ランチでの噂話(2)
「私の友達だった人の話、聞いてくれる?」
まつ毛の長い大きな目が、じっと美紗を見つめる。
「五歳下だけど同期だった子がいてね、ずっと8部で一緒に働いてたの。年の割にはデキる子だったんだけど、……同い年の彼氏がいたのに、彼氏と別れてまで、同じ部にいた家族持ちの四十代と付き合い出しちゃって」
美紗はごくりとつばを飲み込んだ。
『彼女は情報のプロだ』
以前、日垣が吉谷を評した時の言葉が思い出される。美紗は、急にいわくありげな昔話を始めた大先輩の意図を、必死に探ろうとした。しかし、社会に出て数年の人間に、憂いを映す吉谷の瞳のその奥を推測することは、できなかった。
「相手のほうは、最初は『お食事止まり』のつもりだったみたい。でも、同期の子はもともと押しが強くて、あまり周囲の目とか気にしない性格だったから……」
吉谷の話では、かなり昔に不倫事案を起こしたというその友人は、当時、二十九歳だった。統合情報局に配置されてから四年足らずで、吉谷と同時に、ヒラの事務官から下級幹部待遇の専門官に抜擢された。
二人は、良きライバルとして、順調にキャリアを積み上げていった。しかしある時、同じ部に海上自衛隊の3佐が転属してきた。
都会的な風貌のその男は、自衛官には珍しく、かなり遊び慣れたタイプだったらしい。彼と吉谷の同期が、単なる仕事仲間から親しい間柄へ、そして、夜を共に過ごす関係になるまでの期間は、異常なほど短かった。
吉谷は職場の異変にすぐに気付き、好ましくない噂が部内に流れていることを、たびたび本人に忠告した。しかし、その時すでに、彼女の同期は理性的な判断力を失っていた。
「周りの人って、そんなに見ているものなんですか?」
吉谷の話を遮った美紗は、変な質問をしたと後悔した。常に気にかかっていることが、うっかり口をついて出てしまった。
吉谷は、美紗の顔を覗き込むように見ると、「こういう話、結構興味あるんだ? なんだか意外」 と言って、少しだけ口元を緩めた。
美紗は、彼女の言葉を否定しようとして、やめた。馴染みのバーで水割りのグラスを静かに傾ける男性を思い描いて動揺しているのを気取られるより、他人の恋愛事情を知りたがる品のない人間のフリをしている方がマシだ、と思った。
「いいのよ。聞きたいことあったら遠慮なく聞いて。もう当事者はいないから」
美紗は、肩をすくめてみせる吉谷にどう返答したものかと思案しながら、冷えてきたドリアを口に運んだ。コクのあるホワイトソースがかかっているはずなのに、なぜか、何の味も感じられなかった。
「同期の子も相手も、ホントに無頓着でね。仕事中でも、目が合えばお互い満面の笑みで見つめ合ってるし、廊下に出れば長々立ち話して、毎日一緒に帰るんだから。時々、二人揃ってご出勤してくる日もあったのよ」
「そこまで、どうして分かるんですか?」
「だって、前の日と同じスーツ着てくるんだもん。男の方は自衛官だから、職場に着いて制服に着替えちゃえば分からないけど、同期のほうは私服だから……。着る物が変わってなければ、もう、思いっきりバレバレでしょ」
いささか品性に欠ける話に、美紗のほうが赤面する。吉谷は構わず、胸の内に長い間ためていたものを吐き出すように、一人で話し続けた。
「それでもみんな、取りあえず見て見ぬフリしてたのよ。大人の対応ってやつ? でも、部長クラスの耳に入ったら『ジ・エンド』っていうのが、ここの慣例みたいね。プライベートな問題だけど、やっぱり職場の士気に関わるから、管理者としては黙認できないみたい」
「その……、『ジ・エンド』になったら、どうなってしまうんですか?」
平静を装って尋ねたつもりの声が、わずかに震える。
「大抵は、年度末を待って男側が異動、っていうパターンかな。自衛官のほうが配置先たくさんあるから。でもさあ、残る方だって嫌だと思わない?」
吉谷が憂鬱そうに頬杖をつくのを見ながら、美紗は、わずかに身をかがめて胃の辺りを手で押さえた。
初めて感じる、鈍く痛むような、不快感。
それを助長するかのように、次々と不穏な疑問が湧きおこった。
仕事帰りに、想う相手と時を共有するのは、許されないことなのだろうか。
共に過ごす相手が部長職についている場合は、どうなるのだろう……。
「でも、あの二人の場合は、異動するのしないのっていう前に、完全に泥沼化しちゃって」
醜悪な結末を予想させる言葉が、美紗の思考を中断させた。
「同期の子は、私には『ただの遊びだ』なんて言ってたくせに、ホントはその相手と結婚したいと思ってたみたいで……。その後、彼女が何やらかしたか、だいたい分かるでしょ? 最後は、相手の家族を巻き込んで、裁判沙汰になっちゃった」
リアルな不倫話を初めて聞いた美紗に、事の詳細を想像することはできなかった。しかし、それを尋ねる気持ちにもなれなかった。
当事者の女性が己の存在を相手の家族に知らせるような挙に出なければ、二人はもう少し長く一緒にいられたかもしれないのに……。そんなことを、ぼんやりと思った。
「結局、二人とも中途半端な時期に異動になって……。男のほうはどうなったか知らないけど、同期は全く畑違いのところに飛ばされて、一年も経たずに退職したみたい」
吉谷は、そこで大きくため息をつくと、真っすぐに美紗を見つめてきた。
「美紗ちゃんも、いずれは、……たぶん5部の配置になって、専門官を目指すことになると思うから、余計なお世話だと思って、これだけは聞いてくれる?」
「はい」
美紗も、吸い寄せられるように、吉谷を見つめ返した。観察眼の鋭そうな大きな目が、心の奥底までを見透かしそうで、怖い。
「
「そう……ですよね」
友であり良きライバルでもあった同期に届かなかった思いを一気に語った吉谷に、美紗は、かろうじて肯定の相槌を返した。
「完成された男性」という表現は、確かに、日垣貴仁のすべてに体現されているように思えた。
あの人は、何を話しても、温かく受け止めてくれる。心が通じ合っているかのように、望む言葉を返してくれる。
しかし、それは経験豊かな「完成された」人間として当然の姿。そんな人を好きになるのは、無意味……。
「ごめんね。急に変な話して」
吉谷は、黙り込んだ美紗から目を外し、テーブルの端に置いてあったメニューを手に取った。
彼女がスイーツのページを吟味している間に、美紗は、頭の中を占拠していた日垣貴仁のイメージを、何とか振り払った。水を一口飲んで、胸につかえる何かをむりやり押し流し、急いで食事を終えた。
「好きなの選んで。デザートぐらい、ごちそうするから」
メニューを美紗に手渡す吉谷は、すでに、いつもの朗らかな顔に戻っていた。遠慮する美紗に、「話を聞いてもらったお礼」と言い、申し訳なさそうに眉をひそめている。その表情に、裏の意図はないように見えた。
「美紗ちゃんは芯がしっかりしてるし、あんな話とは無縁だよね。だいたいさあ、人様の『完成品』に手を出すより、同世代の頼りない男を、焼き肉でも焼くみたいにじっくり育てるほうが、味わいがあっていいと思わない?」
吉谷は、持論を妙な言葉で例えると、「そうだ。いつか焼き肉行こうよ」と言って、いたずらっぽい笑顔を美紗に向けた。
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