無言の花束(2)
「ちらっと聞いたんだけど……」
吉谷がためらいがちに話し始めた時、職場に戻りゆく人波の中から「吉谷さあん!」と叫ぶ声が聞こえて来た。
強烈なパッションピンクの上下を着た大須賀が、はち切れそうな胸を重そうに揺らしながらのろのろと走ってくる。その後ろを、正帽を被った直轄チームの面々が、大須賀とほとんど変わらないスピードで歩いていた。
「ああ、『王子様』が行っちゃったあ。もう明日から仕事来たくないっ」
「ちゃんと日垣1佐の見納めできたんでしょ? ご栄転の『王子様』を祝福してあげなきゃ」
「でもお、この心の穴をどうやって埋めたら……」
「後任の1部長に期待したら?」
吉谷が呆れ顔で後輩をたしなめている隙に、美紗は、傍を歩き過ぎようとする松永の後について、その場から逃げようと試みた。
しかし、大須賀が間延びした声で彼を呼び止めてしまった。
「松永2佐ぁ。次の1部長ってどんな人なんですかあ?」
「西野1佐って陸の人間だ。俺の昔の上官なんだが、レンジャー出身で」
「レンジャー? まさか、ヒグマみたいなオヤジだったりしないですよね」
露骨に眉をひそめる大須賀に、松永は珍しく大きな笑い声を上げた。
「ヒグマか! まさに言い得て妙だな。西野1佐は、縦横にデカいし声もデカイし、せっかちで気が荒いときてる。前任者とは見てくれも中身も思い切り真逆だ」
「最悪じゃないですかあ! 『王子様』の後がヒグマなんて耐えられない!」
大須賀は駄々をこねる子供のように大きく首を振った。パッションピンクに包まれた胸がこれ見よがしに跳ねる。それをちらりと見やった3等海佐は、愛嬌のある丸顔を彼女に寄せた。
「心配ご無用。『王子様』ならここにもいるだろ?」
「……何言ってんのこのヒト」
化粧の濃い顔がギロリと睨んでも、小坂はいかにも慣れた様子でにやけた笑みを浮かべた。
「今日は愚痴でもこぼしに飲み行かない? 『王子様』がごちそうしてやっから」
「言っとくけど、今日のアタシ、飲んだら絶対暴れるからね」
大須賀は鼻から大きく息を吐くと、一人のしのしと歩き出した。一方の小坂は、ガキ大将のように歯を見せ、吉谷と美紗に向かって意気揚々とVサインをした。そして、飛び跳ねるように大須賀の後をついて行った。
「あの二人、何か仲良くない? メグさんタメ口になってるし」
「そういえば、そうですね」
あっけに取られる吉谷に、美紗は「直轄ジマ」の送別会をめぐる一連の経緯を話した。
「メグさん、日垣1佐の隣に座れたって喜んでたけど、実は海の小僧の策略にハマっちゃってたのか」
「なかなか侮れん『小僧』でしょう」
高峰が口ひげに手をやりながら、楽しそうにほくそ笑んだ。正帽を被った彼は、3等陸佐の階級を付けているにも関わらず、口ひげのせいで将官のような風格を漂わせていた。
「すっとぼけた物言いで、いつの間にか人の心に入り込んでくる。それを地でやれるんだから、大したもんだ」
「根はいい人なんですよね?」
独身の後輩を心配する吉谷に、高峰は「どうだろうねえ」とすまし顔で応えた。
「落ち着きはないし、
「西野1佐は、小坂のような奴は特に可愛がると思いますね。本人が騒々しいですから」
松永の微妙なコメントに、年上の部下は「そりゃエラいことですなあ」と楽しそうに笑った。
しかし、松永のほうはふと浮かぬ顔になった。
「どちらかというと、片桐の後任のほうが心配です」
片桐1等空尉の後釜は、松永とほとんど年の変わらない3等空佐だった。片桐と同じ発令日付で遠方から異動してきた彼は、発令日の翌日に「直轄ジマ」に顔を出したが、次の日から土日を挟んで二日間、幼子二人を抱えた妻の具合が悪いと言って欠勤した。
長距離の移動を要する人事異動では、指揮官職に就く者以外は、着任までに一定の猶予期間が与えられている。しかし現実には、引っ越しなどの諸作業が終わり次第、異動者は速やかに新しい職場で業務をスタートさせるのが常だ。
件の3等空佐も慣例に習うはずだったが、不運にしてその意気込みは初っ端からつまずく格好になった。市ヶ谷勤務が初めてという部下の様子に不安を感じた班長の松永は、日垣と相談の上、異動完了日となる四月一日まで彼を自宅待機扱いとすることに決めた。
「本人は
淡々と語る高峰に、松永は憂鬱そうな溜息を返した。そして、不安げに二人の会話を聞いていた美紗に、決まりの悪そうな笑みを向けた。
「今回の件では鈴置に助けられたな。俺が奴に『三月いっぱい来なくていい』って言った時はすっかり気まずい空気になっちまって、どうしようかと思ったが……。ああいう時に『女性の視点』ってのが活きるんかな」
二日分の欠勤の後、再び職場に出て来た途端に「自宅待機」を言い渡された3等空佐は、はた目にも分かるほど気落ちしていた。
彼に恐る恐る声をかけたのは、「直轄ジマ」で最も若い美紗だった。
遠方への転勤、故郷から出たことのない妻、幼い子供たち……。気の毒な新入り幹部の置かれた状況は、いつもの店で日垣が水割りを片手に語っていた昔話を思い出させた。美紗は、「以前にいた職場で耳にした話」として、夫の転勤のために慣れない環境で子育てをする女の気苦労を、場合によってはそれが家族を引き裂く原因になってしまうことを、遠慮がちに話した。
大人しそうな3等空佐は、未婚の女性職員の話に真剣に耳を傾けた。そして、納得して松永の指示を受け入れたようだった。
「うちのカミさんは心身ともに頑強なタイプだし、俺の周囲にも『カミさんがうつっぽい』なんて言う人間はいなかったから、正直なところ、今回はどう対処したらいいか分からなくってな。鈴置が言ってた『カミさんがうつ病』って人は、陸の奴なのか?」
何気ない問いに、美紗はギクリと固まった。
「あ、その……」
「あなたが
「でも、人から聞いた話なので、本人が陸の方かどうかは……」
「そうか。ま、詮索することじゃないよな。それより、片桐の後任をよろしくな。あいつより十以上トシ食った3佐じゃ、ちとやりづらいかもしれんが」
松永は己の不安を振り払おうとするかのように、青空を仰いで大きく伸びをした。
その背後で、内局部員の宮崎が銀縁眼鏡をギラリと光らせた。
「こう言っちゃなんですけど、本人もちょっと頼りない雰囲気でしたよね。3佐の割に」
「まあな……」
「そうだ、吉谷さん。空幕で何か噂でも聞いてないですか?
