無言の花束(1)
三月末日、統合情報局では四月一日付けで異動する佐官の見送り行事が行われた。
満開に近い桜が青空に映える中、特に急ぎの案件を抱えていない者たちが建物の外に出て長い人垣を作る。
一週間ほど前に片桐を指揮
美紗は、大ぶりの花束を抱え、建物の入り口近くに控えていた。部長職の面々が居並ぶ傍には、美紗と同様に花束を手にした女性職員が、制服と私服合わせて十名ほどたむろしていた。別棟で勤務している者も混じっているのだろう。半数は見知らぬ顔だ。
ほどなくして、人のよさそうな顔をした総務課長が建物から出てきた。彼の後ろから、濃紺の制服が似合う長身の1等空佐が姿を見せる。
雑談をしていた見送りの人垣がさっと姿勢を正した。人の話し声が消えると、都会の空を飛ぶ野鳥のさえずりが聞こえてきた。
美紗は奇妙な緊張感を覚えた。
日垣を先頭に、
「転出者を紹介いたします。日垣1空佐は、統合情報局第1部長から内閣官房内閣審議官へ」
総務課長の紹介を受け、日垣は一歩前に出て直立不動の姿勢を取った。佐官用の正帽のひさしを飾る銀色の桜花・桜葉模様の刺繍が、春の陽ざしを受けて柔らかく光った。
美紗は、生花の香りがほのかに漂う花束を強く抱きしめた。指揮官然とした彼の立ち姿は、あまりにも遠く感じられた。
あの人が、行ってしまう……
ふいに強烈な喪失感に襲われる。彼の次の任地は地下鉄で二駅しか離れていないと分かっているのに――。
転出者の階級氏名と異動内容をすべて読み上げた総務課長は、「花束要員」として待機する列の先頭で立ちすくむ美紗に、にこやかな顔で目配せをした。
美紗は、自分の足がぎこちなく動くのを感じながら、居並ぶ転出者たちの前を歩いた。日垣の正面に立ち、姿勢よく佇む彼を見上げると、切れ長の目が穏やかに美紗を見つめ返して来た。
美紗は、唇を噛んだまま、大ぶりの花束を差し出した。
もし、あなたが今日、東京を離れることになっていたら
私はこの花束を平静な心で渡すことができたのだろうか
笑顔のままさよならを言うことができたのだろうか――
日垣は背を屈め、無言で花束を受け取った。いつものバーで美紗に和やかに語りかけ、ほの暗い部屋で美紗の身体を優しく慈しんだ唇が、かすかに「ありがとう」と動いたように見えた。
見送りの人垣から拍手が沸き起こる中、「職務」を果たした女性職員たちが退場し始める。
美紗はふらりと日垣から離れ、慌てて彼女たちの後に続いた。
「転出者挨拶。転出者を代表して、日垣1佐、お願いします」
居並ぶ転出者たちに促され、日垣は列の中央に歩み出た。そして、見送りに集まった者たちをまっすぐに見渡すと、マイクも使わずにゆっくりと話し始めた。
「この二年半余りの間、統合情報局第1部長として我が国の情報活動の最前線に携わり、非常に多くの経験をさせていただきました。任期中には、我が国の安全保障環境にも大きな影響を及ぼし得る国際問題が数多く発生し……」
普段の耳に心地よい低い声とは少し違う、青空に響き渡るような声を聞きながら、美紗は見送りの人垣の後ろをとぼとぼと歩いた。直轄チームの面々を探したが、屋外の行事に参加する自衛官はみな正帽を被っているため、目印になるイガグリ頭は見つけられなかった。
「……高い専門性を存分に発揮し、労を惜しまず日々研鑽に励む皆さんと出会えましたことは、私にとって最大の幸運であります……」
美紗はふと立ち止まった。いつのもバーが入るビルの屋上で日垣と話した時の光景が、ぼんやりと思い出された。
眼下に広がる初冬の街灯りを眺めながら、彼はパイロットになる夢を絶たれてからの二十年間を静かに懐かしんでいた。
『なんだかんだ言っても、結局、運はいい方だったと思っている。たくさんの素晴らしい人間に出会えたし、……君にも会えた』
美紗の目からこぼれた涙を拭った大きな手の温かさが、ほんのりと蘇る。
あなたは今も、運が良かったと思ってくれているの?
