新たな春(1)


 翌日、統合情報局第1部のフロアは朝から奇妙な緊張感に包まれていた。そこに現れた大須賀恵は、素早く気配を察し、珍しく静まり返った「直轄ジマ」にそろりと歩み寄った。


「ねえ、美紗ちゃん」


 彼女らしからぬ囁き声に、美紗の正面に座る3等海佐のほうが先に応じた。


「何しに来たんだよ」

「あれ、小坂3佐。席替えしたのお?」

「先週からこの場所だよ。一人メンツが入れ替わったから」


 小坂は、窓際でイガグリ頭と話している四十前後の航空自衛官を指さした。

 指揮幕僚ばくりょう課程に入校した片桐の後任者である武内3等空佐は、同じ3佐でも在階級年数の関係で小坂より上位に位置付けられた。そのため、序列に応じて若干の席替えが行われたのだ。


「ふうん。でさ、日垣1佐の後釜ってどんな感じ?」

「新しい1部長は『ヒグマ』だって聞いてただろ?」


 小坂はちらりと第1部長室を見やり、ますます声を低めた。


「アタシ、信じたくない情報はこの目できっちり確かめないと気が済まないの」

「それでわざわざ見に来たってのかよ。新1部長に比べたら、オレ間違いなく『王子様』だぜ。断言する」

「全然意味分かんないんだけど」


 大須賀が眉を吊り上げてローズピンクの唇を尖らした時、フロアの一角でドアが荒々しく開け放たれる物音が聞こえた。

 「直轄ジマ」の一同と大須賀が、音のしたほうを恐る恐る見やる。


 第1部長室の戸口には、1等陸佐の階級を付ける縦横に大きな自衛官がどっしりと立っていた。直轄班長の松永より若干毛足の長い灰色の髪はワイルドに逆立ち、ゲジ眉の下の大きな目は、左胸に煌めくレンジャー章と同じく、厳めしい光を放っている。


「アタシ、帰る……」


 大須賀が「直轄ジマ」から一歩離れた瞬間、新しい第1部長はフロア中に響くようなしわがれ声で「松永ぁ!」と叫んだ。

 先任の佐伯3等海佐は、雷に打たれたかのごとく、ひょろりとした上半身を硬直させた。内局部員の宮崎は銀縁眼鏡をギクリと光らせ、小坂はずんぐりした身体をぶるっと震わせる。新入りの3等空佐は、カメのように首をすぼめて他の班員の様子をうかがい見た。


 しかし、陸の二人は粗野な人種に慣れているのか、顔色一つ変えず、のしのしと歩み寄る深緑色の制服をじっと見据えた。

 名を呼び捨てにされた松永が静かに立ち上がる。


「ちょっとスケジュール調整頼まれてくれんか? これから局長のトコ入らんといかんくなった。2部との会議は午後のどっかにしてもらえると……」

「了解です」

「あ、それから」


 松永から美紗に視線を移した巨漢の第1部長は、書類が挟まれたバインダーを数個突き出した。高峰がそれらを素早く受け取り、ぎこちなく腰を上げた美紗に手渡す。


「それ全部見終わってサインしといたから、それぞれ担当の部に戻して欲しいんだが、そういうのは、アンタに頼んでいいんかな?」

「は、はい……」


 美紗はバインダーを握りしめ、完全に逃げ腰になった。見た目も口のきき方も相当に荒々しい新任の上官は、どうにも怖い。

 そんな心の内を見透かしたかのように、第1部長は強面の顔に無理やり笑顔を作った。


「俺さ、よく見た目がこええとかガラわりいとか言われんだけど、全然そんなことねーからな。全く、どこがどう怖いんだよ、なあ?」

「ご自覚なかったとは驚きです」


 松永がニコリともせずに茶々を入れると、元レンジャーの上官は、食ってかかりそうな勢いで「何ぃ!」と喚いた。佐伯が思わず腰を浮かせたが、当の松永は面倒くさそうに彼をいなした。高峰も、口ひげに手をやったまま、ヒグマとイガグリ頭の騒々しいやり取りを面白そうに眺めている。


「うちのシマは、声の大きい人間には慣れていないんですよ。高峰以外は皆、前任の部長の時にここに来た者ばかりですから」

「前任って日垣か。あいつはいかにも優男だもんな。あんなんと比べられてたまるかっての」


 フンと鼻を鳴らす1等陸佐に、美紗はビクリと黒髪を揺らした。これから第1部を束ねることになる彼は、「色」が違うにも関わらず、日垣貴仁と何がしかの繋がりを持っているのか……。



