送別の宴(2)


 三月中旬に入って間もなく、大須賀の選んだイタリアンレストランで、「直轄ジマ」の送別会が行われた。


 可憐な草花の寄せ植えで春らしく飾られた店構えに、美紗は見覚えがあった。


 ほぼ一年前の春、当時は統合情報局第1部の総務課にいた吉谷綾子に連れられて、この店に来た。その時はパスタ料理を食べながら、「お気に入りの『王子様』だった3等陸佐が転勤してしまった」とふざけ半分に嘆く吉谷の愚痴を聞き、情報局内にいい「王子様」候補はいないのかなどと浮ついた話をした。

 そして、過去に吉谷の同期が起こしたという不倫事案を聞かされた。


 良き友人でありライバルでもあった同期が家庭持ちの幹部自衛官と関係し無様な騒動を経て退職に追い込まれた、と語っていた吉谷の寂しそうな目が思い出される。



『四十代の家庭持ちは、若いのに比べて年の分だけ経験があって当然だし、結婚して子供持って人間的にも修行してる。だからご立派に見えるだけ。そんなのを好きになったって、意味ないじゃない』



 メンターでもあった大先輩の忠告に従うことは、結局、できなかった。

 意味のない恋をした女の心情が、今はよく分かる。




 美紗は、テンション高く上ずった声で喋る大須賀に先導されて店内に入る長身の背広姿を見ながら、唇を引き結んだ。



 大丈夫

 私は、吉谷さんの同期の人とは違う

 絶対に、あの人に迷惑なんてかけない――




 さほど大きくない店の奥まった一角に、九人分のスペースが用意されていた。大須賀は日垣と片桐を奥側の真ん中の席に座らせると、己はさっさと意中の人間の隣に収まった。


「あっ、大須賀さん! 『幹事補佐』は幹事の隣だろっ」

「席次を決めるのは『幹事補佐』の特権でございましてよ」


 普段にも増して濃厚メイクの大須賀は大げさに高笑いした。小坂が丸顔を膨らませる。


「忙しい1部長をお招きできたのは誰のおかげだと思ってんだよ」

「はいはい、小坂3佐殿のご人脈の賜物なんでしょー」


 大声でやり合う二人を、日垣は苦笑いしながら制した。


「片桐の送別会に私まで便乗させてもらって、ありがたく思ってるよ。せっかく声をかけてくれたのに一時間ほどしかいられなくて申し訳ない。八時から別の会合があって」

「ホントにお忙しいところ、わざわさお時間作ってくださって、嬉しいですわあ」

「小坂の将来がかかっていると聞いたからね」


 切れ長の目がいたずらっぽく細まると、男性一同が含み笑いをした。すぐに意味を理解した大須賀は、にやつく小坂に食って掛かった。


「ちょっと! 日垣1佐に何て言ったんですか!」

「僕の運命の出会いがかかってるので何とかしてください、って言った~」

「何それー!」


 再び幹事と「幹事補佐」が賑やかに言い争う。それを見やりながら一番端の席に座った美紗は、奇妙な安堵感を覚えていた。

 勘のいい直轄班長と内局部員が同席する中、日垣を目の前にして素知らぬ顔を通さなければならないが、存在感のある大須賀はいい隠れ蓑になってくれそうな気がする……。



 騒々しい乾杯が終わると、片桐は、談笑する周囲に構わず、テーブルの上に並ぶ香り豊かな料理を次々と己の取り皿に載せた。


「もうすぐスパゲティもカレーもすき焼きも好きな時に食えなくなるかと思うと、何だかサミシイっす。今のうちにいろいろ食いだめしときたい気分で」

「メシ屋なら、のほうが市ヶ谷よりよっぽどたくさんあるだろ」


 CSシーエス(空自の指揮幕僚課程)に入校する片桐が翌月から通うことになる幹部学校は、最寄りの恵比寿駅まで歩いて十分足らずという好立地にあった。有名なビールの名を冠した街には、居酒屋から高級レストランまで、あらゆる種類の飲食店が揃っている。

 チーズたっぷりのピザを子供のようにほおばる1等空尉を怪訝そうに見た松永は、その理由に思い当たるとニヤリと口角を上げた。


「ああ、夏までにはご結婚だったか。タイ料理のカノジョさんと」

「式は七月の頭なんすけど、ゴールデンウィークから同居の予定で」

「もしかして、マリッジブルーですか? 食の不一致で」


 上半身をひょろりと伸ばした佐伯に、片桐は口を動かしながら正直に頷いた。


「なんですか? タイ料理の彼女って」


 大須賀が異様にまつげの長い目を見開く。小坂が年末の納会での出来事を面白おかしく解説すると、恋愛話の好きそうなアラサー女は遠慮なく大笑いした。ふくよかな体が揺れるたびに、ニットのセーターが描く巨大な丸いラインもゆさゆさと上下に揺れる。


「全く、嫌味に贅沢な悩みだよな。生臭い飯でも作ってくれる人がいるだけ有難いと思えよ」


「あらあ。アタシ、片桐1尉の気持ち、ちょっと分かるわあ。ご飯は大事だもん」


 いかにも食欲旺盛に見える大須賀は、大口を開けてトマトのブルスケッタを食べると、片桐ににまりと笑いかけた。


「カノジョさん、お仕事してるのお?」

「派遣の仕事やってんすけど、今の契約が切れたら辞めるって言ってまして」

「そっかあ、それじゃますますご飯の主導権はカノジョさんに握られちゃうね。早いトコ自分の食の好み言ったほうがいいよ。あとさ、休みの日に片桐1尉が自分の食べたいもの作って奥さんにごちそうするってのも、アリじゃない?」


 年上女性の助言に、結婚を控えた男は何度も首を縦に振った。


「なるほど。家事を手伝うオトコを演じて自分の好きなものを作るか……。料理なんてほとんどやったことないっすけど、検討の余地っすね。僕の彼女、一度ハマると長いから、黙ってたらあと五年はタイ料理食わされそうだし」

「移り気なヒトよりずっといいんじゃない?」

「そうなんすかねえ」

「だあって、一度好きになったら末永~く愛しちゃうタイプってことでしょ? 片桐家はきっと、何年たってもずうっと新婚いちゃラブ状態だわね」


 大須賀がピンクに艶めく唇を横に広げると、若々しさを残す1等空尉は途端に耳まで赤面した。

 周囲の面々が派手に冷やかす。


「ぼ、僕のことより、日垣1佐のご栄転話を聞いたほうが有意義ですよっ。大須賀さんもそっちのほうがいいでしょっ」


 片桐の苦し紛れの返しに、大須賀はすっかり顔を緩ませた。

 一方、突然話を振られた日垣は、「特に面白い話はないよ」と言って、苦笑しながら前髪に手をやった。


 職場ではなかなか見られない、リラックスした時の彼の仕草。


 美紗は、口に含んでいたワインをごくりと飲んだ。


 素に近い彼の姿を、自分ではない別の女が、自分より彼に近い位置で、嬉しそうに見つめている……。


 顔が強張っているような気がして、美紗ははっとうつむき、隣の高峰のさらに向こう側に座るイガグリ頭を窺い見た。

 

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