見知らぬ街


 美紗が直轄チームに戻った時には、すでに五時近くになっていた。やりかけたままの仕事は、すでに先任の松永が引き継いでいた。


「少しは良くなったのか? 具合が悪いなら、ちゃんと言ってくれないと……」


 松永は、「すみません」と小さな声で答える美紗の顔色が青白いままなのを見て取ると、すぐに帰宅するようにと言った。


「さっきのアレは、気にすんな。俺が文句言っといたから」


 悪ふざけのすぎた三人組は、がっくりと頭を下げて美紗に謝罪した。美紗は当惑顔で黙っていた。実のところ、彼らの下世話な雑談などほとんど耳に入っていなかった。


 松永は、小さくなっている三人を一瞥すると、

「こいつらにも相当反省してもらうつもりだが、今俺が言ったのはうちの部長のほう。あんな時に、別に怒鳴ることないだろうに」

 と、第1部長室に聞こえよがしに声を大にした。


「家まで自力で帰れるか? タクシー券が余ってるか、聞いてくるわ」


 直轄班長の比留川が、のっそりと腰を上げる。


「大丈夫です。すみません。一人で帰れます……」


 美紗は慌てて頭を下げると、逃げるように職場を後にした。親切な上官や先輩たちに決して言えない秘密を抱えてしまったことが、彼らに対する裏切り行為であるような気がして、泣きたくなるほど心が痛んだ。




 日垣が指定した駅は、防衛省の最寄り駅から地下鉄で三十分ほどの所にあった。

 駅の上に広がる街に、美紗は一度も行ったことがなかった。言われた時間までにはまだ一時間以上あったが、時間を潰すのに適当な場所も分からない。かと言って、見知らぬ街をぶらぶら見物する気分には、とてもなれなかった。


 美紗は、ホームの壁に掲示してあった駅構内図を見て、行くべき出口を確認すると、近くにあった椅子に座った。

 地下鉄の長い車両が、数分おきに入ってきては、慌ただしく発車する。そのたびに、会社帰りの人々がホームに溢れ、すぐにいずこかへと散っていった。当たり前の光景が、なぜか、テレビの映像でも見ているかのように、非現実的に感じられる。


 これからどうなるのだろう、という不安で、美紗の心はいっぱいだった。どんな責任を問われるのか。やはり、辞めることになるのだろうか。辞めて済む話なのか……。



 七時前になり、美紗は地下鉄の改札を抜け、地上に出た。

 四車線の大きな通りは、ビルの明かりや車のライトに満ち溢れ、眩しいくらいだった。オフィスビルが立ち並ぶ中に、重厚な構えのブランドショップや高級レストランが点在している。行きかう人々のほとんどはスーツ姿で、十代の若者はまず見かけない。

 洗練された、いわゆる大人の街だ。


 日垣から渡された紙に書いてあった電話番号は、美紗の携帯に登録してあった統合情報局第1部長の官用携帯のものとは違っていた。しかし、電話がつながると、出たのはやはり日垣だった。

 彼に指示されるまま、美紗が見知らぬ街の大通りを歩いていくと、しばらくして、後ろから「鈴置さん」と声をかけられた。


 私服を着た日垣が立っていた。


 静かな笑顔を浮かべる彼は、官用携帯とは違う、スマートフォン型の携帯端末を手にしていた。

 剣襟に四つボタンの濃紺の制服をかっちりと着こなす昼間の印象に比べると、夜の街明かりに照らされた背広姿は、ずいぶんと柔らかな雰囲気だった。



 日垣は、美紗を先導して賑やかな大通りを歩き、すぐに細い脇道に入った。急に街灯が少なくなり、人通りがまばらになる。


 どこに行くのだろう。


 美紗が問うより早く、チャコールグレイの背広を着た大きな背中は、見知らぬ闇色の道をどんどん先へ行ってしまう。


 美紗の胸に、うっすらとした不安がよぎった。あの穏やかな眼差しの下に隠れるものを、自分はすでに知っている。知っていて、言われるままについて行っている。

 今まで自覚したこともなかったが、心の底に、自分自身に対する投げやりな気持ちがあるから、自然と彼を追って足が動くのだろうか。歩きながら、美紗は自問自答した。

 

 どのような形であっても、職を失えば、同時に住む場所を失うことだけは確かだった。今住んでいるワンルームの自宅は、防衛省が独身寮として民間から借り上げているものだ。退職と同時に引き払わねばならない。


 美紗には帰るところがなかった。実家はあるが、ありふれた幸せがあったはずのそこは、すでに灰色の世界に変わり果ててしまっている。


 夢も温もりもない場所に埋もれるのと、虚偽の世界に生きる人間の後をついて歩くのと、どちらがマシなのかは、分からない。



 日垣は、暗い道の突き当りにある細長い雑居ビルに入っていった。外観こそ小ぎれいなその建物の中は、決して新しいとは言い難かった。

 エレベーターが来ると、日垣は先に乗り、ドアを手で押さえて美紗を待った。明かりの下で、夏物の背広が艶やかな光沢を放っている。


 美紗は、吸い寄せられるように、エレベーターの中に入った。


「ここに馴染みの店があってね。隠れ家みたいに使わせてもらっているんだ」


 日垣は、最上階となる十五階のボタンを押した。美紗は黙ったまま、エレベーター壁面に貼られたフロア案内を見た。飲食店がたくさん入っているらしいビルの十五階部分は、空欄になっていた。



 何があるの……?



 美紗は、隣に立つ背広の男を見上げた。職場では見たことのないような和やかな横顔が、ドアの上にある階数表示を、ただ静かに見つめていた。



 最上階に着き、エレベーターホールに出ると、事務所のような部屋が二つ並んでいるのが見えた。すでに従業員は帰ってしまっているのか、両方とも部屋の中は暗い。

 よく見回せば、事務所名らしき表示はどこにも見当たらなかった。


 美紗がいよいよ不信感を募らせる間にも、日垣は人気のない二つの部屋を通り過ぎ、通路を奥へと歩いていく。


 ついて行ってはいけない。頭のどこかで、何かが警告する。



 階段に突き当たったところで、少し細くなった通路は、左へと折れていた。にわかに人の声が聞こえ始めた。



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