家族を裏切らせた私に出会って、運が良かったと――
「あ、美紗ちゃん」
背後から名を呼ばれ、美紗ははっと振り返った。アイボリー色のワンピーススーツを春らしく着こなした吉谷綾子が駆け寄ってきた。
「ギリギリ間に合ったかな」
「日垣1佐の見送りにいらしたんですか?」
「うん。今朝、メグさんが見送り行事のこと教えてくれてね。ちょうど仕事のキリがついたから、ちょっと抜けて来たの」
吉谷は、見送りの列にわずかな隙間を見つけると、そこに美紗を押し込み、己は美紗の背後に立った。
「日垣1佐、どこかの基地司令にでもなるのかと思ったら、内閣審議官なんて、ホント想定外よね。アメリカでいう『ホワイトハウス入り』みたいなものでしょ? 次に市ヶ谷に戻ってくる時はどんなおエラ様になってるのかな」
「次に……」
美紗は、挨拶を結ぶ1等空佐をぼんやりと見つめた。
二年の内閣官房出向の後、彼は地方部隊で要職を務め、五、六年後に再び市ヶ谷に帰ってくるのだろう。
その間、自分はどうしているだろう。彼をずっと待ち続けるのか、自分自身ですら分からない。ただ一つ確かなのは、待っていてはならないということだけ……。
美紗の周囲で、再び拍手が起こる。挨拶を終えた日垣は、まさに退場しようとしていた。見送り行列の先頭に立つ一団に歩み寄り、恰幅の良い背広の男と親しげに話している。
「副局長が見送りに来てる。局長と三人で酒仲間だったらしいもんね」
吉谷はクスリと笑うと、美紗のほうに顔を寄せた。
「
統合情報局の主要幹部たちとひとしきり挨拶を交わした日垣は、やがて、左手に花束を抱えたまま長身の背をまっすぐに伸ばし、右手を正帽のひさしに当てた。キャリア官僚である副局長が会釈で応え、部長クラスは一斉に敬礼して挨拶を交わした。
それが合図となったかのように、見送りの列に並ぶ自衛官たちが、次々と挙手の敬礼をする。
日垣は、同じく挙手の敬礼で彼らに応えながら、人垣に沿って歩き始めた。他の転出者も日垣の後に続いた。
見送りの列が、彼らを先導するかのように、敬礼の波を描いてゆく。背広の面々は拍手を送り、通り過ぎる転出者たちに十度の敬礼で惜別の意を示した。
美紗は、所々で歩を緩めながら徐々に近づいてくる日垣貴仁をじっと見つめた。再び、激しい淋しさに胸がいっぱいになる。
「日垣さん」
自分の前を通り過ぎようとする彼の名を、無意識のうちに呼んでいた。
「日垣1佐、ご栄転おめでとうございます」
ほぼ同時に発せられた吉谷の快活な声が、美紗の口からこぼれた言葉をかき消した。
日垣は、二人にわずかに笑いかけ、歩きすぎて行った。
人垣の先端までたどり着いた転出者たちは、見送る面々を見渡せる位置に進み出た。そして、揃って挙手の敬礼をして最後の別れを告げた。
一層大きな拍手が彼らに送られ、見送り行事は滞りなく終了した。
人垣を作っていた人間たちが、静かにばらけ始める。
「美紗ちゃん、ちょっといい?」
事務所に戻ろうとする美紗を、吉谷はやや険しい表情で呼び止めた。
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