックな空間に溶け込むかのように、穏やかに談笑している。
日垣は、店の奥へと進み、衝立に囲まれた窓際のテーブル席へと歩いて行った。
テーブルの上には、「予約席」と書かれたプレートが載っていた。日垣はそこに躊躇なく座り、美紗に奥側をすすめた。
美紗は、言われるままに、肌触りのいいソファタイプの椅子に座った。
左側にある窓から、電気の宝石を散りばめた街並みがよく見える。視線をテーブルに戻せば、小さなガラスの容器に入ったキャンドルが、ほのかに揺らめく光を散らしていた。
「何か食べた?」
「いえ、何も……」
「ここは、普段は食事は出さないが、マスターに頼めば何か用意してくれる。何がいい?」
日垣が言い終わらないうちに、黒の上下を艶やかに着こなすマスターが、メニューを手に、静かに近づいてきた。さほど背の高くない彼は、衝立の向こう側で立ち止まると、客に呼ばれるのを黙って待っている。
日垣は、うつむいたままの美紗にそれ以上聞こうとはせず、手を挙げてマスターに合図すると、いくつかのものを注文した。
マスターが立ち去ると、日垣は急に仕事の顔になった。
「では、君の話の続きを聞こうか」
美紗は、日垣の背後と自分の右脇にある衝立のほうに目をやった。不特定多数の人間が集まる場所で前日の出来事を口にすることに、ためらいと不安を感じずにはいられなかった。
「大丈夫だ。周囲の席は誰も座らないように、マスターが取り計らってくれている。長い付き合いだからね。頼めば、何でもやってくれるんだ」
店の暗い照明にぼんやりと照らされた日垣の顔には、長年情報畑を歩いてきた者の用心深さが滲み出ていた。それが、美紗をひどく委縮させた。
「私も東欧で
「やめてください。聞きたくありません」
美紗は声を詰まらせた。前の日からずっと抱えてきた恐怖が込み上げてきた。襟元を押さえ、震える唇から息を吐くと、こらえきれずに涙がこぼれた。
「悪かった。ちょっと冗談が過ぎたね」
低く柔らかい、驚くほど優しい声音。美紗は深く下を向いたまま目をつぶった。
この人は、声まで嘘がつける。
昨日の彼と、今、目の前に座る彼。どちらが素でも怖い。自在に嘘を操ることができるのは、持って生まれた気質なのか。それとも、嘘と偽りが交錯する世界に、長い間身を置いたせいなのか。
「ひとつ、聞きたいことがあるんだ」
前日の尋問口調とは違う、静かな問いかけだった。美紗は、うつむいたまま、怯える兎のように耳をそばだてた。
「君の持ち物の中に、
「会議室に、置き忘れてあったんです。後で担当の方に届けようと思って……」
その書類を回収しようとした時に手に持っていたものをすべて取り落とし、慌てて拾い集めたが、USBメモリだけなかなか見つからなかった、と美紗は消え入りそうな声で話した。
「それで、テーブルの下にもぐって探していた、ということだったのか。なぜ、置き忘れの資料のことを最初に言わなかったんだ」
日垣は、少しクセのある前髪をかき上げながら、失笑を漏らした。
半ば安堵し、半ば呆れたような、ため息にも似た、抑えた笑い。
美紗は唇を噛んでそれを聞いていた。あの階段の踊り場で、説明する時間はほとんど与えられなかった。矢継ぎ早に厳しく問い詰められるばかりで、事実を順序立てて話すこともできなかった。
そう反論したくても、今もやはり、うまく言葉が出てこない。
「そういう余裕もなかった、と言いたげだね。まあ、わざとそう仕向けたんだが……」
優しい声が言い淀む。美紗は、まつ毛の先に小さな滴をつけたまま、ゆっくり顔を上げた。まだ青白い顔に、かすかに憤りの色が浮かんだ。
「テーブルの下で落とし物を探していたら次のセッションが始まっていた、というのは、正直言ってかなり信じ難いシチュエーションだが、君が嘘をついていないだろうということは、感触としてはすぐに分かった。誘導尋問にいちいち引っかかるし、一貫して支離滅裂な受け答えだったからね」
「分かっていらしたなら、どうして……」
美紗は、背広を着た上官に、はっきりと抗議の目を向けた。
一方的に犯罪者のように扱われた時は、心底怖かった。あの時の彼の冷酷な視線が、高圧的な声が、またもや偽りだったとは、あまりにも人を馬鹿にしている。作りものの恐怖に激しく怯える姿は、彼の目にはさぞ滑稽に映ったに違いない。
