梅雨時の憂鬱(2)


 日垣さんの、奥様の、代理



 小坂の奇妙な提案に、彼は何と答えるのだろう。美紗は一人、身を固くした。耳がそばたつ一方で、日垣のほうを見ることができない。


「それって、タダ飯食えるんすか? 大使館の?」


 日垣の言葉より先に聞こえてきたのは、食い意地の張った1等空尉の声だった。


「しかもフランス! めっちゃうまそう! 僕行きたいです!」


「うちの部長の『奥様代理』に男がついてってどうすんだ」

「きっと変な誤解招いちゃうわねえ」


 宮崎が再びオネエ言葉で茶々を入れると、下世話なジョークで盛り上がる若手と彼らを叱りつける班長の松永の声で、「直轄ジマ」はますます騒がしくなった。

 その様子を、美紗はぼんやりと見つめていた。


 レセプション、つまり、立食形式のパーティでは、大勢の関係者が一堂に会し大半の時間を自由に歓談して過ごす。二人連れで出席したとしても、当の二人で落ち着いて話す時間など全くない。

 それでも、パートナーの肩書で第1部長に同行することは、あまりにも意味深なシチュエーションに感じられる。



「じゃあ、うちの鈴置でも連れて行きます? 鈴置、今週金曜の夜、何か予定あるか?」


 松永の声に、美紗ははっと顔を上げた。身体中に緊張が走り、「ありません」と答えるのが、一瞬遅れた。


「隠れ蓑代わりの奥さん役なら、もう少し年長の経験豊かな人間のほうが、やりやすいんじゃないですかね」


 佐伯が、ひょろりと細長い上半身を伸ばして、総務課のほうを見た。日垣と松永も佐伯の視線を追う。

 「直轄ジマ」よりよほど粛々とした空気に包まれた総務課では、スラリと背の高い女性職員が、圧倒的な存在感を放っていた。


「文書班長の吉谷女史あたりなら、どんな事態にも対応できますよ。彼女はフランス語も流暢だそうですから、連れて行く理由もできますし。何より、……近寄り難い雰囲気なのが、今回の場合はうってつけかと思いますけど」


 最後のほうは声が小さくなった佐伯は、吉谷と目が合いそうになって慌てて首をすくめた。「確かにな」と呟く松永の傍らで、日垣は黙って佇んでいた。

 その姿勢の良い立ち姿を、美紗はそっとうかがい見た。


 彼は、じっと、吉谷綾子のほうを眺めている。口元にわずかに笑みを浮かべているように見えるのは、気のせいなのか。



「吉谷女史は、子供がいるから、夜は難しいんじゃないかな……」


 高峰が口ひげから手を離し、眉を寄せた。


 美紗は、言葉を発しようとして、急に息が詰まるのを感じた。

 私がご一緒します、と言ったら、周囲にはどう思われるだろう。レセプションに同行するだけのことに、何か深読みをするほど、みんな暇ではないはずだ。


 意を決したその時、小坂が、ガキ大将のごとく口を横に広げ、白い歯を見せた。


「8部でフランス語できる人を連れてったらどうです? 例えば……、あの子。見た目もちょっと迫力あるし、日垣1佐のことお気に入りだそうですから、きっと喜んで行きますよ」


 美紗は、開きかけた口を閉じ、思わず右隣の3等海佐を凝視した。早口で話す彼の言葉の後半部分が、頭の中でエコーする。


「ええっと、名前なんだったかなあ。ほら、ちょっと丸っこくて、声大きくて、結構ケバくて、胸がこうバーンとデカい……」

「そういう言い方やめろ」


 松永が睨みつけると、あやうく品のないジェスチャーを見せそうになった小坂は、胸のところに持ってきた両手を慌ててひっこめた。


「もしかして、大須賀おおすがさん?」


 片桐が口だけ動かすように囁くと、小坂は数回ほど小さく頷いた。


「なんでそんなこと知ってんすか?」

「情報収集はオレの得意分野だ。なにしろ情報局勤めだからな」

「うちに着任して、まだ四カ月じゃないですか」


 気心知れた仲の片桐と話す時だけ一人称が「オレ」になる小坂は、急にニヤニヤと顔を崩した。その横で、高峰が回覧中の部内誌をくるくると丸め始めたが、無駄話に興じる二人はそれに全く気付かず、ひそひそと軽々しい話を続けた。


「実はさあ、この間オレ、彼女にちょっと声かけたんだ」

「マジすか。何て?」

「まあ……、『メシおごるから一緒行かない?』みたいな。そしたら、『アタシ、日垣1佐みたいな人が好みだから、ゴメンナサイ』って、あっさり断られちった」

「いろんな意味で日垣1佐とは正反対っすからね、小坂3佐は」

「お前、しばくぞっ」


 半分笑いながら声を大きくした小坂に、丸めた雑誌の一撃が飛んできた。


「何をくだらんこと言ってんだ。さっさとやることやらんかっ」


 珍しく声を荒げた高峰は、続けて片桐の頭を叩き、大きなため息をついた。さすがに縮こまる二人に、「シマ」の他のメンバーが苦笑する。

 しかし、美紗は笑うどころではなかった。普段、仕事上の接点がない第8部に所属する女性陣の顔を、必死に思い出していた。


 地域担当部は、それぞれ、主に分析業務を担当するセクションと、電波や画像などの特殊情報を扱うセクションに、大きく二分されている。第8部のうち、前者に所属する女性職員は、確か四、五名ほどだった。

 後者は、第1部が入る棟とは別の、秘匿性の高いエリアに指定された建物の中にあるため、そこに立ち入るクリアランスを持たない美紗には、状況は全く分からない。以前に誤って紛れ込んだ極秘会議もその建物の地下で行われたのだが、その時も、会議関係者以外の姿は全く見かけなかった。


 誰だろう。とにかく、日垣貴仁に興味を抱く女性が、彼の行動範囲内に存在することは、間違いない。



「あのっ」


 美紗は、書類に目をやりながら自分の背後を歩き過ぎようとする上官を、やっとのことで呼び止めた。日垣は、その小さな声を聞き漏らすことなく、背をかがめて美紗を見た。


「さっきの、レセプションは……」

「あれはいいんだ。個人的なことで、不愉快な現場に付き合わせるわけにはいかないから」


 端正な顔立ちが、穏やかに笑いかける。別に構わないから連れて行ってほしい、と言うわけにもいかず、美紗は唇を噛んだ。もう少し適切な言葉はないかと焦る。


 その間に、日垣は、「それに、若い鈴置さんが私の奥さん役では、あまりに可哀想だ」と苦笑いして、そのまま部長室のほうへ歩いて行ってしまった。


 

 美紗の胸の中で、何かが飛び回っているような、焦燥感にも似た不快な感覚が、にわかに広がっていった。

 それが、「奥様代理」という役を掴み損ねたせいなのか、それとも、突然「ライバル」の存在を聞かされてしまったせいなのか、自分でも分からなかった。



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