梅雨時の憂鬱(1)


 統合情報局第1部に異動して一年と少しが過ぎた頃、美紗は初めて、第1部長が部下の前で愚痴をこぼすのを見た。

 以前、残業する美紗に面白おかしく内輪話を披露していた時とは違い、日垣の顔は、窓の外に広がる梅雨空のように憂鬱そうだった。



「こんなに早く市ヶ谷に戻って来るとは、自分も思いませんでしたよ」

「あのは全くもって人材不足なんだな。ああいうのが副長になるとはね」


 直轄班長の松永2等陸佐と先任の佐伯3等海佐の間にパイプ椅子を置いて陣取っていた日垣は、珍しく険のある物言いで応えた。

 イガグリ頭が渋い顔で頷く。他の面々も急に押し黙り、「直轄ジマ」は珍しく陰気な空気に覆われた。


 その中で、先の年度末に転属してきた小坂3等海佐だけが、ガキ大将を思わせる丸顔に興味津々という表情を浮かべ、一同を見回した。


「何の話です? 今月一日いっぴ付けで着任の空幕くうばく副長(航空幕僚ばくりょう副長)、何か『いわくつき』なんですか?」


 彼の人懐っこそうな目と抑揚豊かな口調に、浮かぬ顔だった1等空佐は思わず表情を緩めた。吉谷綾子に「二人目の小僧」と評された新入り幹部は、暗いムードを一瞬で吹き飛ばすような、底抜けに明るい性格をしていた。


 日垣は「そういうわけじゃないが……」と苦笑いして、髪をかき上げた。


「二年前かな、今の副長と喧嘩したんだ。どうも私は考え無しのところがあって……」

「考え無しは向こうのほうですよ」


 片桐1等空尉が口を尖らせて上官を遮った。

 美紗は、仕事の手を止めて、彼のほうをそっと見た。怒りも顕なその顔から察するに、件の空幕副長が絡む過去の出来事は、なんとなく想像がついた。しかし、日垣にとっては相当嫌な思い出であろう事柄をわざわざ尋ねるのも、彼に申し訳ないような気がして、黙っていた。

 そんな気遣いを、右隣に座る3等海佐が遠慮なくぶち壊した。


「二年前じゃ、相手はその当時すでに将補しょうほ(少将相当)ですよね。将官と喧嘩って、いったい何があったんです?」


 困り顔で言い淀む日垣に変わり、小坂の目の前に座る高峰3等陸佐が解説役を買って出た。


「佐伯3佐の前の前の先任が、空の3佐だったんだが、とにかくヒドイ奴でね」


 問題の3等空佐の下で実際に勤務していた高峰の話は、何とも生々しかった。

 恐ろしく管理能力に欠ける当時の先任は、支離滅裂な指示で直轄チームを振り回しては、各調整先ともめ事を起こし、その尻拭いをすべて部下に押し付けた……。

 そんな醜悪な話の数々に、小坂はすっかり顔色を変えた。


「いやー、恐ろし。私がCSシーエス(海の指揮幕僚課程)に一発合格してたら、『暗黒時代』の直轄チームに来てたかもしれないんですねえ」


 指揮幕僚課程の選抜試験に二回失敗している小坂は、「二年足踏みをしたおかげで難を逃れた」と安堵の表情を浮かべた。


「あなたの前任者は、当時はうちで一番若かったから、その先任にいいように使われて、ホント気の毒だったよ」

とみさん、あのアホ先任のこと、『無能、無責任、階級主義』って言ってたからね。しっかしホント、大変だったんだなあ。一杯おごってやりたいけど、今、北海道だもんな」


 内局部員の宮崎は、年度末まで隣の席にいた富澤3等陸佐の不幸を想像し、しみじみと独り言ちた。


「で、その空の3佐ってのは、どうなったんです?」


 遠慮がちに聞く小坂に、松永は首を掻き切るジェスチャーをして見せた。


「着任三カ月くらいで、な」

「そ、それはずいぶん、早いですね……」


 小坂は素直に当惑の表情を見せた。

 3佐クラスの自衛官は、ひとつのポストに最低二年は在籍するのが通例だ。一年で異動の場合は「やや問題あり」と解釈される。一年待たずしての異動ともなれば、特に不祥事を起こしていなくとも、人事上かなりのマイナスとなった。