小声になった銀縁眼鏡に、吉谷は腕を組んで思案顔になった。
「うーん、私は聞いたことないけど、周囲を当たれば何か出てくるかも。そのヒトの元上官って人が同じ部の中にいるかもしれないし」
「よろしくお願いします」
軽く会釈するキャリア官僚に、半年ほど前に航空幕僚監部へ引き抜かれたベテラン職員は、艶やかな笑みを返した。
いかにも水面下で動くのが得意そうな二人に、松永は苦笑した。
「あなたたちを敵に回したらヒドイ目に遭いそうだな。取りあえず、奴も明日から出てくるし、しばらく様子見でいくよ。不安材料はあるが、悪い人間じゃないのは確かだ」
「どこかの副長の従兄のように、無意味に強気な御仁よりは、ずっとマシでしょう」
高峰の言葉に、松永と宮崎は乾いた笑い声を立てた。
建物入り口に向かって歩き出す彼らの背中を、吉谷は立ち止まったまま鋭く見やった。そして、三人の後を追おうとした美紗を引き留めた。
何かをうかがうような視線が、美紗に絡みついた。
「こういうこと言うの、良くないのかもしれないけど……」
「何の、お話ですか?」
春の陽ざしに溢れているはずの空間が、急にひんやりと感じられる。
「事業企画課の八嶋さん、明日付けで5部に異動なんだってね」
「……よく、ご存じですね」
「この間、メグさんが愚痴ってたのよ。嫌な奴が同じフロアに来ることになったって。5部の専門官ポストが空いたら美紗ちゃんが一番に推されると思ってたのに、どうして八嶋さんなんだろ」
「八嶋さんは、……私よりずっと語学できますし、情報局の勤務も長いですから」
予想とは違う話題に、美紗は思わず頬を緩めてしまった。吉谷はそれを自嘲めいた笑みと受け取ったようだった。
「専門官の仕事って、語学ができりゃいいってもんじゃないわよ。年功序列なんて今時あり得ないし。5部の人たちだって、今までほとんど接点のなかった人より、美紗ちゃんに来てほしいと思ってたんじゃないかしら」
「私は、まだ専門官のレベルにはほど遠いですから」
「それは八嶋さんも同じ。これから専門教育を受けて経験を積んでいくんだから。あんのイガグリ頭、美紗ちゃんを手放したくなくて人事調整が来たのを握りつぶしたんじゃ……」
「それはないです。絶対」
やや泥臭い推測を、美紗は慌てて否定した。それでも、吉谷は形の良い唇を不機嫌そうに尖らせた。
「もしかして八嶋さん、5部に直接『売り込み』にでも行ったのかな。あの子、いつもオイシイ話を探して辺りを嗅ぎ回ってる感じだもんね」
「さあ……」
適当な相槌を打ちながら、美紗は心の中で震えた。
かつて統合情報局の主と言われた大先輩は、ほとんど言葉を交わす機会もなかった八嶋の気質を正確に見抜いている。
彼女の目に、大きな秘密を抱える気弱な女の胸の内は、どこまで露になっているのか――。
思わず半歩後ずさる美紗に構わず、吉谷はセミロングの艶やかな髪をかき上げてしゃべり続けた。
「それにしても、人事の話に1部長がノータッチなんてあり得ないと思うんだけど。日垣1佐、5部の専門官ポストの話が出た時、美紗ちゃんを推そうとは思わなかったのかしら。彼も意外と人を見る目ないのね」
「私は、今のままでいいんです」
「人事なんて運に左右されることばかりだから、あまり気落ちしないで。美紗ちゃんに合うポストは情報局の外にもたくさんあるし、今の処遇に不満だったら、希望出して情報局を抜けるのも一つのテよ」
百戦錬磨の大先輩に、美紗は小さな声で応えた。
「別に、不満に思うことはないです。今のお仕事が、……好きなので」
「そうなの? それなら、いいけど……」
澄み渡る青空とは対照的な薄暗い笑顔を、吉谷は不思議そうに見つめた。
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