送別の宴(3)
いつも何かと目ざとい2等陸佐は、日垣のグラスにワインを注いでいるところだった。
「片桐の言うとおり、今回はまさに『超』が付く栄転人事でしたね。内閣審議官に抜擢とは、大出世じゃないですか」
日垣は、出向先の内閣官房で危機管理担当副長官補室に所属することが内定していた。
主に他省庁からの出向者で構成されるこのセクションは、他国からの武力攻撃といった有事対応のみならず、国内の重大事故や大災害まで、あらゆる国家レベルの緊急事態に対応し、総理大臣を直接補佐する役割を担っている。
内閣審議官は、セクションの長である内閣官房副長官補のすぐ下に数名配置されるポストだが、その要職のひとつに選出される自衛官は慣例的に将官経験者ばかりだった。
「私も打診を受けた時は驚いたよ。
「出向は無理、という判断になって、日垣1佐のほうに話が?」
松永の問いに、日垣はやや浮かない表情で頷いた。
「穴埋め要員の調整に難航して、いよいよ揉める時間もなくなってきたという頃に、以前に世話になった上官が人事の人間に私の名前を出したんだとか……」
「結構な話じゃないですか」
「しかし、将官ポストにわざわざ格下の人間を選ばなくても」
気心知れた部下の前で、日垣は溜息をついた。
「安保問題を担う重職となると、やはり階級だけで決めるわけにもいかないんでしょう。情報畑での勤務経験は必須でしょうし、内局(防衛省内部部局)との関係も良好で、総理周辺の重鎮とも渡り合える人材となると……。当然の帰結じゃないですかね」
「正直言って、私には少し荷が重いよ」
「珍しく弱気ですなあ、日垣1佐」
口ひげをいじっていた手を止めた高峰が、年下の上官に茶目っ気を含んだ笑みを向けた。
「心配ご無用です。おそらく任期途中でご昇任なさって、階級的な問題はクリアされるでしょう。むしろ、今の段階で政府要人とのコネクションを作っておけば、後々
「私はそんな器ではないよ」
「周囲はそう思っとります」
白髪交じりの部下は、日垣の目をまっすぐに見据え、きっぱりと言い放った。そして、嬉しげにワイングラスを掲げた。
「まあ確かに、今以上に激務になることは間違いないでしょうから、手放しで喜べないところはありますな」
「平時でも、政治家相手の仕事は、なにかと夜遅くなりがちですしね」
国会対応を幾度となく経験している内局部員の宮崎が、銀縁眼鏡の下でげんなりと口を曲げる。
「タクシーチケットくらいは支給されると思いますが、それでも家が遠いと辛いですよ」
「家のほうは、来月早々に危機管理専用の指定官舎に移るように言われているよ。今いる官舎もギリギリ二十三区内だから決して遠くはないんだが、指定官舎のほうは勤務地から歩いて十五分ほどの所にあるんだそうだ」
一同が「おお」と声を上げる。トマトベースの煮込み肉をパクついていた片桐の口も思わず止まった。
「永田町の官舎……。超ご栄転だと官舎も超一等地なんすね。あまり住みたいとは思わないっすけど」
「電車がない時間帯でも呼ばれたらすぐに来い、ってことだもんな」
「連日激務でお一人暮らしでは、ますます大変ですね」
「まあっ、私が毎日ご飯を作りに通いたいですわあ」
最後に聞こえた言葉に、美紗はビクリと身を震わせた。思わず声の主を凝視する。
大須賀は、とろけそうな笑みを浮かべ、はちきれそうな胸の前で手を組んでしなを作っていた。日垣が目をしばたたかせているのが視野に入る。
どくり、と心臓が激しい音を立てた。
アルコールの入った男女の騒がしいやり取りが聞こえるが、何を言っているのかほとんど理解できない。ただ、頭の中いっぱいに奇妙なイメージが駆け巡る。
また見たことのない、日垣貴仁の部屋。
まだ見たことのない、休日の彼。
まだ見たことのない、彼の暮らし。
そこに入り込む、家族ではない女――。
「鈴置さん。どうも元気ないですねえ」
日垣ではない声に、美紗ははっと我に返った。正面にいる佐伯が、細長い上半身をかがめ、美紗を覗き込むように見ていた。
左隣にいる高峰とその隣の松永も、揃って美紗のほうに視線を向ける。
「飲みが足りんのかな」
「い、いえ……」
「あなたがいけるクチなのは皆知ってる。ワインでいいか?」
わずかに赤らんだ顔をした松永は、美紗の返事も聞かずに中身の少なくなったカラフェを手に取ると、大須賀と騒がしく言い争いをしている小坂に向けてそれを振った。
「ほら幹事! 揉めてないでワイン追加!」
「松永2佐ぁ! さっきの押しかけ女房的な発言、どう思います?」
「そんなこたどうでもいいから、オーダー入れろ」
「すいませーん。うちの幹事、気が利かなくってえ。赤ワインでいいですかあ? ワイン以外も飲み放題に入ってますけどお」
小坂の代わりに、「幹事補佐」の大須賀がテキパキと場を仕切る。松永はやれやれと言わんばかりに肩をすくめると、美紗のほうに向きなおり、にわかに真顔になった。
「何か気がかりなことでもあるのか。まあ、年度末だしな」
「何も、ないです……」
質問の意図が分からず、美紗はイガグリ頭を不安げに見上げた。
「年明けからずっと、俺の気のせいかもしれんが、……何ていうかな、少し様子がおかしいような感じがして、ちょっと気になってた」
珍しく遠慮がちな松永の言葉に、高峰と佐伯が同意するかのように頷く。
美紗は思わず身を固くした。避妊薬の副作用に悩まされたのは、飲み始めた一月半ばからひと月ほどの間だったが、特に仕事を休むこともなく、周囲には気取られずに済んだと思っていた。
よくよく考えてみれば、職場ではほとんど顔を合わせることもない日垣に気付かれたことを、一日中同じ「シマ」にいる人間たちが見逃しているはずはない。
「最近は調子よくやっているようだったから敢えて言わなかったんだが、いい機会だから、今、言っとく」
松永は、自分のグラスの中身を一口飲むと、美紗をじっと見据えた。
「プライベートな話じゃ役に立てないが、仕事絡みの問題なら可能な限り『シマ』全体でサポートすべし、ってのが俺のポリシーだ」
「はい……」
「だから、何かあるなら、愚痴でいいからとにかく話せ。それから、もし異動を打診されているなら」
松永の目が、美紗の反応を探るかのように、わずかに細まる。
「自分の希望だけを考えて、受けるかどうか決めろ。『シマ』の面々に遠慮するこたぁない。若い仲間がキャリアを積むために旅立つのを見送るのは、誇らしいことだからな。片桐がいい例だ」
「すみません」
美紗はいたたまれずに下を向いた。
自分の希望するところを知ったら、彼は何と思うだろう。
自分の希望を優先して出した結論に、どんなにか失望するだろう――。
「別にあなたが謝る話じゃないだろ」
松永は破顔一笑すると、グラスの中のワインを一気に空にした。
部下たちが好き勝手に語り合う中、日垣は、美紗と松永のやり取りを伏し目がちに聞いていた。端の席で小柄な体をますます小さくする女を見やる眼差しは、深い憂いと戸惑いの色に満ちていた。
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