「いや、遅いくらいだったよ」


 会話に入ってきた日垣は、腕を組んで、パイプ椅子に背を預けた。


「私が対処を迷っている間に、あやうく富澤をうつ病にするところだった」

「はあ、その昔の先任って人、ずいぶん強烈なお方だったんですねえ。で、その御仁と今の空幕副長、何か関係が?」


「従兄なの」


 日垣に変わり、宮崎が左隣にいる3等海佐に耳打ちした。


「アホ先任の従兄がご出世して、この七月で空幕副長になったってわけ」

「うわ、最悪。それで、その従兄さんの将官とひと悶着?」


 宮崎は銀縁眼鏡を光らせて小さく頷いた。小坂は口をぽかんと開けて第1部長をしげしげと見たが、日垣のほうは無言で笑い返すばかりだった。


「で、問題の先任ってのは、無事に追い出せたんですか?」

「追い出せたけど、無事とは言い難いね。アホ先任はともかく、従兄閣下のほうは権力かざして後々まで嫌がらせしてくるし。ま、ドロ臭い話が聞きたかったら、続きは飲み屋で」


 銀縁眼鏡の下でニヤリと笑う宮崎に、今回が初めての中央勤務となる小坂は「そんなこと、ホントにあるんですねえ」と眉をひそめた。

 そこに、片桐がたまりかねたように口を挟んできた。


「僕も、そんな話、ここ来て初めて聞きましたよ。将官なんて、部隊なら『雲の上の人』でしょう? そういう人が、バカな親族をかばって嫌がらせするとか、普通あり得ませんよ!」


「現実には、いろんな人間がいるさ」


 声が大きくなる片桐を、人生経験の多い高峰は静かになだめた。


 指揮幕僚課程を修了したエリート幹部の中にも、人間的にそのステータスに相応しくない者は存在する。所詮、筆記テストや論文で人物を総合的に評価することはできないからだ。そのような者は、大抵は部下からの人望を得られず、人格的に優れた同期の後塵を拝することになる。

 しかし、ごくたまに、そのような不適格者が、ライバルの不運な失脚などで、棚からボタモチ式に重職ポストにありつくケースがある。そして、実力主義を謳っていても年功序列の風潮を色濃く残す軍隊や自衛隊においては、運だけで高級幹部にのし上がってしまった人間を後から排除することは極めて困難なのが現状だった。



「……やっぱり、噂通りの人でしたね」


 小坂はすっかり真顔になって、ぼそりと呟いた。


「そいつ、海自にまで悪評が知れてるんすか。運だけで将官になったアホ、とか言われてんでしょう?」

「片桐。制服を着ている時は、そういう口をきくもんじゃない」


 やや品位を欠く発言をした若い1等空尉を諫めたのは、当事者の一人である日垣だった。


「上位の人間をあからさまに軽んじるような言動は、自分の信用を無くすだけだ」

「そうですけど……、そんな人が幕の副長なんて、同じの人間として恥ずかしいですよ」

「気持ちは分からなくもないが、CS(空自の指揮幕僚課程)に行こうかという者が、思ったままを軽々しく喋るようではいけない」


 片桐は不服そうに口を結んだ。

 春に指揮幕僚課程の選抜一次試験を受けた彼は、一週間ほど前に、日垣から合格の報を受けたばかりだった。その時は「有り得ない奇跡」と上官の前で大騒ぎしていたが、ひとしきり感情を発散した後は、時間を惜しんで勉学に励むようになった。

