ブルーラグーンの戸惑い
「ふ、不倫? あは、何か、ドラマみたい。僕、あんまりそういうの見ないけど」
征は、居心地悪そうに作り笑いをすると、二つ並んだコリンズグラスのひとつに手を伸ばし、その中身を一気に飲み干した。
「ごめんなさい。嫌な話を……」
「いえっ、別にっ。その、何っつうか、意外ですね。鈴置さんのトコ、お堅い職場だと思ってたけど……」
征は、テーブルの向こうでうつむく美紗をちらりと見つつ、背徳的な話題を軽く受け流す言葉を適当につなぎながら、空になったグラスをコースターに戻した。
グラスの中に残った氷が、カランと悲しい音を立てた。
「そっか、日垣さんにも、家族……」
こげ茶色の髪の下の藍色の瞳が狼狽に揺れるのと、黒い前髪に半分ほど隠れた瞳から涙がこぼれるのが、ほとんど同時だった。
「ちょっと、何か作ってきます。ほら、鈴置さんのグラスも空いちゃってるし」
征は早口で言うと、美紗にメニューを見せるのも忘れて、逃げるように席を離れた。
窓の向こうに広がる大都会の街明かりが、店の隅のテーブル席にぽつんと座る美紗のところへ、光の波となって押し寄せ、過去の残像の飛沫を上げる。
この店に誘ったのは、あの人
でも、そうさせたのは、私
この席で、優しい言葉を口にしたのは、あの人
でも、そうさせたのは、私
少し歩こうか、と言ったのは、あの人
でも、そうさせたのは、……たぶん、私
窓ガラスに人影が映った。美紗がはっと振り向くと、透き通った青いカクテルをトレイに載せたバーテンダーが立っていた。
「すみません。オーダーを伺うのを、忘れてましたね」
征は、細身のカクテルグラスを静かに美紗の前に置いた。先ほどよりもゆっくりめに話す声は、ずいぶん落ち着いて聞こえた。
美紗は、洗練された佇まいのバーテンダーに、潤んだ目を向けた。
「あの、日垣さんは……」
「これ、僕のオススメです。お口に合わなければ、別のものを作り直してきますから、取りあえず、どうぞ」
テーブルの上に置いたグラスを美紗のほうに静かにずらした征は、藍色の目をそっと細めた。穏やかながら有無を言わせぬ口調が、美紗から言葉を奪う。
「ブルーラグーンです。ウォッカをブルーキュラソーとレモンジュースで割っています」
美紗は、グラスの中の鮮やかな青に見入った。
家族のいるあの人の残像が、その青い色に吸い込まれるように、薄くなっていく。
「きれいな、色ですね……」
美紗の言葉に、征は静かな笑みを浮かべ、そして急に、恥ずかしそうに頭をかいた。表情を崩したせいか、包み込むような笑顔が、ゆるりと、愛嬌のある初々しい表情に変わる。
「本当は、水色に近い青になるはずだったんですけど、急いで作ったら、ブルーキュラソーを入れ過ぎちゃって……」
確かに、サンゴ礁に囲まれた海のような色になるべきそのカクテルは、かなり青みが強く、紺色に近いように見えた。熱帯魚が泳ぐ浅い海というより、やや深い海の中を連想させる。
美紗はグラスを手に取り、透明な青い液体にそっと口をつけた。ベースのウォッカに優しく包まれたレモンの香りが、顔の周りにじわりと広がっていく。
「あ……、思ってたより、甘いですね」
「ブルーキュラソーが多すぎたから、特に甘くなっちゃったかもしれません」
軽く頭を下げる征の顔は、ますます子供っぽくなった。
「青い色は、どうやって出しているんですか? その、ブルー……」
「ブルーキュラソーという、オレンジのお酒を使ってるんです」
「オレンジ? それがどうして青いの?」
「青は、実は着色料なんですよ。ホワイトキュラソーっていう無色のオレンジリキュールがあって、それに青い色をつけたのが、ブルーキュラソー。自然の色ではないんですけど、僕、青い色のカクテル作るのが好きで。こういう色を見ていると、嫌な事があってもすうっと忘れられそうな感じがするでしょう?」
専門分野の知識を披露する征は、少年のように藍色の目をきらきらとさせる。
美紗は、頷いて彼の言葉に賛同の意を示すと、再び青みの強いブルーラグーンを見つめた。
美しく透き通るその色は、青と紺の間の色合いが一面に広がるあの場所を、思い出させた。
この店からほど近いところにある、美しいイルミネーションで彩られた光の庭。
今も訪れる二人連れを華やかに照らしているであろう、その青い空間は、些細なことに揺れ動く心を静め清めるような森厳さに満ちていた。
そして、精一杯の切ない決意を惑わすには十分すぎるほど、幻想的だった。
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