「まあ、ええわ。俺もなるべく小さな声で喋るようにすっから、そんなに縮こまらんでくれ」


 そう言う傍から、第1部長は野太い声で豪快に笑った。しかし、美紗の隣で唖然と立ち尽くす大須賀の豊満な胸元が目に入ると、口を大きく開けたまま、金縛りにあったかのように固まった。

 厳めしい光を放っていた目が、にわかに狼狽の色を帯びる。


「あーっと、そ、そちらは、どちらさん?」

「は、8部のっ、大須賀事務官ですっ」


 大須賀は大きく身震いした。ボリュームのある胸が音を立てそうなほど大きく揺れる。そのたわわなラインから無理やり視線を外した1等陸佐は、大仰な咳ばらいをすると、かかとを合わせて直立不動になった。


「こりゃあどうも。本日、統合情報局第1部長を拝命いたしました、西野1佐です。以後よろしくっ!」




 西野が上機嫌で個室に戻っていくと、「直轄ジマ」の一同はへなへなと脱力した。


「……ずいぶんテンション高い『ヒグマ』ですね」

「あれでも根はいい『ヒグマ』だ。有能な指揮官なのは俺が保証する。日垣1佐とは防大ぼうだい時代の同期で、今も仲いいみたいだしな」


 仏頂面で肩をすくめる松永に、小坂は丸顔を勢いよく横に振った。


「信じれん……。あのヒトと日垣1佐、思いっきり真逆じゃないですか」

「それは否定しない。西野1佐はせっかちで激しやすいほうだし……。まあ、分かりやすくて、やり易いっちゃあやり易いだろ? すぐ慣れる」

「絶対無理。ああいうヒト、海にはまずいませんもん。空もそうでしょ?」


 急に話を振られた武内は、困ったような笑みを浮かべ、あいまいに頷いた。


 宮崎に「3佐の割に頼りない雰囲気」と評されていた彼は、目立たない背格好がそう見せるのか、それとも慣れない市ヶ谷勤務に緊張しているせいなのか、いささか緩慢な印象を与える人間だった。

 同じ温厚そうな物腰でも、同期トップを走る実力と実績に裏打ちされた自信を滲ませる日垣貴仁とは、何かが違う。


 一瞬生じた間を、大須賀が大きなため息で埋めた。


「アタシも統合情報局ここに勤めて十年近くなりますけど、ああいう『ヒグマ感』って、やっぱ陸自のヒトだけですよね。第8部うちのマターで何か報告事項があったら、あのヒグマのトコに指導受けに行くのかあ。やだなあ……」

「あなたは大丈夫じゃないかねえ。西野1佐には早速気に入られたみたいだから」


 高峰が口ひげをいじりながら小さく笑うと、豊満ボディの女性事務官は血相を変えて後ずさった。


「それは、……困ります!」

「オレだって困るよ。やっとライバルがいなくなったのに!」


 小坂は手にしていた回覧書類をぐしゃりと握りつぶした。「直轄ジマ」のベテラン勢は、怪訝そうに彼を見やり、やがてゲラゲラと笑い出した。


「ライバルって、日垣1佐のこと言ってんのか」

「あのお人と同列に並ぼうとは、厚かましいにもほどがある」


「これでも、昼休みに走って五キロ減量に成功したんですよ。この三か月の努力を経てやっとチャンス到来ってとこで、あの『ヒグマ』にちょっかい出されてたまるか……」


 小坂の声がやや大きくなるのと同時に、再び第1部長室のドアが叩きつけられるような勢いで開いた。

 西野が巨体を揺らして部屋から出て来た。


「じゃ、俺ちょっと局長んトコ行ってくっけど、……日垣のライバルのヒグマって何だあ?」


 鋭くいかつい目が松永を見、そして顔面蒼白になる3等海佐のほうに向けられる。


「あっ、いやっ、自分もっ、調整行ってきますっ!」


 小坂は、椅子を跳ね飛ばさんばかりに立ち上がると、手ぶらのままドタバタとどこかへ走り去ってしまった。

 場に残された一同は、一様に背を丸め、ヒグマの第1部長を伺い見た。


「あいつ、小坂っつったか? 何か落ち着かねー奴だな。の人間はもうちっと静かなんかと思っとったが」

「彼は海自始まって以来の変わり者です。私の指導が至りませんで、申し訳ありません」


 小坂と同じ制服を着る佐伯がしおれるように頭を下げると、西野は面白そうにほくそ笑んだ。


「ちゃんと仕事が回ってんなら別に構わねーよ。しかし、日垣も前に言っとったが、ここの壁ホント薄いな。お前らの話し声、俺んトコに結構筒抜けだぞ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る