 八月下旬に予定されている二次試験に向け、純粋な希望と期待感を静かに募らせる彼にとっては、己が目指す教育課程を出ながら尊敬に値しない言動を取る高級幹部が、許しがたい存在のように感じられるのだろう。



「別に、同士とか、そんなん関係ないだろ? それに、自慢できる1等空佐殿がここにおられるし」


 小坂は、自分より五歳ほど年下の片桐に陽気に笑いかけると、日垣のほうにずんぐりした身体を向けて、姿勢を正した。


「私が先ほど言った『噂通りの人』というのは、日垣1佐のことです。防大の同期で空自に入った人間に、私がここに異動する話をしたら、とても羨ましがられたんですよ。素晴らしい人の下で勤務できる、と言われて。その時はよく分からんかったですが、同期の言うとおりです。こういう方にご指導いただけるとは、本当に光栄です」

「急に何なんだ。おだてても何も出ないぞ」


 居心地悪そうに髪に手をやる日垣の横で、宮崎が、わざとらしく口元に手をやりながら、奇妙な目つきで小坂のほうを見た。


「ちょっと、今頃うちの部長の魅力にお気付きなの? 僕はここ来て1時間で惚れちゃったわよ」

「それ、どういう意味に取ったらいいですかね?」


 オネエ言葉にたじろぐ小坂に、一同が失笑する。その中で、片桐だけがにわかに立ち上がり、1等空佐をまっすぐに見つめた。


「おだてとかじゃないです。本気でそう思ってますから」

「片桐まで急にどうしたんだ」


 日垣はいよいよ困ったような表情になった。しかし、直轄チームのベテラン勢は、温かな笑みを浮かべて、彼らの会話を静かに見るばかりだった。

 皆、片桐と同じ思いなのだろう、と美紗は思った。


「日垣1佐。僕が空幕勤務になる頃には、変な人を全部追い出して、幕内を牛耳っていてくださいよ。できれば防衛部長になって」

「それは、防衛部長になって『僕』を引き抜け、という意味かな?」

「あっ、そうです、そうです。よろしくお願いします」


 とたんに顔の筋肉を緩めてぺこりと頭を下げるお調子者に、幹部の面々は爆笑した。


「コネづくりに精出す前に、CSの二次試験に受かるのが当面の問題じゃない?」


 宮崎が銀縁眼鏡をギラつかせてツッコミを入れると、片桐は首を吊るジェスチャーをして、ヒキガエルのような声を出した。

 美紗はキーボードを叩きながらクスリと笑った。片桐のリアクションが可笑しかったのも確かだが、無遠慮な部下たちとくだらない雑談をした日垣が優しい笑顔に戻ったことが嬉しくて、自然と自分の顔もほころんでしまった。



 日垣は、松永からいくつか書類を受け取ると、「邪魔したね」と言って立ちあがった。


「おかげで、嫌な『仕事』をひとつ片付ける元気が出たよ」


 直轄チームの全員が、一斉に第1部長に目を向けた。処理すべき案件があるのかと、「シマ」の雰囲気が素早く仕事モードに切り替わる。


「いや、そういう話じゃない。今週の金曜日に、フランス大使館のレセプションがあってね。革命記念日の祝賀行事で、これまでも顔出し程度に出席してきたんだが、今年は、新任の空幕副長もお出ましだろうから……」


「現地で天敵と顔合わせですか。確かに気が進みませんな」


 日垣より六、七歳年上の高峰が、口ひげをいじりながら渋い顔になる。対照的に、愛嬌ある顔立ちの小坂は、明るい声で口を挟んだ。


「そういうの、夫妻単位なんでしょ? 奥さんに隠れ蓑代わりになってもらうわけにはいかないですかね」

「日垣1佐は、こっちには単身で来ておられるんだよ」

「じゃあ、うちの部の誰かを『奥さん代理』で連れてってしまえば……」


 3等海佐の、階級にはあまりそぐわない軽口に、美紗はなぜかドキリとした。


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