「あの場で、どうしても、君が『シロ』だという確証が欲しかった。だから、少し心理的に圧力をかけて、反応を見させてもらった」
「私を、試したんですか」
感情を押さえようとしても、言葉を発するたびに声が震える。頬についた涙の跡が頭上のペンダントライトの光に照らされると、元から幼い顔立ちは、すっかり泣きじゃくった子供のようになってしまった。
日垣は、困ったように小さくため息をつくと、静かに怒る美紗の目をまっすぐに見つめた。
「物を無くした、部内情報を外で喋った、という単純な事案なら、迷わず保全課に任せるところだ。だが、今回は海外の『お客』が絡んでいる。紋切り型に処理するわけにはいかないんだ。対応がマズいと国際問題になりかねない」
「あのセッションのことは誰にも話していません。会議場に居残ってしまった不手際は謝罪します。それで……」
「済むんだったら、ああいうことはしていない」
日垣は、形の良い眉をわずかに寄せた。
「今回の件は、うちの保全課に話を入れれば、間違いなく情報保全隊に報告が行く。そうなれば、スパイ行為を前提に内部調査が入るだろう」
情報保全隊は、その名の通り、情報漏洩の防止を任務とする専門部隊で、情報管理のみならず、外部組織の自衛隊に対する諜報活動の監視、さらには、防衛省関係者の身辺調査までをも行っている。必要があれば、自衛隊内での捜査権限を持つ中央警務隊と連携して、部内スパイ摘発を目的とした調査活動を実施することもある。
「私が嘘をついていないと、分かってくださったんじゃないんですか」
心細そうな声がまた泣き出しそうになった。日垣はそれに淡々と答えた。
「情報保全隊は私の権限の外だ。一旦彼らが調査を始めたら、私が何を言っても、参考程度にしか受け取られないだろう。そもそも、君に悪意がないことを証明するのは、かなり難しい。連中は『やった証拠』を探すのが仕事で、無実の証拠集めをしてくれるわけじゃない」
一般的な家庭に育った美紗は、左翼的な団体に関わることもなく、海外に出る機会もないまま、大学を卒業し、その後すぐに防衛省に入っている。国の安全保障上好ましくない人物と接触したことなど、あるはずもなかった。
しかし、それを物理的に証明する手段がない。
「もし故意はなかったと認められても、次には、君の言う『不手際』が追及される。海外の『お客』絡みで、保全上の不手際は本来あってはならない話だ。相手国との信頼関係にひびが入るからね。こういう場合、国家間の関係を維持するために、当事者は大抵スケープゴートにされがちだ」
「再発防止のために、見せしめにされるんですか?」
「どちらかというと、相手国に対するパフォーマンスだ。『わが国は秘密保全に厳しく取り組んでいます』というアピールをするのさ。当事者に妙に重い処分を下してね」
個人を犠牲にして組織の対面を守る、というやり方は、防衛省に限らず、一般の公的機関や民間企業でもありがちなことだ。
日垣は嫌悪感も露わにため息を漏らすと、テーブルの隅で静かな光を放つキャンドルに視線を落とした。
「……過去の事例から言って、スパイ嫌疑をかけられるような保全問題を起こした者は、依願退職に追い込まれるケースが多い」
美紗は力が抜けたように目を伏せた。そんな事態を予想しなくはなかったが、現実に上官の口からその言葉を聞かされると、やはりショックは大きかった。失職後の不安を思う前に、無様で不名誉な辞め方をしなければならないことが、あまりに惨めだった。
「私としてもそれは不本意だ。もともと君は情報交換会議に関わる予定はなかったのに、実戦練習のいい機会だと安直に考えた私の判断ミスだ」
日垣の言葉は、ますます美紗を落ち込ませた。
冷遇されていた自分を統合情報局に引き抜いてくれた第1部長から名指しで任された小さな仕事は、美紗にとっては大きな第一歩となるはずだった。それが、完全に彼の期待を裏切る結果になった。使えないどころか、はた迷惑な存在になってしまった。
「そうしょげるな。同じ失敗を繰り返さなければいいことだろう」
「でも、私はもう……」
「保全関係のところに話を入れるつもりはない。今回のことは、とりあえず何もなかったことにする」
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